第八章


「またエレナったら、ぼーっとしてるよね」
「でも、カイルはその反対でいつもより明るくなってない? 最近よく来るしさ」
「そういえば、赤いバイクの人はどうしたんだろう。あの時、何が起こったんだろうね」
「うーん、ねぇ……」
 窓際でぼんやりと外を見ていたエレナを尻目に、子供達はひそひそと話していた。
 知りたくても、中々本人には訊けない話だと、子供心ながら感じている様子だった。
 子供達に心配されていても、相変わらずエレナは気がついてない。
 めまぐるしく環境が変化し、エレナ自身ついて行けないものがあった。
 自分の周りだけが動き、エレナの気持ちは常に置き去りにされ、何を考えていいのかすらわからなかった。
 父親の事件について調べる事も中断してしまい、最初は気持ちが高まってやる気に燃えるが、その後で尻すぼみになっている。
 それと同じように、エレナが勢いでカイルを受け入れ、結婚すると自分で言っておきながらも、それすら他人事のように思え、自分がその当事者である事に実感が持てないでいた。
 結婚の事については、まだ周りに報告せずに暫く黙っておくことになっている。
 カイルも立ち直ったとはいえ、仕事の混乱がまだまだ続き、落ちついて家族に話せる状態ではなかったのもあるが、きちんと婚約指輪を用意し、段階を踏んでから、正式に公に報告したいというカイルの拘りもあった。
 エレナは全てをカイルに任せているが、どこか不安定で、これがマリッジブルーというものなのかすらわからなかった。
 それ以上に複雑な思いが、この時になって現れてきている。
 ただカイルの頑張っている姿を見ると、自分が出した結論が間違ってなかったと思える。
 そこにエレナの感情が入ってないことが問題だった。
 自分の気持ちは二の次ぎに、エレナはひたすらカイルの気持ちに応えようと、そればかり先走っている。
 仕事帰りにカイルが施設に寄る事が多くなり、普段と変わらず子供達の相手をするために、エレナと二人っきりになることはあまりないが、それでもエレナの顔を見ては満足していた。
 施設に居る時のカイルは、いつもと変わらないカイルだが、限られた時間の合間を縫って二人っきりになった時は、必ずキスをしてくる。
 カイルはそれを活力にして、「仕事が頑張れる」と励みにしていた。
 一度、カイルの休みに家に招待されたことがあり、エレナは初めてカイルの家を訪れ、そして部屋を見せられた。
 カイルが金持ちだとはわかっていたが、想像以上に上流階級レベルにエレナは驚いた。
 庶民的なあのカイルからはイメージが湧かないほど、そこは違う世界が漂っていた。
「ここへ君を連れてきたのは初めてだね」
「すごいわ。カイルがこんなところに住んでたなんて」
「僕だって、こんなところに住むなんて思わなかった。僕はずっと施設に住んでいたかったよ」
「どうして? お金持ちの家に引き取られるなんて、すごいことだと思うんだけど」
「僕は最初、ポートさんに引き取られる事になってたんだ」
「えっ、ポートさんに?」
「ポートさん、昔はかなり荒れていてね、交通事故で奥さんと二人の子供を一度に亡くしたから無理もないけどさ」
「うん、その事故の事は昔に聞いたことあるけど、ずっと立ち直れなかったんだね」
「それで、家も庭も荒れ放題でさ、たまたまその辺りを通りかかったとき、バラが咲いてたんだけど、人が住んでるなんて思わなかったから、勝手に忍び込んでバラを盗もうとしたんだ」
「嘘、カイルがそんな事をするなんて」
「ああ、あの時はシスターパメラに何か贈り物をしたくてさ、つい出来心さ。ところが、いきなりポートさんが現れてさ、あの時程、怖かった事はなかったよ。バラの棘が服に引っかかって逃げられなくてさ」
「やだ、カイル」
