第六章
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小高い山の上の気温は低く、風が吹けば肌がひんやりとしたが、澄んだ空気に浄化されるようでもあった。
ライアンと街の景色を見下ろしたエレナは、リフレッシュした気分で、燻っていた思いを振り切った。
ライアンに言われたことで、はっとして目覚める部分もあったが、それと同時に気になっていたライアンへの気持ちも、本人に、戸惑っていることを直接言ったことで、吹っ切れたと思っている。
一期一会だと思っていた衝撃な出会いから、些細な事が繋がってライアンとの接触が多くなり、その度にエレナは胸をドキドキとさせていった。
それがなんであるか、なぜライアンが入り込んでくるのか、時には頼りたいと思ってしまうことに混迷していた。
身近にいる人以外、極力、人に心を許すことを避けてきたエレナには、ライアンに簡単に気を許してしまうことに抵抗を感じていた。
ライアンの側に居ると、自分の事を何でも話してしまいそうになるのが怖かった。
そんな思いを抱いたことがなかっただけに、エレナはこの思いに惑わされて、ライアンに惹かれていっている根本的な気持ちなど後回しになっていた。
そしてライアンに家まで送ってもらった後、すぐさま借りていたコートを返し、去って行く彼を見送りながら、これで終止符がついたと一人で安心する。
自分の部屋から、コートが姿を消すことで、ライアンの事を考えなくてもいいと、どこかほっとして部屋の中を見回した。
だがそれは、ただの言い訳であって、本当はすでに心に芽生えた仄かな思いがそこにあるのに、エレナは気がついてないフリをしていた。
その翌日、自分で納得して筋道を立てた事もあり、エレナの目覚めはよかった。
朝起きれば、いつもライアンのコートを目にしていたが、もうそれはここにはないと改めて思う。
それがどこか寂しくもあったが、エレナは奮起してベッドから起き上がり、カーテンを勢い良く引いて、朝の光を浴びた。
そして伸びをして、窓の外に向かって一人笑顔を作る。
「さあ、頑張らなくっちゃ」
柔らかな朝の光に包まれて、エレナは気分新たに、負けないで立ち向かおうとしていた。
朝は子供達を学校に見送り、いつものように細々とした家の中の仕事をしては、午後から自分の時間が取れるように一生懸命働いた。
空いた時間に、図書館に向かい、調べものをするつもりでいた。
エレナが調べようとしているのは、十年前の事件の真相と、父から渡されたオルゴールについてだった。
手掛かりはオルゴールに彫られている青いバラと、『私を探 して』と いう曲のみ。
もしそこに父からのメッセージが込められているのなら、それを探ることで何かがわかるかもしれない。
それを期待して、エレナは図書館に足を運ばせた。
図書館はリフォームしたばかりで、真新しい美しさと、過ごし易い空間が広がっていた。
明るい照明の下、新しく作られた棚に本が並んでいると、手に取りたくなってくる。
それは後回しにして、まずは、十年前の新聞の記事をマイク ロフィルムで探し、それをリーダーを通して見ていった。
しかし、公にされてない事件なだけに、それが記事になっている訳がなかった。
次にエレナは、インターネットができるテーブルへと向かい、空いている席に座った。
コンピューターを前にして意気込み、検索画面から思いつく限りのキーワードを入れてみた。
膨大に何かが引っかかるものの、それが自分の知りたい内容のものではないので、中々思う情報にありつけない。
それでも諦めずに、何度もクリックしては、内容を確かめていった。
暫くして、父の紹介をしている個人的なページを見つけた。
そのページは色んな科学者の名前が挙がっていて、その中の一つに、父の事が簡素に書かれていた。
『科学者ダニエル・コナー 、主にエネルギー開発。また太陽の黒点と太陽フレアの現象のメカニズムについても研究』
たったこれだけであった。
それでもエレナには大収穫だった。
父親が何を研究していた事がわかっただけでも一歩前進した。
すぐにメモを取って次に進もう とすると、インターネットは一人30分までという張り紙に気がついた。
