第八章
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エレナはこの時、買い物のために外に出ていた。
シスターパメラに頼まれたものを近所のスーパーで調達するだけだったので、用が済んだらさっさと家に戻ろうとしていた。
シスターパメラは相変わらず留守をしがちで、とても忙しそうにしている。
沢山やる事はあると思うが、これも立ち退きの話が影響していると感じていた。
自分の事ばかり考えていたので、暫くこのことを忘れていたが、いつまで黙っておくのだろうとエレナは考える。
カイルにだけは相談してもいいのではと思いつつ、カイルも仕事の事で頭が一杯になってる今、やはり迷惑は掛けられないことに再度気がついては、同時に溜息が漏れた。
自分の結婚の話もそうだが、一体この先、何から手をつけて行けばいいのか、やはり頭が混乱してくる。
全てが中途半端に、自分の事も何も解決してないまま、ここまで来てしまったことに、どこか不満を感じてしまった。
不意にライアンの事が頭によぎり、あっと思った時、抱えていた紙袋を強く抱き締めてしまった。
考えれば、芋づる式に関連して思い出してはいけないことも頭に浮かぶので、それ以上何も考えないようにして、エレナは家に戻ってきた。
玄関先で、鍵を開け、中に入ろうとした時の事、ふと誰かに見つめられている気配を感じ、その視線を感じる方向へ振り返れば、人影が家の裏へ回り込んでいくのが見えた。
ドキッとしたが、逃げた事で、すぐに謎の男の事を想起してしまった。
追っている者なら、身を隠すどころか正々堂々とこの場で連れて行ってしまう。
自分の勘も働き、どうしても謎の男に思えてならなかった。
今まで自分を見守ってきてくれたというイメージで見ていたので、エレナは謎の男は自分の味方だと位置づけていた。
すっかり警戒心がなくなり、怖いという感情も薄れ、それよりも会いたいと思う好奇心が強くなっていた。
玄関先に荷物を置き、エレナはその人影をそっと追いかけた。
施設の裏は木が所々に茂り、ちょっとしたブリティッシュガーデンのように、草花も植えられている。
これはポートが子供達と一緒に造った庭だった。
元々区切りのない自然な地帯なため、その裏は、少しの雑木林と広い草原が広がり、この一体はまだ開発されていない自然の景色が広がっていた。
住宅街として位置づけられてないので、周りの建物は乏しく、広い土地がある元農家の家や、昔からあった家がポツポツと建ってるような場所だった。
市長が立ち退きを進めるのも、この辺りの地区の制限が緩やかになり、開発される地域に区分されたからだった。
いつまでも無償で貸しているよりも、地域発展のためにはここを開拓して利益を得たほうが市も潤うのはわかっていても、自分達が犠牲にならなければならないのが辛いところだった。
その自然が広がる木と木の間は子供達もかくれんぼするのにはもってこいの遊び場で、謎の男もそこに隠れているように思えてならない。
家の周りをざっと見たが、人影は気のせいだったのかと思えるほど、鳥すら見かけなかった。
しかし、木の間を抜けた向こう側に黒っぽい塊が見え、それが車のように思えた。
家の斜め裏辺りに位置していたが、あんなところに車が止まっているのは不自然で、もしやとエレナはこっそりと近づいた。
木々の間からそっと覗けば、やはりそれは車だった。
比較的新しく、不法投棄されるような廃車には見えなかった。
運転席には誰も居なかったので、エレナは側に寄って中を覗き込んだ。
その時、後ろでパキッと小枝が折れる音が聞こえ、エレナは咄嗟に振り返った。
そこにはサングラスを掛けた、がっしりとした男が立っている。
Dだった。
その姿を見たとき、エレナは親しみのような気持ちを感じ、会えた事が嬉しくすら思える。
「あっ、あなたは、もしかして、以前私を助けてくれた人なの?」
エレナの質問を無視して、Dは言った。
「私と一緒に来るんだ」
「えっ?」
「何をぐずぐずしてる、さっさと車に乗るんだ」
「ちょっと、待って、私、それは」
突然の事にエレナは驚いてしまい、後ずさりしてしまった。
走りさろうとしたエレナの腕をDは咄嗟に掴み、エレナを羽交い絞めにして、声を出せないように念のため口を押さえ込んだ。
下手に大声を出されて、周りに異変を気づかれないようにしようとしただけだったが、却ってこの状況では逆効果だった。
エレナは戦慄を感じ、激しく震え上がった。
そして必死に抵抗する。
「動くんじゃない。後で必ず理由を話す。今は時間がないんだ。頼む、言うことを聞いてくれ」
しかし、パニックに陥っているエレナを大人しくさせる事は難しかった。
「くそっ! やむを得ん」
男は焦りから、つい苛立ってしまった。
仕方がないと、万が一のときにと用意していたガムテープを取り出し、それでエレナの口を封じ込め、声が出せないようにした。
「少々手荒な真似をしてすまない。理由は車の中で話す。静かにして欲しいだけだ、我慢して欲しい」
そしてエレナの腕を後ろ側に引き寄せてガムテープでぐるぐると巻いた。
すっかり怯えあがったエレナを車の後部座席に詰め込み、男も急いで運転席に乗り込むと、すぐに車を走らせた。
この時、Dは、一刻も争うほど切羽詰っていた。
ちょうどその時、ライアンが施設の前にバイクで現れた。
