第五章


 混み合っている中で、いつまでも展示物の前で陣取る事は、他の観客に煙たがられ、エレナもライアンも人混みを避け後ろに下がった。
 二人は混乱したまま、言葉なくお互いを見つめている。
 次第に、チケットを手にした経緯など、ライアンにはどうでもよくなった。
 どちらも訳がわからないままで居るよりも、ライアンはエレナと会えた事の方が大事だった。
「なあ、エレナ、偶然の一致って時々起こらないか。自分の知らないところで見えない力が働いて、あたかも運命のように引き寄せられるっていう現象。俺がここに来たのもそれだったのかも」
 ライアンの言葉は、エレナの耳にすっと入ってくる。
 初めてライアンに出会ったときの事、後にカイルの親友だったこと、そして自分の事を知るハワードの知り合いでもあり、次々と連鎖反応のように繋がっていた。
 そんな風に考えると、ライアンの言う通りなのかもしれない。
 もしそこに意味があるとしたら──。
 自分がエジプトの秘宝を見に来ていることから、とても不思議な気持ちが湧き起ってくる。
「ほんとね、偶然の一致が重なって何かを繋げていくような現象があってもおかしくないね。このエジプトの秘宝をみても、謎だらけで神秘的だけど、その中に は隠された本当の意味がいくつも存在しているのかもしれない。そして人々は時を経てメッセージを受けとり本当の意味を知っていく」
「君もほんと謎だらけで神秘的だ。俺が知りたいと思えば君はもっと教えてくれるかい?」
 ライアンのエレナを見つめる目は、暗がりの中でも輝き、深く奥底を覗き込むように真剣だった。
「えっ、私の何を知りたいの?」
「そうだな、好きな食べ物とか、どんな趣味をもってるのとか、それとか、好きな男のタイプなんかも…… ついでにねっ」
 ライアンはお茶目に笑っていた。
 くったくのない笑顔だった。
 それは安心感を与え、話も弾む潤滑油があった。
 ライアンの事は、エレナも気になり、それ故に構えることなくなんでも言いたくなってしまう。
 バイクに乗ってすでに抱きついては、ライアンは自分の中に入り込んでいるのも自覚していた。
 しかし、エレナはこの気持ちがなんであるか、まだ明確にわかってない。
 ライアンが優しい言葉をかける度に、それは話術であり、女性の心を掴んだ話をするのが上手いだけに過ぎないと受け取っていた。
 エレナは、これ以上それに乗せられて、自分の事を話してしまうのを恐れていた。
「そうね、それじゃライアンが自分で探ってみて。だって探偵でしょ」
「ちぇっ、はぐらかされたか。だから神秘的なのさ、君は」
 顔で寄ってくる女性が多い中で、エレナはやはり違っていた。
 大概の女性なら、ライアンが優しく笑みを浮かべ、気があることを仄めかせばすぐに、心開いて何でも話してくる。
 エレナはライアンの見かけを全く見ずに、中身を見ているのが伝わってくる。
 ライアンはなんとか気に入ってもらいたくて、この日は特に饒舌になった。
 飾らない自分で、必死に女性と話して、自分を知ってもらいたいと思うのはライアンには初めてのことだった。
 ライアンは益々本気になってくる。
 そして、その気持ちの裏には、カイルの影が必ずちらつき、エレナを見つめる度に胸が締め付けられ、苦しく切なくなっていた。
 ライアンが真剣にエレナを見つめているとも知らず、エレナはこの時、辺りを見回して謎の男を探していた。
「エレナ、他に誰かを探してるのかい。きょろきょろしてるけど」
「えっ、あっ、違うの、その…… ツタンカーメンの呪いがちょっと」
 誤魔化すために、咄嗟に馬鹿なことを言ってしまったとエレナは苦笑いになった。
「えっ、そんなものが見えるのか。エレナすごいな」
 ノリのいいライアンの答えに、またびっくりだったが、それがライアンらしいと、やっぱりこの雰囲気に呑まれてしまった。
 この優しさや気遣いがエレナには心地よく、素直に笑顔になっていた。
 そのエレナの無防備な微笑みはライアンをもどかしくさせる。
 こんなに側にいると、大胆に抱きしめたい気持ちに駆られてしまう。
 ほんの少し手を伸ばせば、エレナの手を握れる位置なのに、それすらできなくて、ライアンは持っていきようのない苛立ちを、目の前の石像に八つ当たりして睨んでしまった。
「ライアン、なんか顔が怖いよ。もしかしてツタンカーメンの呪い?」
 エレナも冗談のつもりでおどけて訊いてみた。
「ああ、そうだ。すごい呪いが今俺にふりかかってるんだ。あー悔しい」
 親友が好きな女性を好きになってしまった。
 まさに今呪縛に囚われてしまっている。
 ライアンは大真面目で答えたが、エレナは冗談だと受け止め笑っていた。
 またそれがライアンには苦しかった。
 それでも、少しでも長くエレナと一緒に居たくて、途中、電話が鳴ったが、それすら無視し、電源をオフにしてしまった。
 それはハワードからだったが、今仕事するために、この大切な時間を切り上げたくなかった。
 エレナと一緒に色々な話をしながら、美術館を回ることだけに専念していた。
 しかし、一通り見てしまった後は、それもままならなくなった。
 美術館の出口に来たとき、終わりを告げられたように思えた。