すでにエレナはもう一時間以上もそこにいた。
潔く諦め、続きはまた明日にすることにした。
画面を見続けていると、慣れなくて目が疲れてしまい、空いている椅子を見つけ、座って少し一息ついた。
ふと目の前にあった雑誌コーナーに目が行き、そこから適当に一冊手に取り、それを持ってまた椅子に座りなおした。
それをパラパラと見ていると『ホットなバチェラー百選特集』という記事に目が留まり、すごい企画だと思いながら見ていた。
内容は、そこそこお金を稼ぐ、この先有望で地位のあるような、独身男性が紹介されていた。
皆みるからにモテそうな風貌だった。
まとまったお金を稼ぐだけ、自信に溢れ、それが顔に現れるんだろうと、エレナが何気にページをめくっていたら、なんと知っている顔がそこにあった。
「あらっ、カイルがホットなバチェラー百選に選ばれているなんてすごい」
思わず驚いて声が出てしまった。
カイルの事を良く知っているだけにエレナとしても鼻高々になり、このことをカイルが知っているのか気になった。
カイルにそれを伝えたいと思う欲求に駆られ、エレナは図書館を後にした。
街の景色を見下ろして、気分がすっきりとしたエレナとは対照的に、ライアンは胸に石をつめたような重苦しさを抱えていた。
エレナの前では無理をして笑みを向けていたが、瞳は物悲しく、輝きを失っていた。
女にもてるはずのライアンだが、本気で惚れた女には見向きもされない。
それは本人の口から、プレイボーイはお断りと宣言されたも同然で、近づくなと遠まわしに釘をさされてしまった。
ライアンはまたエレナに打ち負かされ、ことごとく落ち込んでいく。
カイルだったらすんなりと受け入れるのだろうか。
カイルへの嫉妬と自分のやるせなさに、その夜また自棄酒に溺れ、ライアンは荒れていた。
どんなに酒を飲んで誤魔化したところで、家に帰って一人になれば、情けなさがこみ上げていた。
今まで自信過剰でいたことが災いして、自分の最低さにやっと気がついた時には、全てを失った思いだった。
忘れようとしても忘れられない思いを抱え、ライアンは中々眠れずに悩んでいた。
やっと眠りに着いた時にはすでに明け方で、そのまま昼過ぎまで寝てしまった。
起きた時は頭が痛く、気分も悪い。
二日酔いか恋わずらいか、だるい体を引きずるようにライアンはシャワーを浴びにバスルームへと向かった。
全てを洗い流せればいい。
心の中の思いと一緒に──。
バスルームの鏡の中のやつれた自分の顔をじっと見つめ、頬の傷が治ってしまった今、全てが幻だったと思いこもうとしていた。
もたもたと、体の動きは鈍く、事務所に行くにもかったるい。
ハワードは表面的にはいつもと変わらず、何も言い出さないとは思うが、あの鋭い目ではライアンの心の中を読んでしまい、落ち込んでいるのがばれてしまう。
ハワードならまたそこを突いて、正論を振りかざし、そして二重に自分が傷つくことをライアンは恐れていた。
今ハワードから、きついことを言われるのは辛いものがあった。
それだけライアンは弱りきり、エレナへの届かない思いに身を焦がしていた。
そんな時、ふと、なぜエレナがハワードに会いに行ったのか気になった。
それは本人同士の問題だとエレナの前では強がって気にしないフリをしたものの、ライアンはこの時になって知りたくてたまらなくなる。
エレナが抱えてる問題が何かわかれば、自分が力になれないだろうか。
そうすれば、汚名返上になるかもしれない。
打算的な思いもあるが、エレナとこのまま終わらせたくない、諦めきれない情熱がライアンを突き動かす。
ハワードからその情報を聞き出すのは至難の業ではあるが、反対に考えれば、ハワードはまずどれだけ情報を得たか、探りを入れてくるに違いない。
エレナがすでにその内容を自分に話したと思わせればいい。
ライアンはハワードとの頭脳合戦に挑もうとしていた。
身なりをきっちりと整え、顔を引き締め、そして事務所へと挑んでいった。
ライアンは不自然にならないように、不貞腐れた態度で事務所に入った。
そうすることがこの場合、一番似つかわしいと思ったからだった。
相変わらず、ハワードは冷たい視線を向けた。
