第四章


 不安を抱いたままのエレナは、浮かれない顔をして家の中へ入っていった。
 何かが迫ってくる恐怖は、心をすっかり怯えさせ、顔色も青白く変えていた。
 思いつめる行為はストレスとなり、体力も消耗し、脱力しかけている。
 俯き加減に引きずるように歩くその姿をシスターパメラが見て、変に誤解してしまった。
「エレナ、一体どうしたの。カイルに何かあったの?」
「……」
 カイルの事故の事はすっかり忘れてしまい、エレナはすぐに答えられなかった。
 側に寄ってきた子供達も、それを見て、不安になってしまった。
「もしかしてカイル死んじゃったの?」
 辺りは騒ぎだして、シスターパメラまでもが真に受けてうろたえた。
 その騒ぎを見てエレナは我に返った。
「ちょっと待ってみんな、カイルは元気だったわ。怪我も大した事なかったわ。ちょっと落ち着いて」
 辺りはざわめき、泣く子も現れ、エレナは収拾させるのに一苦労だった。
「だったら、なんでそんなに暗いんだよ」
「エレナ、最近おかしいを通り過ごして、もう訳わかんない」
 子供達は惑わされたことを怒っていた。
「エレナ、でも顔色がよくないわ。何かあったんじゃないの」
 シスターパメラはそう聞いたが、エレナはちょっと疲れただけと一言言って自分の部屋へと行った。

 二階にあるエレナの部屋は、狭いが、エレナが唯一一人になれる場所だった。
 ベッドと机と箪笥がひしめき合って窮屈ではあるけれど、部屋を与えられるだけでもありがたかった。
 殺風景な部屋で、ライアンのコートが存在感たっぷりに目に付いた。
「また返しそびれちゃった」
 早く返さなければならないのに、中々返せない事がもどかしい。
 エレナはそのコートを手に取り、ライアンの暖かかった背中を思い描いて抱きしめた。
 今は誰かにすがっていなければ、エレナは耐えられなかった。
 机の上に置いていたオルゴールを手に取り、蓋を開ける。
 いつもと変わらないメロディを奏でているそのオルゴールの音色は、一体何を自分に伝えたいというのだろうか。
 寂しいとき、いやなとき、辛いとき、何か悲しみがある度に、このオルゴールの音色を聴いてきた。
 慰めを求めるためだけに、それは音楽を奏でているのだろうか。
 決して聴き飽きる事はないが、これを聴く度に何度自分はいやな思いを抱いたのだろうか。
 ベッドに腰掛け、ぼーっとしていると、いつか丸めて捨てそびれた差出人のない手紙が、部屋の隅に転がってるのに気がついた。
 エレナは突然、公園で声をかけられた男の言葉を思い出した。
『預かってるはずだ。まだ気が付いてないのならそれを探せ。時間がない』
 ──一体皆何を探しているのだろう。
 自分が何かを知っているから、追いかけられる。
 全く何も知らないというのに。
「もう、いやー」
 エレナの感情は高ぶり、胸が潰されそうに苦しくなった。
 ベッドにうつぶせになり、咽び泣いてしまう。
 さっきまで鳴っていたオルゴールの音色も、中途半端なところで音を鳴らさなくなっていた。


 仕事を終えたライアンが事務所に戻ってきた時、荒くドアを開けて感情を荒げても、ハワードはいつもと変わらず、黙々とデスクについて、自分の仕事に集中していた。
 あてつけのようにどさっとソファーに座って、不機嫌さを見せ付けても、ハワードは何も言わなかった。
 謝れとは言わないが、ライアンの露骨な態度ですら無視を決め込んでいる冷血なハワードに、ライアンはイライラしだした。
 文句の一つでも言わなければ気がすまない。
「あの子が言ってたぜ、これから気をつけるからって」
 嫌味っぽく、罪悪感を植えつけるようにライアンは言ったつもりだが、ハワードはそうは取らなかった。
「そうか」
 ライアンの顔も見ずにコンピューターのキーボードをカチャカチャ打っていた。
 これもいつものハワードの姿だと、わかっているけれども、ライアンは今日に限っては受け入れられない。
「ハワード酷いじゃないか。エレナ怖がって、泣いてたんだぜ。あれはあまりにも失礼すぎる。いくら機嫌が悪いからって、初対面であんな態度見せ付けるな よ。悪いのは俺の方だろうが。怒るなら俺に怒れ。エレナは俺に連れられてここに来ただけだ。何も悪くない。あの子はとてもいい子なんだぞ」
 ハワードは手元を止め、怒りを露にしたライアンの顔を暫く見つめた。
 そしてゆっくりと言った。
「ライアン、お前あの子に惚れたのか。お前の友達の彼女に」
 突然はっとするライアンの面食らった顔。
 瞳は大きく揺れ、立腹していた気持ちが一瞬で忘却していた。
 わかっていたことだったが、ハワードの懸念は益々大きくなった。
「は、話をそらすなよ。それとこれとは別の話だろ。俺はただ、ハワードの態度が……」
 図星だ言わんばかりのライアンの慌てた態度に、ハワードは厳しくライアンを見つめ、言葉を遮った。
「彼女にはカイルがいる。苦しむだけだぞ」
 できる限り、ライアンを巻き込みたくない。
 ハワードはなんとかしたかった。
 しかし、ライアンが聞きたくない言葉を選んで容赦なく言ったとて、すでにそれはどうしようもないものだった。
「話にならねぇ」
 ハワードには自分の心の内がばれている。
 いたたまれなくなり、ライアンは立ち上がって事務所を去っていった。
 逃げるということは、ハワードの言ったことが正しいということだった。
「俺が親友の女を好きになるなんて」
 ライアンは自分の感情を誤魔化せないところまで来ていた。
 すでに自分はエレナに惚れている。
 それを認めるのが怖く、そしてカイルの事が常にちらついて自分を誤魔化していた。
 だが、もうそれはできなくなってしまった。
「くそっ」
 何に対してイラつくのか自分でもわからない。
 当てもなく街を歩いているとき、携帯電話が鳴った。
 ディスプレイを見ればカイルからだった。
「まったく、いいタイミングでかかってきやがるぜ」
 ライアンは電話に出るのを躊躇っていた。
 しかし、エレナに対する気持ちを自分でも認めてしまってからは、カイルに嫉妬が湧き起る。
 携帯電話の鳴り響く音はカイルからの警告に思え、ライアンは顔を歪めて、手に持った携帯電話をただ見つめていた。
 やがて、電話は静かになった。
 ライアンはそれをまたポケットに入れ、途方に暮れて歩いていた。
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