「笑うだろ。僕もまだほんの子供だったからね、でも潔く謝ったんだ。宝石みたいにとても美しいバラでどうしても欲しかったって。そしたら、ポートさん、な ぜか目を潤わせてさ、僕に花鋏を渡してくれたんだ。沢山摘んでいけって。後で知ったんだけど、バラ園は奥さんのために作ったんだって。それで奥さんも沢山 のバラをみて宝石みたいって喜んだらしい。それではっとして、またバラ造りに励むようになったんだ」
「それじゃ、カイルがポートさんを立ち直らせたんだね」
「ううん、僕は何もしてないよ。だけど、それがきっかけで、僕はポートさんと仲良くなって、ポートさんも施設の事を知ったんだ。それで時々ポートさんは僕を仕事場に連れて行ってくれてさ、それがこの家の庭だったと言う訳」
「それじゃその時に、今のご両親と知り合ったのね」
「うん。その時、母に偶然会って、まさかここの奥様だとは知らなくてさ、自分の事ペラペラ喋ってさ、そしたら、母も子供が欲しくてもできなくて、それで心 がその時病んでたんだ。僕と会うことで、それが癒えていったらしくて、それで僕が施設の子供だと知って養子の話がでた訳さ」
「そうだったの」
「ポートさんは僕の事一番に考えてくれて、金持ちの方が幸せになれると思ったんだと思う。僕も、子供ながらお金があったら施設の助けになれるかもしれない と打算的な考えだったかもしれない。でも、ここに来たら来たで、僕は両親の期待に応えなければならなかったし、お金持ちやその階級に似合った子供にならな くては、ってそればかり考えてしまってさ、自分でも無理をしてたんだ。そんな時、母は僕を施設から引き取ったことを忘れたくてさ、施設を毛嫌いしてしまっ て、僕は板ばさみになってしまったんだ。僕としてはあの施設も自分の家だからね」
「カイル、大変だったんだね。そんな事全然わかんなかった」
「エレナが、あの施設に来たとき、全然馴染めてなかっただろ。なんとなく、自分の境遇に似ているって思ってさ、それで放っておけなくて、力になりたいって思った」
「あの時は、カイルのお蔭で心強かった」
「僕がエレナを意識し始めたのは、君が高校を卒業する前くらいの時さ。高校生ダンスパーティのプロムで君がドレスを着ていたのを見て、ドキッとしたよ」
「あっ、あの時……」
「君は本当に綺麗になった」
 カイルはエレナの頬に優しく触れた。
「あっ……」
 エレナの喉に引っかかった声が微かに漏れた。
「僕は、君のためなら何だってするよ。君が幸せになるためなら」
「カイル……」
 自分の事を取りとめもなく話し、カイルは全てをエレナに受け止めて欲しかった。
 カイルがそのような話をした後で、カイルの部屋に二人っきりとなった今、さすがのエレナにもこの状況がどういうことかわかっていた。
 カイルがゆっくりと顔を近づけ、そして優しく唇を重ねてきた。
 エレナは咄嗟に目を瞑り、それを受け入れるも、カイルに抱きしめられると、棒のように体が硬直して突っ立っているだけになってしまった。
 カイルはその緊張を和らげようと、小鳥が突くように頬にキスをしたり、また唇に触れたりと優しく遊んでいる様子だった。
 エレナがくすぐったいと笑い出すと、カイルもクスクスと笑だした。
 そしてそれを合図に、再びエレナの唇にキスをする。
 いつしかカイルはエレナの耳元にもキスをし、その熱い吐息にエレナは身を震わした。
 エレナの感情を促すために、愛撫を施すが、それはカイル自身の感情も高めていく。
 そのうち動きが段々と激しくなって首すじへ移動していった。
 その時エレナの体がふわりと浮かび、カイルは抱き上げていた。
 そしてベッドの上にエレナをそっと運び、エレナはこの上なく驚きドキドキとしてしまい、声も出せなかった。
 カイルはエレナに覆い被さるように上から真剣な眼差しでエレナを見つめていた。