しかし、そこにライアンの様子を見極めようと探っているものがある。
その様子がわかっただけで、エレナが前日尋ねてきた後の事を知りたいと思っているのが良く見えた。
それだけ、ハワードも、その問題に関しては用心しているということだった。
「今日は遅い出勤だな」
「俺も昨日は考える事があったんだ。それで寝られなかったんだ」
一応嘘は言ってない。
そこでハワードの手元が止まったことで、ライアンは何らかの手ごたえを感じた。
エレナが言えない問題は、容易に驚く話に違いない。
ハワードも、ライアンがどこまで知ったのか気にしている以上、これは深刻に悩んでいるフリをすればいいと、ライアンはひたすら、思いつめた表情をして、ソファーに深く腰掛け、静かにしていた。
ハワードも次の出方を考えているのが、ピリピリと伝わってきた。
暫く、沈黙が続き、事務所の中は緊迫したように、どちらも神経を尖らしていた。
ハワードはライアンが思ったようには、やはり動いてくれず、裏の裏を読まれたかもしれないとジリジリとさせられた。
一体エレナは何の話をハワードに持ち込んだのか。
人には言えずにハワードに相談するような内容といえば、単純なことではないはず。
埒が明かない今、ここで警察を匂わせたらハワードはどんな態度を取るのか、それを試してみた。
ここからは賭けだった。
ライアンはソファーから立ち上がった。
「俺、親父に会いに行って来る」
ハワードの厳しい目がライアンに突き刺さった。
「何をしに行くつもりだ」
「自分の父親に会いに行くことがそんなにおかしいか?」
「お前、一体何を考えてる」
「そんなの決まってるだろう。エレナのことだよ」
「エレナから事情を聞いたのか」
ライアンはチャンスだと思った。
「ああ」
「やっぱりそうなってしまったか。でも深入りするな。お前には手に負えないことだ」
──手に負えないこと?
ライアンはエレナが言っていた言葉が引っかかっていた。
「でも俺はエレナの力になりたい。エレナが自ら負けないで戦うって言った以上、俺もエレナに協力する。エレナを危険な目に遭わせられない」
ライアンは思いつく言葉で、勝手に話を作ってみたが、ハワードは露骨に怪訝な顔をして、咎めだした。
「お前に何ができる。相手はプロだ。危険な事はするな」
ライアンは面食らった。
──一体エレナの悩みはなんだ? 相手はプロってどういうことだ? エレナは何と戦うんだ?
疑問符がどんどん頭の上に重なって、ライアンは訳がわからずも、必死に心を読まれないように、考えているフリをして黙っていた。
これ以上言えば、ハワードにただのはったりだとばれてしまうかもしれない。
しかし、エレナの抱えている問題が、尋常ではないことに気がつき、いてもたってもいられなくなった。
ハワードの言い方は、まるで命にかかわるようだと言っている。
最後の賭けにでてみた。
「だから、親父に会いに行くっていってるんだろうが!」
「ライアン、これは公にされてない事件だ。アレックスに訊いたところで、ライアンが協力できることなど何もない。全ては警察に任せておくんだ。そうすれば彼女も安全でいられる。お前が下手に動けば、エレナに危険が迫るだけだ」
ライアンは黙っていられなくなった。
「公にされてない事件だって? ちょっと待ってくれ、まるでエレナの命が危ないみたいじゃないか。ハワード、一体エレナに何が起こってるんだよ」
自ら墓穴を掘るほどライアンは動揺しきっていた。
自分が思っていたことよりも、遥かに大きなその真相に、恐怖さえ感じてしまう。
エレナを思う気持ちが強ければ強いほど、危険を匂わされると簡単に我を忘れてしまった。
「ライアン、今までのはハッタリだったのか。私を騙したのか」
ハワードは不覚にもまんまと引っかかってしまったことに、苛立ってしまった。
エレナがライアンに隠し切れずに話してしまった可能性を考えていたことが裏目に出てしまった。
しまったと思った時には後の祭りで、ライアンは事務所を突然鉄砲玉のように飛び出した。
「ライアン!」
ハワードは自分の誤算に酷く後悔し、まんまとライアンにやられてしまった敗北を感じていた。
窓からライアンが、血相を変えて走っていく様子が見えた。