第五章


 頭にできたコブが全てを物語るように、誘拐された時の事をエレナは四六時中考えていた。
 自分に傷を付けるのが目的とされた誘拐。
 新たな謎に、エレナは首を傾げ、真の自分を追ってる者とは違うとはっきり感じられた。
 もちろん、この上なく恐怖を感じ、太刀打ちできないことで、絶望を感じていたが、また同時に誰かが助けてくれたことで、希望が少しばかり持てたのも事実だった。
 誰かに守られているという感覚は、エレナには心強い味方となり、少しばかりの安心感を植えつけた。
 その助けてくれた人がどうしても、公園に現れた男のように思えてならなかった。
 あの男は一体誰なのか。
 なぜ自分を隠れて守ってくれるのか。
 エレナはぼんやりと考えていた。
「キャー、エレナ」
 シスターパメラが突然叫び、エレナを見てあたふた慌てている。
「ん?」
 エレナが自分の手元をみると、持っていたのは食器洗い洗剤だった。
 それを調味料のように鍋に入れる寸前だった。
「あっ!」
 気がついてすぐさま、洗剤を流しの台に置き、苦笑いしながら「冗談、冗談」と誤魔化した。
 シスターパメラの信じられないという目を尻目に、すぐさま包丁を持って野菜をざくざく切り出すが、再び自分が誘拐された理由が気になりぼんやりとしてしまうと、今度は左の人差し指を切ってしまった。
 すぐさま赤い血が傷口に集まってきては盛り上がって、それが垂れていく。
 エレナは指を掲げてそれを唖然と見ていた。
「ちょっとエレナ、どうしたの。今度は血がでてるじゃない。さっきから変よ」
 シスターパメラは急いで絆創膏を持ち出して、手当てしてやるが、他人事のように傷を眺めるエレナの精神に不安を感じた。
「エレナ、もしかしたら立ち退きのことが気がかりなの? 心配するなって言っても無理だけど、でも必ずなんとかするから」
 最近、シスターパメラは忙しく出かけていく。
 このために何か手を打っているとは思うが、エレナにとって心配事はそれだけじゃない。
 過去十年に遡ってからの根本的な自分の問題。
 それが動きだして、不安だけが膨らんでいく毎日。
 そしてこの日の誘拐事件。
 めまぐるしい変化に眩暈がしそうで、その渦の中に飲まれてしまっている。
 エレナは気づかれないためにも無理に笑うしかなかった。
 そんな偽りの気丈さが、却って体の中で反発し、ずれが起こってボヤッとしてしまうのだった。
 いつまでこんな日が続くのだろうか。
 また考え事に気を取られてしまい、エレナは料理に集中できなくなってしまった。
 お蔭でその晩の夕食の味付けは最悪だった。
 子供たちはエレナを責め立て、目つきが怖かった。

 エレナがこの日、襲われそうになったのは、それを命じた者が存在するからだった。
 エレナを嫌い、私怨を持つ者。
 それは何かを企み、裏で工作する──。
「パパ、お願いがあるの」
「ん? なんだ。車か? 宝石か?」
「そんなもの入らないわ」
「それじゃ、何が欲しいんだ」
 父親に甘える容姿の美しい娘と自分の娘を溺愛している金持ちの父親。
 典型的な親子の会話がなされている。
 しかし、娘の頼みごとを聞いた時、父親の顔は曇った。
「なんだって、そんなことをするんだ」
「パパの力ならできるでしょ。だって私このままでは気がすまないの。ほんのちょっとからかってやりたいの。お願い」
「しかしだな……」
「パパ、娘が馬鹿にされて、辱められたのよ。それって、パパの会社を見下してるってことじゃない。はっきり言って、パパの会社の方が大きいし、コネも沢山あるじゃない。絶対に負けられないわ」
 父親は暫く考え込んでいた。
 結局は娘の可愛さのあまりに、その案を呑んでしまった。
 上手くいけば、会社の利益にも繋がるかもしれないことも考慮して、父親は自分に不利益がないように一番効果的な方法を娘に伝えた。
 娘は父親を褒め称え、何度も抱きついて甘えていた。
 その姿は微笑ましい父と娘の姿でもあるが、それは見せかけだけで、彼らの本心を知れば恐ろしい光景でもあった。
 娘は父親の権力とコネを私的に使い、更なる恐ろしい計画を企てる。
 そして、それはやがて大変な問題を引き起こそうと、じわじわと広がりつつあった。