 エレナは拒めない状況に追い込まれ、怖い気持ちを持ちながらも、いつしか通る道と覚悟を決めた。
 カイルがゆっくりと近づいてきたとき、エレナは目を閉じた。
 だが、カイルはそれ以上エレナに触れることがなかった。
 再びエレナが目を開ければ、カイルは顔を歪まして葛藤していた。
「ごめん、エレナ」
 カイルは覆い被さっていたエレナから離れ、ベッドの端に座った。
「カイル?」
「急ぐことなんて何もない。僕はエレナが大切なんだ。そんな大切なものを僕の欲望だけで簡単に奪うなんてしちゃいけないんだ」
 この状況を打破したいと、カイルはエレナに笑みを向けた。
「……ありがとう、カイル」
 大切にされている事は嬉しくもあるが、その反面、エレナはホッとする気持ちに、なんだか自分でも不思議だった。
 カイルを受け入れたはずではあるが、まだ心が複雑な思いで一杯なことに、自分でもどう処理をしていいか戸惑っている。
「こんな密室に君と二人だけでいたら、僕どうにかなりそうだよ。外にでよう」
 カイルに手を取られ、エレナはベッドから起こされた。
 カイルの優しさ、気遣い、そして自分への愛が痛いほど伝わってくる。
 女としてここまで惚れられて喜びでもあるのに、エレナはそれが心苦しく、自分でもなぜそんな風に思うのかわからなかった。

 気晴らしにどこかへ出かけようと、二人が車に乗りこもうとしたとき、エレナは違和感を感じた。
「今の何?」
「どうしたの?」
「今、何か光らなかった?」
 カイルが辺りを見回したが、特に変わった事は見当たらなかった。
「僕は気がつかなかった」
「私の気のせいかな。この家は大きいし、立派だから、太陽の光が照るだけでも輝いてるのかもね」
「母が聞いたら喜ぶよ。今日は両親が留守でいないけど、次は必ずきっちりと紹介するからね」
「うん」
 二人は微笑み合って車に乗り込んだ。
 カイルが自分を大切にしてくれることを知ったこの日、エレナの心配事が少しだけ減っていた。

 それからまた数日後。
 エレナがお使いで外へ出た時の事だった。
 家を出てすぐのところで、一台の車が自分の前で止まり、車窓が開いたとき、そこには美しい女性の顔が覗いた。
「お久しぶりね、エレナ。どこに行くの? よかったら送って差し上げてよ」
「あっ、あなたはリサ…… あの、その、大丈夫です」
「遠慮なさらずに、さあ、乗って」
 美しい笑みながら、どこか氷のように冷たく、それは居心地悪いものを感じた。
 相手が女性ということもあり油断もあったが、断りきれないエレナはリサの車に乗ってしまった。
 その車は、エレナがどこへ向かうかも訊かずに勝手に走り出す。
「あの、私、ちょっとそこまでの買い物だったんですけど」
「いいじゃない。ちょっと付き合ってよ」
 エレナは緊張して助手席に座っていた。
 車はどこへ向かっているのかわからず、どんどんと家から離れていく。
「あの、どこへ行くんですか?」
「そうね、地獄…… なんてね」
「えっ?」
「あなたを森の奥に置き去りにしてもいいのよ」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 エレナは背筋が寒くなる思いだった。
「エレナ、あなたカイルと婚約したんですってね」
「えっ、どうしてそれを?」
「やっぱり本当なのね。そう……」
「あの、一体どうしたんですか」
「あなたなんて孤児でしょ。みすぼらしい人間の癖に金持ちに取り入って、玉の輿に乗ろうとするなんて、ほんといやらしい。人間の屑ね」
 リサはさらりと言ってのけた。
 エレナは突然の事に絶句していた。
「カイルもなんであなたみたいな人を選ぶのかしら」
「もしかして、リサはカイルの事が……」
