第七章


 エレナもカイルもすぐには話し出さず、お互いに様子をみていた。
 エレナは何かを話さなければならないと思えば思うほど、思考が停止して焦りが生じ、言葉が喉の奥に引っかかったままに、苦しく喘ぐ音だけが微かにしていた。
 暗い夜道の中、どこを通っているのかもわからない不安と、その闇に怯え、この上なくそわそわとしてしまう。
 気にしないそぶりをしようにも、そう意識すれば余計にぎこちなくなるから、益々悪循環だった。
 この状況をどうしようかと思っていた時、カイルの方から先に話し出し、エレナは運転するカイルに視線を向けた。
「インターネットしてたんだって。しかもかなり長い時間」
「うん、そうなんだけど。こんな事になって、カイルごめんね。迷惑かけちゃったね」
「迷惑だなんて、僕はエレナに会えて嬉しいよ。今日はとっても会いたかった。特に今日みたいな最悪の日には君に会って慰めて貰いたい気分だ」
 空気が抜けて萎んでいきそうなくらい、カイルの声は弱々しく、抑揚が全くない。
 そして視線は前を向きながら、エレナの方をちらりとも見なかった。
 『最悪の日』という言い方にエレナが引っかかっていた時、次第に車の速度が落ちていき、路上の端に寄っては、雑木林へ続く散歩道の入り口付近で突然車が停まってしまった。
 住宅街から離れ、辺りは自然なままに森林が茂っているだけの寂しげな場所で街灯もなく、行き交う車も全くなかった。
 そんな真っ暗の闇の中に車が停められ、エレナはびっくりしてカイルに振り向けば、カイルは、ハンドルを抱きかかえるように顔を伏せてしまっていて震えていた。
「カイル、一体どうしたの?」
 尋常でないカイルの様子に、エレナはうろたえてしまった。
「カイル、カイル……」
 名前を何度も呼んでも、カイルは暫く顔を上げなかった。
「カイル、お願い、訳を話して」
 エレナはシートベルトを外し、運転席に身を乗り出した。
 カイルの背中をさすり、オロオロとしていたとき、ようやくカイルが顔を上げた。
 うつろな目つきでエレナを見ては、焦点が定まっていない。
 しかし、エレナに助けて欲しいと訴えるように、瞳が潤っていた。
「僕はもう限界だ。もう終わりなんだ」
 言葉が口からこぼれるように、さらりと言ったかと思うと、その後は耐えるように歯を食いしばり、顔を歪めていた。
 かろうじてお互いの顔が見える暗闇の中で、そんな顔をされると、エレナは不安に怯えてしまった。
「一体何があったの?」
「僕が担当していたリゾート開発の仕事が突然中止になってしまった。それは会社にも莫大な損失を与えることなんだ。この仕事は僕にとって力を注いでいて、 必ず成功すると思っていただけにこんな事になって、正直僕は参ってしまったよ。これから先どうしていいか全くわからないんだ」
「仕事が突然中止?」
「ああ、罰があたったのさ。昨日、ライアンを殴り、そして君に無理やりキスしようとしたからさ」
「そんな……」
「このままじゃ父の会社を潰してしまいそうだ」
 カイルは力なく、自虐して薄ら笑いをしていた。
 それがどこか不気味でもあり、カイルが血迷っているようにも見えた。
「ダメ! そんなことない。カイルなら絶対なんとかする!」
 エレナの焦る気持ちが高まると、どうにかしたいと叫ばずにはいられなかった。
「ううん、僕はもうヘトヘトなんだ。今まで必死で頑張ってきたけど、もう気力が湧かない」
「そんなのカイルらしくない。カイルはどんな困難でも克服して、いつも成功してきたじゃない。今回も絶対……」
「もういいよ、エレナ。今回ほど、絶望的なことはないんだ」
「カイル、お願い、そんな風に言わないで。言ったでしょ、私はいつだってカイルが成功するって信じてるし、どんなときでも応援するって」
 エレナはいつでもカイルの味方なのはわかっていた。
 まだエレナが小さかった頃に、落ち込んでいた自分の側に来て、その悲しみを取り除こうと背中を抱いてくれた事をカイルは思い出していた。
 エレナはカイルが困っていれば、元気付けるために必ず何かをしようとする。
 それをわかっていて、カイルは敢えて言った。
「それじゃエレナは、僕が成功するために一体どんな応援をしてくれるんだい?」
「えっ?」
