第六章


 事務所のドアが勢いよく開いたその先に、エレナが息を切らして立っていた姿は、少なからずハワードの意表をついた。
 持っていたペンをそっと机に置き、姿勢を正して、エレナに何が起こっているのか、それを見極めようと黙って見つめる。
 もちろんその目つきは厳しく、睨んでいるように見えるが、この時の瞳は心なしか嫌な予感を感じて懸念の色も出ていた。
 エレナがここに来る理由は一つしかなかった。
 いずれこうなる可能性も視野には入れていたが、唐突にいきなり来るあたり、エレナがここまで大胆な女性だとは思わなかった。
 ライアンがいるかもしれないという可能性すら考えられず、ここへ飛び込んできただけに、衝動的に何かに捉われてムキになっているのが良く見えた。
 ハワードに引けを取らないその挑戦する眼差しが、今にも飛び掛ってきそうにも思え、ハワードもそれに受けて立つ覚悟をした。
「ここへは来るなと言ったはずだ!」
 ハワードにしては珍しく声をあげて一喝した。
 しかし、そんな脅しにもエレナはお構いなしだった。
 今のエレナには感情に支配され、自分の思うように突進まねば気がすまない。
 ハワードの厳しい目や、きつい口調など、どうでもよかった。
「失礼をお許し下さい。今日はどうしてもあなたに聞きたい事があってやって来ました」
 走ってやってきた時のエレナの上がった息は、幾分か落ち着いていた。
 しかし、気持ちが高ぶっているために、ここで大きく息を継いだ。
 ハワードは何も喋らずただエレナを見つめている。
 エレナはここからが大事だと、体に力を入れた。
「あなたはこの間、私に危険がせまっていると知らせてくれました。あの時は動揺して、あなたがなぜそのことを知っているかまで、考える余裕がありませんでした。でも今日は知りたいのです。なぜあなたは警察も極秘にしている私の正体を知っているのですか」
 何も話さずに無視する事もできたが、ハワードはエレナの感情を汲み取り、事務的に対応する。
「私は探偵という職業柄、警察が知らない情報も得る事がある」
 それはとても静かに、当たり前のように言い放った。
 エレナは拳を握り締め、体に力をこめて再び質問する。
「私の事についてどれだけの情報をご存じなんですか。私の父、ダニエルの事もご存じなんでしょうか」
「それを訊いて何になる?」
「私はただ知りたいのです。なぜこのようなことが起こってしまったのか、どうして隠れて暮らさなければならないのか。どんな小さな事でも知りたいんです」
 エレナは全く何も知らされずに、ただ身を隠して生きてきた。
 そこには同情するが、ハワードは絶対に情けをかける事はなかった。
 依頼者から得た情報は、外部に決して漏らさないのがハワードのやり方であり、Dとの約束でもあった。
 ハワードは口を噤み、首を横に振った。
 そのそっけない態度はハワードの厳しい目つきで脅されるよりも堪えるものがあった。
 エレナはそれでも負けまいと、すがりつく。
「お願いです。あなたが知っている父の情報をどうか教えて頂けないでしょうか」
 言い終わった後に奥歯をかみ締め、涙が出そうなのをこらえている。
 事情を知るハワードには、この状況がとても苦手だった。
 情報を漏らす気持ちはさらさらないが、エレナを邪険に扱うには躊躇ってしまう。
 ライアンに接するように、厳しさを一貫できないでいた。
 せめてもの慰めになればと、ハワードの眼差しは幾分か和らぎを見せる。
 そして、こちらの心情を汲み取って欲しいと視線をずらした。
「すまないが私は何も君に話す事ができない」
「お金なら後で一生懸命働いて必ず払います。だからあなたの知っている情報を教えていただけませんか」
「私は情報屋ではない。金で情報を売ることはない。さあ、帰るんだ。ここにきても無駄だ。そして二度とここに足を踏み入れるな。君のためだ」
 子供を諭すように、ハワードは優しく言った。
 ハワードの厳しさが和らいで見えた時、それがエレナへの最終通告だと感じとった。
 ハワードは何かを知っているのに、その当事者が目の前にいたところで素知らぬ事として扱う。
 どれだけの情報がそこに隠されているのか、なぜ自分が知ってはいけないのか、誰も教えてくれないもどかしさが、こみ上げてきた。
 エレナは誰にも言えなかったこの苦しみをつい吐露してしまう。
「ハワードさん、私はこの十年間何も知らされず、そして警察に保護をされながら隠れて生きて来ました。そして今日で父を連れていかれてちょうど十年になり ます。私に危険が迫ってることは、今日事件を担当している捜査官からも直接に知らされました。私が重要な何かを知っていると思われているために、父を連れ 去った組織が私を探しているそうです。でも私は何も知らないのです。父が生きている事すら今日まで知りませんでした。あまりにも知らないことが多すぎて、 危険が迫っていると言われても私にはどう対処すれば良いのかわかりません。あなたなら何かを知っていると思って危険を覚悟でやってきました。でもあなたも 警察と一緒で何も教えてくれないのですね」
 このことで愚痴ったことはなかった。
 それだけに、それをハワードに言ったことで、溜まっていたストレスが涙となって頬を伝わっていった。
 ハワードは目を閉じ、微動だにせず沈黙を守り、椅子に深く腰掛けて、エレナの話に耳を傾けていた。
 ハワードのその姿を見た時、エレナはようやく我に返った。
 そこにハワードなりの理解があり、ハワードはエレナを守ろうとしている側だということに気がついた。
「あっ、あの、私…… た、大変、失礼しました」