「ライアン、今日は一緒にここで過ごせてとても楽しかったわ。ありがとう」
「それはこっちの台詞さ。今日は君に会うためにツタンカーメンが導いてくれたって思えるよ」
「そうだったらすごいよね」
「これからどうするんだい?」
「えっ、そ、そうね、ちょっと用事があって……」
 エレナはこの時点でもまだ謎の男の事を考えていた。
 会えないのは側にライアンが居るせいかもしれないと思うと、一人になる機会を作ろうとしていた。
 それを悟られるのがいやで、エレナは慌ててライアンに同じ質問をした。
「ライアンはどうするの?」
 エレナに用事があるのなら、この後はすでに誘えない。
 言う事は一つしかない。
「俺は、事務所に戻って、仕事さ」
「もしかして、今日は忙しかったんじゃないの?」
「ううん、ほんの雑用だから大したことはないんだ」
「それならいいんだけど」
「そうだ、エレナにこれを渡しておくよ。もしなんか困ったことがあったら、いつでも電話してくれ。すぐに駆けつけるから」
 ライアンから名刺を手渡された。
「ありがとう」
 それを手にしてみてみれば、改めてみてみるライアンの名前になんだか不思議な気持ちになった。
「どうしたんだい?」
「えっ、ううん、なんでもない。ライアン仕事頑張ってね」
「ああ、ありがとう。それじゃまたな」
 仕事の事を出されると、これ以上一緒に居られない事が確定してしまい、ライアンは先に出口を出て行かざるを得なかった。
 ドアを開けて出て行こうとするライアンは、そこでもう一度、振り返る。
 エレナが最後まで自分を見ていてくれたことに少し満足し、ライアンは手を振って外へ踏み出した。
 美術館を出ても、何度もライアンは躊躇いがちに後ろを振り返っていた。
 最後は未練がましい気持ちを断ち切り、ライアンは事務所へと足を急がせた。
 その様子をDはしっかりと見ていた。
「あいつには借りができた……」
 その後は厄介ごとが一つ増えたかのように、Dは危惧した表情になっていた。

 美術館のホールの隣に、土産売り場があり、そこにはエジプト関連の商品が数多く並んでいた。
 エレナはそこへ入り、それらを見ながら、謎の男の接触を待っていた。
 しかし、辺りを見ても謎の男らしい姿は見られず、いつまでも土産物をみていても仕方がないのでエレナはとうとう諦めた。
 目の前の小さなピラミッドの置物を手に取り、それをレジに持って、購入し、そして美術館を後にした。
 外はまだ青い空が広がり、街路樹の緑が鮮やかに映えている
 自分の事ばかり考えていたせいで、周りが見えてなかったが、この時、怪我をしたカイルのことを思っていた。
 事故を起こした直後は会いに行ったが、その後はすっかり忘れてしまったことに罪悪感を感じ、エレナは病院に足を運んでいた。
 エレナがカイルの病室を訪ねれば、カイルは喜び勇んで、ベッドから身を起こした。
「カイル、体の具合はどう?」
 エレナが近づくと、カイルは飼い主に久しぶりにあった犬のように興奮し、落ち着かない。
「大丈夫だよ。怪我は大したことないのに、親がゆっくりしろって、無理やりここに閉じ込めた感じだよ」
「カイルは、無理してでも仕事するからよ。怪我したときくらい病院にでもいないと、きっと休まなかったと思う」
「まあ、久しぶりにゆっくり寝たけどさ、だけど、退屈でさ、やっぱり仕事をしている方が楽かな」
「ほら、やっぱりそう思うでしょ。だから無理やりに入院させないといけなかったのよ。だけど、毎日お見舞いに来れなくてごめんね」
「何言ってんだい。僕が入院したって聞いたとき、心配して駆けつけてくれたし、今も来てくれたじゃないか。それで充分だよ。だけど、エレナなんかあったんじゃないのか?」
「えっ?」
「なんかやつれたみたい。大丈夫かい?」
 エレナははっとした。
 やつれるだけの理由は確かにあった。
「も、もちろん大丈夫に決まってるじゃない」
「そういう風に力んで言い切るときは、エレナは何かを思いつめてそれを隠してるんだよな。僕には何でも話してくれよ」
 カイルはエレナに何があった事は想像もつかないが、ライアンが絡んでいるのではとつい勘繰ってしまった。
「もう疑い深いんだから。大丈夫に決まってるでしょ。それに、今日はとても楽しかったのよ。美術館のエジプト展に行ってきたの。そしたら偶然ライアンも来ていて、一緒に見てきたの」
 カイルは顔に冷や水を掛けられたように絶句した。
「そうそう、これ、おみやげ。ピラミッドの置物。これでパワー全開で早く良くなってね」
「あっ、ありがとう」
 カイルはそれを手にして、じっと見つめ、心に湧き上る気持ちを抑えられなくなった。
「なあ、エレナ、ライアンのことだけど、僕が映画にいけなかったあの日、ライアンと何かあったのか」
 カイルの声は暗く沈んでいた。
「えっ、何かって何が…… もしかしてあのこと…… うわ、カイル怒ってる?」
 カイルは顔を青ざめ、言葉を失ってエレナを見つめた。
「ごめん、カイル。私が無理やり頼んだの。だってどうしても興味があって、押さえられなくて、つい」
「えっ、一体何を?」
 カイルはくらくらしてきた。
 ──エレナから大胆に誘った?