「エレナはいつも僕を励ますために、色んな言葉を掛けてくれるけど、僕が本当に望んでいるのは言葉なんかじゃないんだ。エレナ自身さ」
「あっ……」
 エレナははっとして、言葉につまった。
「エレナが側にいてくれて、いつも僕を励まして、僕の事を愛してくれたなら、僕は君のためなら死に物狂いで頑張れるかもしれない。でもエレナは僕よりもライアンが……」
 カイルがそこまで言いかけたとき、エレナは突然それを遮った。
「私、カイルの事愛してるわ!」
「エレナ……」
「カイルはいつだって私の事助けてくれた。初めて施設に来たときからずっと側に居てくれた。どんな時も私の事第一に考えてくれた。私が今一番大切にしなければならないのはカイルなの!」
 エレナは必死だった。
 カイルを助けたい一身で、いつもの暴走だったかもしれない。
 カイルもそれをわかっていて、そう仕向けたかもしれない。
 それでもカイルはやっと自分が聞きたい言葉を、エレナから引き出せたことが嬉しかった。
「だから、だから、一緒に頑張りましょう。また最初からやり直せばいいの。カイルならきっと、切り抜ける。私、ずっとカイルの側に居て応援するから」
「エレナ、本当にずっと僕の側に居てくれるのかい?」
「ええ、もちろんよ」
「それじゃ僕と結婚してくれるのかい? ずっと僕の側に居てくれるってそういうことだよね」
 エレナは、結婚という言葉にドキッとしてしまった。
 だがもう後にはひけない。
 ポートにもカイルの事を考えるように言われた後では、エレナの答えはこれしかないように思えた。
「ええ、そうよ」
 カイルは信じられなかった。
 目の前でエレナが、自分と結婚する意志を示している。
「エレナ、ほんとに、僕と?」
 悲観的だったカイルの表情が和らぎ、そこに希望の光が差し込んだように、声に弾みがあった。
「ええ、カイルと結婚するわ」
 エレナがそれを言い切ったとき、カイルは目を見開き、びっくりしすぎて金縛りにあったように暫く動けなかった。
「カイル?」
 エレナに名前を呼ばれて、我に返り、そしてエレナをじっと見つめた。
 結婚という言葉は、明らかにカイルの落ち込みを吹き飛ばす要因となった。
 仕事の失敗の事ですら、今はどうでもいいと思えるほど、カイルはその言葉で勇気付けられている。
 カイルはシートベルトを外し、身を乗り出してエレナを無我夢中で抱きしめた。
「エレナ、ぼくはこんなにも力をもらった事ないよ。君が側に居てくれるのなら、本当になんでもできそうな気持ちになる。ありがとう」
 勢いづいたカイルに強く抱きしめられたとき、エレナは何を考えていいのかわからなくなっていた。
 自分で結婚すると口で言ったのに、言葉と思いがなんだかチグハグして違和感があり、そこにライアンが突然頭に思い浮かんでしまった。
 なぜそんな気持ちになったのか、エレナ自身戸惑うも、それを必死に隠してしまう。
 カイルが水を得た魚のように、やる気を起こしてくれた事に集中し、これでよかったと思い込もうとしていた。
 しかし、その裏で、また自分が突っ走ってしまった行為のようでもあり、エレナはこの場に及んで怖気ついていた。
 結論を出しても、エレナはまだ迷宮で彷徨っている。
 そんなエレナの心情に気づくことなく、カイルは確実に前に進もうとしていた。
 カイルがエレナから体を離すも、顔は間近でエレナを見つめている。
 この暗さが大胆な部分を引き出し、カイルの本能を刺激した。
 カイルの熱い吐息をエレナが感じたその刹那、それは自分の唇に重なっていた。
 エレナの心臓がドキッとして、一瞬力が入ったものの、エレナは動いてはいけないと言い聞かせた。
 エレナが拒まないことで、カイルは感情を解放させ、自分の欲望のままにエレナの唇を愛撫する。
 エレナにすがりつく情熱がカイルの唇から伝わり、エレナの唇をこじあけようと激しく動いていた。
 エレナはただ震える。
 これが自分の出した結論だということに、ここで初めて気がついた。
 カイルの息が段々荒くなり、身を乗り出してきた時、カイルはエレナの耳元から首筋にキスを移動させていた。
「あっ」
 思わず声が漏れた。
 ぞくっとする感覚と共に、怖いという気持ちに押され、覚悟するようにエレナは体を強張らせ、必要以上に力を込めていた。