「別に、カイルのことなんてこれっぽっちも好きじゃないわ。ただプライドが許せないの。今まで私に振り向かない男はいなかった。それなのにカイルは私をコケにしたわ。その原因が孤児院のみすぼらしい娘だなんて、そんなの許せると思う?」
 エレナは段々と腹が立ってきた。
 リサは見かけは美しいが、心が汚すぎる。
「カイルはきっとあなたの心の中が見えたんだと思います」
「どういう意味よ、それ」
「あなたはとても美しいかもしれません。だけど中身が空っぽだわ」
「何もないあなたに、そんな事言われる筋合いはないわ。あなたよりは沢山のものを持っているし、世間の目からしても、何より私の方が格別に上だわ」
「でもカイルはあなたに見向きもしなかった、でしょ?」
 リサは冷静を保っていたが、イライラが表面に出るようになってきた。
「だからって、エレナが私より優れているって訳ではないわ。あなたは卑怯な手を使ってカイルをたぶらかしたのよ。娼婦のようにね」
 あまりにも滑稽な理由に、エレナは突然笑い出した。
「何がおかしいのよ。図星なので開き直ってるのね」
「勝手に想像しておけばいいわ。あなたが私に言葉で罵れば罵るほど、あなたの心の貧しさが見えてくるわ」
 リサの表情が険しくなっていた。
「エレナなんてこの世から居なくなればいいのよ。あなたの方が取るに足りない存在。あなたなんて大嫌い」
 大嫌いという言葉にエレナははっとした。
「あなたなのね、私を誘拐させるように仕向けたのは」
「そんなの知らないわ。あなたが誘拐されたところで、それはあなたの責任でしょ。男をすぐにたぶらかすから相手が誤解した結果がそれよ。自業自得よ」
 白々しく白を切り、どこまでもリサは懲りなかった。
「リサ、車を停めて。私を降ろして」
「まだだめよ。もっと遠くで降ろしてあげるわ。人も来ない、バスも通ってないようなところに」
 エレナは、リサが壊れていると感じた。
 なんとか逃げたいと思った時、ちょうど信号に差し掛かり車は止った。
 これを逃せば、すぐ先はハイウェイの入り口があり、それに入ってしまえばノンストップで本当に遠くまで連れられてしまう。
 エレナは一か八かに掛けた。
 すばやくシートベルトを外し、ドアを開け身を起こした。
「エレナ、何をしてるの!」
 車の多い道路であるが、信号のお蔭で止まっている。
 その一瞬の隙を掻い潜り、エレナは、リサの車から降りることができた。
 自分でも、危ない事をしていると思うが、それしか助かる道がないと思うと、無茶をしてでもエレナはやってしまう。
 車から飛び降りたエレナは、止まってる車の間を抜け、さっさと端に寄った。
 他の車に乗っていた運転手は、呆れた目でみていたが、エレナはどうでもよかった。
 そのうち、信号は青に変わり、リサは動かざるを得なくなり、そしてそのまま流れに逆らえずに遠くへ行ってしまった。
 それは危機一髪の一瞬の事だった。
 リサは上手くいかなかったことに、かなり悔しがっているに違いない。
 エレナは、知ったことじゃないと踵を返し歩き出した。
 バスも通っており、家までは自分で帰れる範囲だった。
 自分を嫌ってる黒幕もわかり、エレナが警戒することで、リサは今後近づきにくくなることだろう。
 警察に届ける事もできたが、誘拐された時は謎の男に助けられ、自分の複雑な状況も説明しないといけなくなってくる。
 それにもしニュースになったとしたら、自分の存在が、追いかけているものにばれる恐れも出てくるかもしれない。
 公にすれば自分にも都合が悪くなることで、エレナは黙っておく事しかできなかった。
 カイルも仕事でややこしい時に、こんな事を話せば、心配をかけるかもしれず話せなかった。
 もし何かあったとしたら、謎の男がどこからか現れるかもしれない期待もあったので、エレナは一人で背負い込むことを決めた。
 あれから謎の男は接触はしてこないが、エレナ自身どこかで彼が見ていると確信していた。