 数日後、頭のコブの腫れは引いてないが、幾分痛さが和らいでいた。
 そのコブに時々触れながら、エレナはやはりこの日も色々と考えていた。
 少し外に出ては、もしかしたら助けてくれた男がいるかもしれないと探して、辺りを注意深く見る。
 その男が自分を見ているかもしれないと思うと、あの手紙に書いてあったように、何も心配する必要がないように思えてくるから不思議だった。
 警察とは違う、自分を守ってくれる存在。
 一度丸めて捨て損ねた手紙を、もう一度引き伸ばして、エレナは見ていた。
 この人物に会いたい。
 会って詳しい話を聞きたい。
 どうすれば会えるのだろうか。
 そんな事を考えていた直後の事、シスターパメラが封筒を目の前に差し出し、エレナは目を見開いた。
「エレナ、あなたに手紙よ」
 それを手にし、差出人を確認すれば、やはり名前がなかった。
 あの男からの手紙に思えて、エレナはすぐに封を開けた。
 中から美術館のチケットが一枚と、メモ書きが出てきた。
 メモにはこの日の日付が書いてあるだけだった。
「あらチケットじゃない」
 目にしたシスターパメラが言った。
「そういえば今、そこの美術館、エジプト展やってるわよ。いい機会だわ。行ってきたら。気分転換にもなるし、きっとピラミッドのパワーを得て充電できるかもよ」
 シスターパメラは結構大真面目に言っていた。
 こういうオカルトな力は神の力と思っているところがある。
 今のやつれたエレナを見ていたら救いようのなさに、そんな事でも言わずにいられなかったのかもしれない。
 今日の日付が書かれたメモとチケット。
 これが意味するのは、ここに本日来いというメッセージなのが明確に伝わる。
 しかし、誰が一体。
 思い当たるのは、あの男しかいなかった。
 エレナは躊躇わずに、出かける支度をしだした。

 家を出るとき、シスターパメラが本気か冗談かともわからぬ言葉で見送ってくれた。
「ツタンカーメンの呪いには気をつけるのよ」
「やだ、呪いだなんて…… とにかく行ってきます」
 呪い──。
 すでに充分自分は呪われてるとエレナは思った。
 今更ツタンカーメンの呪いなんて全然怖くない。
 それに美術館にそんなものが存在するわけがな い。
 エレナは笑顔で応えるように手を振った。
 ダウンタウンの中心にありながら、緑の芝生と木に辺りを囲まれ、穏やかな雰囲気の中に美術館は位置していた。
 しかし、平日なのに人気のある展示のため、入り 口付近は人で混雑している。
 ここであの男は待っているのだろうか。
 エレナはドキドキしながら、沢山の人の列に加わった。
 その様子は、Dがしっかりと見ていたが、その顔は眉根を寄せて、悪態をつきそうに困っていた。
 エレナが美術館に足を運んだ事は、Dにとって不可解な行動として捉えていた。
 エレナはあたかも自分を助けてくれた存在、Dからの招待だと思っているが、それは全くの勘違いであった。
 Dはこの時、エレナに危険が迫っているのを目の当たりにしていた。
 しかし、Dは美術館に入っていけない。
 美術館にはDの知っている顔が二人、エレナを狙っていることに気がついたからだった。
 自分の組織の仲間ではないが、その道のつながりで同じようなことをしている別の組織の闇の者達がいる。
 Dとははっきりとした面識はないが、お互いその噂は耳に入り、暗黙の了解でその存在は知っていた。
 Dはそんな男達の前に自分の姿を見せる事はできない。
 係わればやっかいになるし、エレナの存在を自分の組織に知らしめ、自分が裏切っていることがばれてしまう。
 世間の認識ではエレナの父親は行方不明ということになっており、表立った事件として取り扱われていない。
 レイの組織だけが知る極秘情報なため、他の組織がこのことについて嗅ぎつけている事はないはずだった。
 だが、なぜこの時、エレナが狙われているのか、Dにはわからなかった。
 もしばれていて、エレナを使って我が組織に金をせしめる目的なのかとも思ったが、その線は薄いように思われた。
 先日にエレナが誘拐された事を考えてみても、どこか素人臭さがし、今回もその延長でエレナを困らせようとしているだけに思えてしまう。
 二人組みの男達も、かなりの下っ端クラスで、何かを頼まれてここにいるように見えた。
 理由はあれこれと推測できても、Dにはこの上なく焦りが出ていた。
 自分が容易に姿を表せないのと、接触できないことが、この場合エレナを助けようにも、かなり不利な立場にいた。
 苦い顔で舌打ちをしていたDだったが、ふと視線をずらしたとき、それは微笑みに変わっていた。
 偶然にもライアンが近くの通りを歩いている。
「なんてタイミングのいい奴だ。あいつはいつでもいいときに現れやがる」
 Dは鼻で笑い、すばやく行動を移した。