 幾分か落ち着き、そしてよく考えれば、この場にライアンがいる可能性もあっただけに、自分でも無謀なことをしたと反省する。
 慌ててその場を去ろうと、ドアに向かったその時、ライアンが入ってきたことで、どれだけ自分が馬鹿だったかこの時思い知らされた。
「エレナじゃないか。なぜここに居るんだ」
 エレナは顔を伏せ、慌てて涙を拭い、良い嘘はないかと必死に考えていた。
「ハワード、一体何が起こってるんだよ。またエレナに酷いことでも言ったんじゃないのか。エレナ泣いてるじゃないか」
「違うのライアン。私、私、ライアンに会いに来て、その、ほら、アレ…… あっ、ライアンにコート借りてたでしょ。それを返したくってここに来たの。でも 持ってくるの忘れちゃった。ここに着てから気がついちゃった。ハワードさんにまた怒られるの覚悟してたんだけど、やっぱり怖くてそれで泣いちゃった。でも 大丈夫よ。ハワードさんは何も怒ってないみたいだから。それじゃ私また今度コート持ってくるね」
 苦し紛れとはいえそれ以上の嘘がつけなかった。
 自分でもこんな嘘は馬鹿げてると思いつつ、焦った時のでまかせは自分でも何を言い出すがわからなかった。
 ライアンの困惑している表情を見るのが辛く、とにかくその場を逃げ切りたくて、エレナは走って出て行った。
 ライアンがそのまま放っておけるはずがなかった。
 すぐにエレナの後を追う。
 ここで止めても無駄だと、ハワードも口を挟まなかった。
 ライアンはこの訳を追求し、エレナも隠し切れるだろうかと、成り行きを見守るしかなかった。
 エレナに係わった時点で、すでに巻き込まれて避けられない状況にきているのではと、ハワードはこの先の事を危惧していた。

「エレナ、待てよ」
 事務所の階段を急いで下りていくエレナをライアンは呼び止めた。
 逃げれば、余計に怪しまれ、逃げたところでライアンはどこまでも追いかけてくるだろう。
 エレナは覚悟を決めて、階段を下りたところで、立ち止まった。
 咄嗟についた嘘のせいで、ライアンと顔を合わすのが気まずく、エレナはうつむき、オロオロとしていた。
 エレナの落ち着きのない態度に、ライアンもどう扱っていいのか思案する。
 ライアンはエレナの事だけを考え、自分の好奇心は後回しにした。
「ハワードに用事があったんだろ。嘘をつかなくてもいいぜ。まあちょっと何をしに来たか知りたいところだけど俺に言えない事なんだろ。だったら言わなくていい。俺も無理に聞かないから」
 俯いていたエレナだったが、その言葉で顔をあげ、ライアンと向き合った。
 屈託のないライアンの笑顔が目に入り、エレナの不安が一気に飛んで行った。
「ライアン……」
 名前を呟くだけでも、緊張がほぐれ、強張っていたエレナの体の力が抜けていった。
「何も心配しなくていい。俺の前では無理に誤魔化さなくていいんだって。それはエレナとハワードの問題なんだろ」
「えっ?」
「それよりさ、よかったら今日は俺に付き合わないか。折角また会えたんだ。またエレナと話がしたい」
 エレナが何をしにきたかよりも、ライアンはエレナと一緒に過ごせる方が大事だった。
 エレナはライアンのその気遣いと優しさに驚き、暫くライアンを見つめてしまった。
 初めて会ったときお互いの印象は悪かった。
 しかし、ライアンを知るにつれて彼の魅力に引き込まれていく自分がいた。
 十年目のこの日を、辛く、悲しみで過ごすよりも、ライアンと居れば全てを忘れられそうな気持ちがしてくる。
 エレナは術に掛かったようにぼんやりしたまま、首を縦に振った。
「よし、決まりだ」
 ライアンは、エレナにウインクで合図した。
 それがエレナの胸に入り込んでドキッとさせた。
「これからいい所に連れてってやるよ。きっと元気になるさ」
 ライアンは着いてこいと、顎で指図して先を歩いていく。
 エレナはその後をたどたどしく着いて行った。
 そして、一度バイクを取りにライアンのアパートへ行き、またそこでエレナはライアンの背中にもたれることになる。
 何度も乗るうちに、すっかり抵抗がなくなり、今ではライアンを当たり前のように抱きしめていた。
 特にこの日は、すがれるものがある事がとても有難かった。
 ライアンの背中は温かく、そして頼もしく、エレナは自分の欲求のままに身を持たせかけた。
 車の通りが多いメインロードをまっすぐ西へ進むと、あっと言う間に街のはずれとなって、緑が急に多くなってくる。
 その山間に挟まれた道を進むと、急な勾配の坂道へ続く道が現れた。
 その坂道の先には、お城のような風貌の大豪邸があり、この街の歴史を語るためには必要なシンボルとなって、ここに訪れる観光客を楽しませている。
 小高い丘の上に建つその建物周辺は、街の景色が一望できる展望スポットとして、誰でも自由に訪れることができた。
 ビルが立ち並ぶダウンタウンの景色と、年中雪が積もっている形のよい山が一度に見渡せることで有名で、いつも沢山の人が来ていた。
 ライアンのお気に入りの場所でもあった。
「ここは夜来ると夜景がきれいなんだぜ」
「それなら今度夜に来てみたいわ」
「ああ、今度連れてきてやるよ」
 それは自然に、さらりとライアンの口から出てきたことに、エレナははっとした。
 あまりにもライアンが自分に入り込んできて、それを当たり前に思うようになってはいけない警鐘が鳴ったような気がしたからだった。
 これ以上親しくなっては危険。
 なぜかエレナはそう感じてしまった。
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