玄関先に中途半端に置かれたスーパーの紙袋を見て、はっとする。
「エレナ!」
名前を呼んで辺りを見回したとき、車が一台、施設の横の何もない辺りから出てきては、雑に曲がって表の道路を走っていくのが見えた。
その後部座席には、口をふさがれた女性が、悲痛な面持ちで窓に顔を寄せて、ライアンを見ていた。
「エレナ!」
ライアンはすぐにバイクに跨り、後を追った。
──嘘だろ。
正直、目の前で見てることが信じられない。
エレナが本当に危ない目に遭い、誘拐されている。
ライアンは天変地異のごとく驚き、必死で追跡する。
Dはバイクの予想外の接近に苛立ち、振り切ろうと車のハンドルを横に切った。
なんとしてでも、その車の前に出たいライアンだが、車の無茶な運転に妨害され、どうしても抜かせない。
そして、後部座席からエレナが悲惨な目をして、ライアンに助けを求めている姿を見て、焦ってしまい、いつものようにスムーズに運転できないでいた。
下手に車に接触をすれば、ライアンがバイクごと転がってしまう危険もある。
そんな様子を見ていたエレナは、自分ができることを考えた。
後部座席で体制を整え、後ろで縛られている手を使って、車のドアのロックを解除し、そしてドアを開け飛び降りようとしていた。
それにいち早く気がついたDは咄嗟に叫んだ。
「エレナ危ない、止めるんだ」
やむを得ず、急ブレーキを掛けてしまうが、その反動ですでに飛び出そうと身を前に出していたエレナは却って開いたドアから零れ落ちることになってしまう。
エレナは転がって体全体を地面に叩きつけられた。
頭を強く打たなかったことだけは幸いだった。
しかし、走行中の車から転げ落ちたその衝撃は、エレナが思っていたよりも最悪で、恐ろしいほどの激痛に見舞われ、意識が朦朧とする。
その中で、ライアンがバイクから飛び降りて、走って自分に寄って来る姿がぼやけて見えた。
そしてエレナはライアンの事を思いながら気を失ってしまった。
Dは素早く車から降り、エレナを抱き抱え、全てのガムテープをはがし、体が楽になるようにしてから、すぐにまた車の後部座席に乗せた。
その後ろで、ライアンが立ちはだかる。
「エレナから手を離せ!」
バイクのヘルメットを脱ぎ、それを放り投げて男に殴りかかろうとしたが、Dの動きの方が素早かった。
振り向きざまに、電光石火のごとくライアンの腹に蹴りを入れ、ライアンは咄嗟の動きを封じ込められた。
「動きが遅いんだよ。声を掛ける暇があったら、先に飛びかかれ」
「この野郎」
ライアンは力の限り拳を振り上げたが、それも簡単にかわされてしまった。
「動きが大げさだ」
再び腹を蹴り上げられるが、二度目のダメージとその蹴りの強さが利いてしまい、ライアンの目が霞んだ。
「一度だけと思うな。二度目はさらに堪えるもんだ」
「く、くそっ……」
差し込むような激痛で、ライアンはその場に倒れ込んでしまった。
Dは容赦なくさらに体を蹴り込む。
ライアンは転がってぐったりとなった。
「余計なことしやがって。一度だけは助かったといえ、お前はいつも変なタイミングで俺とエレナの前にでてくる。これで三度目だ」
「ま…… 待て……」
ライアンが手も足も出ないまま、Dの運転する車が去っていった。
「エ…… レナ」
苦しい息でそう呼びながらライアンは道端で気を失ってしまった。
「君、大丈夫かね」
ライアンを心配して通りがかりの人が様子を伺っていた。
バイクで転倒し、事故を起こしたと思っていた。
心配されている中、ライアンは立ち上がった。
「車は、車はどこへ行った」
ライアンは腹の痛みに顔を歪めながらヘルメットを拾い、転けたバイクを持ち上げた。
それに跨り、ヘルメットを装着する。
「おい君無理をしちゃいかん」
心配されているのにそれを無視して、バイクでまた走り出した。
ライアンの脳裏にはぐったりとして後部座席にいたエレナの姿がよぎり、自分が救えなかった事が悔しくてラ イアンは激怒した。
「くそ!」
バイクのエンジンを轟かせながら思いっ切り叫んでしまう。
ライアンがバイクを走らせても、さっきの車の姿はもうどこに もなかった。
これ以上どうすることもできず、バイクを止め、ヘルメットを脱ぎ、ポケットから携帯を出しハワードに連絡を取った。
「ハワード大変だ。エレナが俺の目の前で、連れさられた」
ハワードは最悪の事態に驚きを隠せなかった。
Dにはいつものように連絡はしたものの、それはただ指定された場所に伝言を入れるだけで直接話すことは一度もなかった。
依頼に一度ここに現れただけで、Dからは直接ハワードに連絡を入れることは決してなかった。
それがこのような最悪な事態を招いてしまい、まさかD自身がエレナをさらって行ったとはハワードは思わなかった。
こういった場合、どうすればよいものか、ハワードは考え込んだ。
エレナの事を知っているだけにこの事件に関してはもう他人事ではいられない。
「ライアン、今から私もそちらへ行く。カイルにもすぐ来いと連絡を入れるんだ」
「カイルにか?」
「そうだ、これは非常事態だ」
「わかった」
そう言って電話を切ったものの、ライアンは気が重くなる。
自分でもこの状況が飲み込めてないままに、目の前でエレナがさらわれ、しかも走行中の車から落ちて大怪我しているかもしれないだけに、助けられなかった自分が悔やまれる。
ぐっと体に力を込めて、携帯電話を握り、カイルの電話番号を探していた。