 カイルがそれに気がつき、行為を中断させてエレナの目を覗き込んだ。
 暗闇の中でも、その瞳は、怯えながらも、覚悟している気持ちがはっきりと見えた。
 エレナが無理をしているのがカイルには読み取れた。
「エレナ、ごめん。嬉しすぎて暴走しちゃった」
「ううん、だ、大丈夫だから……」
「エレナ、無理しなくていいんだ。僕は充分に立ち直ったよ。それだけで今は充分だ」
 カイルは姿勢を正し、シートベルトを装着する。
「すっかり遅くなってしまった。早く家に戻らないとシスターパメラが心配してるよ」
「そ、そうね」
 カイルが車のエンジンを掛け、エレナもシートベルトを装着し、服の乱れを調えた。
 カイルはエレナが自分のものになったことに満足し、笑みをこぼしている。
 これまでの辛いことや悩みが嘘のように気分がすっきりしていた。
 エレナは、時々振り返るカイルと目を合わせて、笑顔を作るも、カイルが前向きになったことで自分が役立ったとは思うが、結婚という事に実感をもてないでいた。
 ただ一つはっきりしたのは、エレナはライアンの事を考えてはいけないという事だった。
 赤信号で車が停まったとき、カイルはエレナの手を握り締めてきた。
 エレナはそれを目を瞑って受け入れていた。
 カイルがエレナを家に送り届けた時も、カイルは車から降りようとしているエレナの手を掴んで自分の側に引き寄せた。
 一度解放したカイルの欲望は留まることを知らず、エレナにまたキスを迫った。
 エレナは拒んではいけないと、なぜか自分で命令し、それを受け入れる。
 カイルのキスは今までの溜まってた思いがそこに表れるように、何度も激しく唇を愛撫される。
 キスに慣れてないエレナは戸惑いながらも、一生懸命それに応えようとしていた。
 この時はまだキスだけでよかったが、それ以上の事になったとき、自分はどうしたらいいのだろうかと、エレナは考える。
 婚約した今、その時が来たら絶対に拒む事はおかしい。
 しかしどこかでまだ体は抵抗しているだけに、エレナはその時が来るのを恐れた。
「エレナ、本当にありがとう。僕はこれで頑張れるよ」
「カイルなら大丈夫。私、信じてるから」
「君はやっぱり最高だ。君のキスで僕の心は簡単に癒えた。愛してるエレナ」
「私もよ、カイル」
 カイルが立ち直るためだけをエレナは考えていた。
 未練がましく最後までエレナにキスをしては、カイルはやっとエレナを解放した。
 本当なら今夜は家に帰したくないくらい、エレナが欲しくて堪らなかったが、カイルはぐっと堪えた。
 エレナが家に入っていったのを見届けた後、カイルは車を走らせる。
 会社の危機というべき事態なのに、カイルはふわふわとした気持ちで幸せを感じていた。
 そしてそれは、絶対に負けないという鉄の気力に変わり、カイルは困難に立ち向かう覚悟を決めた。
 ──もうエレナは自分のもの。一番欲しいものを手に入れた。やってやる。必ず遣り通してやる。
 何も怖いものがないとでもいうように、カイルはすっかり立ち直っていた。

 その頃、ライアンは一人であの小高い丘の上に立ち、夜景を見ていた。
 宝石箱をひっくり返したように街の光はとても美しかった。
 ここへまたエレナを連れてきてやると言ったが、それももうできないことだとわかっていた。
 周りにはこの夜景を見ようと何組みかのカップルも来ていた。
 寄り添って仲良く歩いている一組のカップルのシルエットが、エレナとカイルに見える。
 首を一振りして馬鹿な想像をする自分を嘲笑いながら、ライアンはその場を後にした。
 エレナと 初めて会った日の事を思い出す。
 王子様の自分はお姫様を救って恋をされるという筋書きだった。
 だがエレナは一人で戦おうとしていた女戦士で、王子様よりも強かった。
 迫ってくる敵と、どこからともなく寄ってきた自信過剰な王子様までも打ちのめしてしまった。
 ライアンは鼻を鳴らして、情けなく笑っていた。
「エレナに会わなかったら俺は最低な男だと気がつかなかったぜ。あの初めて会った時、俺はもうエレナに惚れていたのかもしれない」
 一人ぶつくさ言いながらバイクのエンジンを轟かせ、急な坂道を下りて行った。
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