「あの、そこのお兄さん」
 人混みがある通りを歩いている時、突然声を掛けられ、ライアンは振り向いた。
 派手めの中高生くらいの女の子が、冷めた目をしながら、ライアンを見上げている。
「ん? 俺?」
「そう、これを」
 口数少なくその女の子はチケットをライアンにぶっきら棒に差し出した。
「チケット? なんで俺?」
「エレナっていう人が、お兄さんに渡してくれって言うようにっておじさんが私に言ったんだ」
 女の子は、もどかしいとチケットをライアンに押し付けた。
 それをライアンは手にして困惑している。
「はぁ? エレナ? おじさん?」
 意味がよくわからないライアンは、眉間に皺をよせたが、エレナという名前には軽く反応していた。
 二人に見つからないように、Dは物陰に潜んでこのやり取りを見ていた。
 正直に自分が言った事をそのまま話す女の子に、Dは少々焦りながらも、自分がおじさんと称されて、多少のショックを受けていた。
 しかし、ああいう女の子だったから、少しお金を握らせてただけで、頼んだことをやってくれただけに、文句は言えない。
「とにかく、エレナがここにいるんだってさ。よくわかんないけどこれってデートの誘いなんじゃないの。それじゃ私ちゃんと伝えたからね。バイバーイ」
 やることをやったら関係ないとでもいいたげに、その女の子はさっさと去っていった。
 ライアンはチケットを手にして、呆然とするも、半信半疑で美術館へと向かい、そこの入り口でエレナらしき女性が中に入っていくのを見かけた。
 ライアンの足は本能のまま、エレナを追いかけた。
 Dはそれを見て、一先ず安心し、そして無意識に自分の髪に触れ、姿勢を正す。
 ビルの窓ガラスに映る自分を見つめ、少なくとも今まで歩んできた道がそのまま現されるものだと深く息を吐いた。
 そして、腕時計を確認しながら、暫く外で様子を見ていた。