 謎の男に対しては警戒心がなくなっていた。

 エレナに告白して、カイルに殴られ、それから惨めな思いをしながらも、なんとか必死に立ち直ろうとライアンは努力していた。
 ライアンの心は軟化し、周りの事を良く見るようになっていた。
 粋がっていた態度も、角がとれたように丸みを帯び、その様子はハワードもすぐに感じ取っていた。
 ハワードは特別その事は口に出さず、いつものように厳しい眼差しで、容赦はしないが、時折依頼された事で聞き込み調査をするときは、ライアンを連れて行き、ライアンの意見を聞くようになっていた。
 それは仕事を教えられているようで、ライアンはハワードの気遣いを感じる。 
 ライアンが必死になろうとしている姿を、一番側で応援してくれているように思えた。
 エレナの事を考えない日はなかったが、ライアンは今のままではカイルに勝てないだけに、せめて自分を磨くことで紛らわそうとしている。
 そんなある日の事。
 ライアンがいつものように事務所に顔を出すと、ハワードが気難しい顔をしながら、俗っぽいタウン新聞に目を通していた。
 無料でその辺に置いてあるような新聞で、ローカルな話題たっぷりに、下世話なネタまで取り扱っている。
 ハワードは情報集めのために、絶えず色々な雑誌や新聞に目を通し、その種類はメジャーなものからマイナーまで様々だった。
 情報集めはハワードには欠かせない仕事のうちなので、常に何かを読んでる事はそんなに珍しいことではない。
 しかし、この日のハワードは浮かない顔をしていた。
「よぉ、ハワード、朝からいつも精がでるね。毎日毎日飽きもせず色んなものが読めるよ」
「ライアン、お前エレナとはもう会ってないのか」
 いきなりの質問にライアンは凍りついた。
「なんだよ、いまさらそんな事訊いて。カイルに殴られてから全然会ってないよ。散々ハワードからも諦めろって言われたしな」
「それじゃエレナがカイルと婚約したことは知らないのか」
 ライアンは凍った上に、頭から金槌で殴られて粉々に崩れた気分だった。
「なんだって!」
 あれから日にちは経ってるとはいえ、そんな話に早くも進んでいたとは、寝耳に水だった。
 完全に道を塞がれ、自分の思いはどこにもいけなくなってしまったが、今更の事でもなかった。
 エレナがカイルを選んだことで、完全に諦めなければならない構図が出来上がり、ライアンの体の中にあった色んな思いが抜けていくようにふーっと息が漏れた。
 ハワードに苦笑いをぶつけながら、ライアンはヘラヘラとしだした。
「そっか、二人は婚約したのか……」
 祝福しようとしても、割り切れない気持ちで、ライアンは落胆する。
 ハワードは、そんなライアンに向かって、地元のネタを集めたマイナーな新聞を見せた。
 そこには二人の名前ははっきりとは書いてないが、バチェラー百選に選ばれた男が結婚に選ん だ相手は孤児院出身だったと書かれていた。
 現代のシンデレラストーリーとして世間の興味を引くネタになっていた。
 二人の事を知っているなら、名前が載っていなくても、カイルとエレナの事を意味しているのは一目瞭然だった。
「この記事からしたらカイルは仕事で失敗して大損したが、陰でエレナが支えたお陰で立ち直っている姿がドラマチックに書かれているのだが……」
「へぇ〜カイルでも失敗することがあるんだな」
「でもなんかおかしいと思わないか」
「何がだよ。二人が幸せならいいじゃないか」
 とは口でいいつつも、ライアンにはこの話題は辛すぎた。
「カイルもエレナもこんな話は人前ではしないということだ」
「誰かが漏らしたんじゃないの」
「いや、これは意図的に作られている。考えてもみろ人前で話さないような話を誰が知っているんだ。誰かが調べて、故意にこの記事を書いたとしか思えない」