「カイルがどうしてライアンと仲良くなったかの馴れ初めの話よ。ほんと面白かった。カイルがみんなから慕われる理由がよくわかった」
「はっ?」
「だから、あの日、カイルの昔の話を聞かせてもらったの。悪気はなかったのよ。やっぱり知らないところで聞かれて嫌だったかな」
 エレナの鈍感さにはカイルもどっと疲れた。
「だけど、ライアンって見かけによらず、中身も素敵な人なんだね。一緒にいて楽しい人だと思った。今日も一杯笑わせてくれたのよ。あんなに笑ったの久しぶり」
 カイルは谷底におとされたような絶望を感じた。
 エレナのライアンを語る瞳はキラキラして、先程見えたやつれ具合も感じさせず、瞬間的に華やいだ。
「エレナ、ライアンは本当にプレイボーイだ。あいつには関わらない方がいい。あいつはすぐに思わせぶりをさせて、口説くんだ。親友だからあいつのことはよく知っているんだ」
「どうしたのカイル、そんなに怒らなくても…… あっ、わかった。ヤキモチやいてるんだ」
「えっ!」
 まさかエレナの口からそういう言葉が出るとは思わなかった。これは脈ありか。カイルは期待した。
「大丈夫よ、カイル。ライアンはずっとカイルの大親友だから。私が急に入り込んだから、邪魔されたくないんだよね。ごめんね。もう邪魔しないから」
 大きくずれ過ぎている。
 これ程エレナが鈍感だとはカイルもさすがに面食らった。
「エ、エレナ、あのさ、違うんだけど」
「あっ、いけない、そろそろ帰らないと夕食の支度に遅れちゃう。カイル、近いうちに施設に顔出してね。子供たち本当に心配してるから、早く元気な顔を見せてあげてね」
「エレナ、待って。今度は僕がエレナを楽しませる。約束だろ」
 ──ライアンに邪魔されてたまるもんか。
「うん。楽しみにしてる。じゃあね」
 エレナが去ってしまった後、暫くカイルは考えていた。
 エレナはライアンのことをどう思っているのだろうか。
 自分の考え過ぎなのだろうか。
 仮にもライアンは自分の親友だと信じ、馬鹿なことをすることがないと思い込もうとしても、ライアンがエレナに近づく度にカイルは不安になってしまう。
 病院のベッドで一人天井をみつめながら、ため息混じりに、自分の知らないあの日の二人のことばかり想像していた。
 自分が頼んだこととはいえ、エレナとライアンが出会うきっかけをつくってしまったことを、カイルは酷く後悔していた。
 しかしライアンは親友であるが故、自分が抱いているこの不安は、罪悪感に繋がりさえもする。
 何もなかった、これからも何もない。
 何を心配する必要がある。
 そう言い聞かせるのに必死になった。
 そう思えば思うほど、また自分がライアンを疑っている気持ちがあることも認めていた。
 カイルはライアンにずっと憧れを抱いていた。
 それは自分が手に入れられないものをライアンはもっていたからだった。
 自由奔放に突っ走る怖いもの知らずの生き方。
 カイルには到底真似が出来ない。
 二人が親友になれたのも、お互い求め合うものをそれぞれが持つことで、惹かれあった結果であった。
 その関係は、この時、一人の女性の存在で脆くも崩れ去りそうだった。
inserted by FC2 system