 入り口に足を踏み入れてすぐのところに、巨大な黒光りの石の置物が置いてあり、エレナは早速目を見張った。
 かつて神と崇められた大きな石像。
 紀元前の年代というのに、その美しさは劣ることを知らず、今もつやつやとして古さを全く感じさせない。
 過去のものが現在にも存在し受け継がれていく時の流れ。
 偉大なものだと思わずにはいられなかった。
 各場所には黒いスーツを着た、目を鋭くさせて辺りを見張っている人達がいる。
 この美術館のスタッフ、またはこの美術品の貸し出しを提供したその国の関係者なのだろう。
 美術品のボディガードのように、その存在は恐れ入るものがあった。
 展示物の一部として、その人達を観察していたら、その一人と目が合い、ニコッとされてエレナは戸惑ってしまった。
 この中に謎の男が居ると思うと、エレナは誰かに気安く目で挨拶されると、もしやと思って非常に緊張してしまう。
 いつ自分の前に現れるのか、エレナはその時を静かに待ちながら、ゆっくりと展示物を見て回った。
 奥の部屋に足を踏み入れると、急に薄暗くなり、ガラス張りの展示物に照明が当たって、そこが浮き上がって見える。
 装飾品のアクセサリーや石像が、神々しく幻想的に、その存在感を出していた。
 何千年も前に一体誰に教わってこのような形を想像して作り出したのか、その独創性と精巧な作りに魅了されずにはいられなかった。
 夢中でそれらを見ていた時、エレナの背後に男二人がぴったりとくっ付いていることに気がつかなかった。
 その二人は監視カメラの位置を確かめ、あらかじめ計算して自分たちが映りこまないようにしていた。
 人と人とが接触して混雑している中、その二人は距離をどんどん縮め、エレナを挟むように、左右に分かれた。
 男達は万が一のために、騒がれないように銃を懐からいつでも取り出せるようにしている。
 静かにエレナを外に連れ出すことは、普段からお手の物だった。
 男達は知り合いの伝から頼まれ、お得意のルートで、エレナを外国に売り飛ばす役目を担われていた。
 エレナを行方不明者にさせるため、人が沢山集まるここにおびき寄せたが、あくまでもそれは自然な状況にしなければならなかった。
 エレナはたまたま謎の男からかもしれないと誤解したことで、ここにきてしまった。
 それがなければ、警戒していたはずだった。
 偶然の産物が、偶然を呼び、何も知らないエレナは、無防備に自ら危険に飛び込んできてしまった。
 しかし、またそれも別の偶然に繋がり、事は思いもよらない方へ傾いていった。
「エレナ」
 その声に、エレナが振り向くと背後にいた男達は動きを封じ込められた。
 それぞれに別行動をとり、あくまでも自然に観客の一人として行動した。
 エレナは目の前の人物に驚いて目を丸くしている。
「ライアンじゃない」
 その名前が耳に入って、ちらりと見たライアンに、エレナを付けていた二人組みの男のうちの一人の顔色が変わったかと思うと、あくまでもさりげなく、エレナから遠ざかって行った。
 その様子を見てもう一人もその後を追いかけていってしまった。
 ライアンの出現で完全に計画が狂ってしまったらしかった。
「ライアンも来てたの」
「えっ、君がチケットくれたんだろ。渡してくれって頼まれたとか言ってさっき外でもらったぜ」
「どういうこと? 私が渡した?」
 二人とも状況が読み込めず、不思議な顔をしてお互いを見つめていた。

 一方エレナを捕まえようとしていた男二人は美術館のホールで揉めていた。
「おいっ、どうしたんだよ。急に慌てたりして」
「この仕事、やばい、下りようぜ。どうせ小遣い稼ぎ程度さ、価値はねぇ」
「何言ってんだ」
「だからあいつ、FBIの鬼のスタークの息子さ。そいつが絡んでたら俺たちの首の方が危ないぜ。この事がボスにばれてみろ、それこそ俺たち命落とすぞ。俺 はもうこんな遊びごとの仕事なんて下りた。帰る。しかしあのグッドフィールドもなんのために、あんな一般女性を売り飛ばしたいのやら。あそこもかなり悪び れてるぜ」
 二人はさっさと引き上げた。
 そしてしっかりとDは二人の会話を隠れて聞いていた。
 ──グッドフィールド? あそこが原因か。しかし、なんでまたエレナを売り飛ばす話が出てるんだ。くそっ! 外部のものが絡んではやっかいだ。エレナのことがうちの組織にもばれかねない。やはり時間がない。
 疑問は残るが、危機一髪のところでエレナを救えた事にDは安堵しつつも、心安らぐ間もないまま、Dの焦りは一層増していた。
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