 ライアンはその時、ハワードの言ってる意味がわからなかった。
 だが、ハワードの読みは正しかった。
 その意味がわかったのは次の週の事だった。
 再びエレナとカイルの物語の続編が掲載されており、その記事をハワードは見て、顔色を変えた。
「ライアン! ライアン!」
 この時トイレに入っていたライアンを急かした。
「ちょっと待ってくれって!」
 バスルームのドアの奥から篭った声が聞こえてくる。
 その間に、ハワードは慌てて電話を取り連絡を入れる。
 エレナを守りたくて依頼をしてきたあの男、Dに──。

 その同じ頃、カイルは会社で地元の下世話な新聞を同僚から見せられて驚いていた。
 自分とエレナの記事が載っている。
 しかも実名入りの事実無根の内容で。
『ワーナー株式会社の御曹司、カイル・ワーナーは孤児院出身のエレナ・コナーと婚約し、それは一見、シンデレラストーリーとして世間を騒がせたが、実際は 違っていた。孤児院は今年中に立ち退きを市から命じられ、それを救おうとエレナ・コナーがカイル・ワーナーの仕事の失敗をいいことに取り入り、献身的に支 えてるふりをしていたと噂されている。エレナ・コナーは自分の美貌を鼻にかけ、その魅力を発揮して色んな男性歴を持つところがあり、それを利用してうまく そそのかすことで、利益を手に入れられると考えたのだろう……』
 目は隠されているとはいえ、ご丁寧にエレナとカイルが一緒に居るところの写真が載せられていた。
 自分の家の表庭に置いた車に、二人が乗り込もうとしていた写真だった。
 これを見た時、カイルはあの時何かが光ったと、エレナが言っていたことを思い出した。
「くそっ、これを撮っていたのか。もっとよく確かめていたら」
 自分の不注意さに呆れると共に、このような酷いことをされて、カイルは憤慨していた。
 エレナに電話を入れようとしたが、このような記事をまだ読んでいないと思い、知らせることを逡巡した。
 それよりも、法的に処理をすることの方が先だった。
 しかし、誰にも言ってない婚約の話が、なぜこのような事態になったのか考えてた時、カイルは一人だけ伝えた人が居ることに気がついた。
 あの時は、陰謀説を疑い、それをやりこめるために強気の発言になって、ポロッと言ってしまい、あまり深く考えてなかった。
 グッドフィールド社長、即ち、リサの父親だった。
 これで何もかもはっきりとした。
 全ての元凶はリサ──。
 許せないと思いつつ、カイルは冷静になろうと目を閉じ、息を深く吐いた。
 そして、然るべき対応をとるべく受話器を取った。
 だが、これがエレナにとって最悪の事態になることまでは、この時まだ知らないでいた。

 暢気にバスルームから出てきたライアンは濡れた手を振って乾かしていた。
「一体なんだよ、ゆっくりトイレくらい行かせてくれ」
「ライアン、すぐにエレナのところへ行け!」
「えっ?」
「何をぐずぐずしてる。早く、バイクを飛ばして、エレナの元へ行くんだ!」
「なんだよ、あれ程諦めろとか言っておきながら、今更俺をからかうのはよしてくれ」
「バカ、何を悠長な事を言ってる。エレナが危ないんだ。つべこべ言ってる暇はない。今はお前しか助けられない。早く行け。詳しいことは後だ」
「エレナが危ない!?」
 それを聞いて寒いものが背筋を走った。
 ハワードが危険を知らしめると言う事は、何かが動き出した。
 エレナが係わっている問題は知る由もないが、ライアンはとにかく飛び出した。
 アパートまでバイクを取りに、力の限り走った。
 ハワードは、念のため、エレナの施設へ電話を掛けた。
 だが誰もそれを取るものはいなかった。
 繋がらない電話のコール音に嫌な予感を抱いていた。
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