第九章


 エレナはあの後、一睡もできなかった。
 薬も効き目が切れてくると、痛みが酷くなり、ギシギシと体の中で摩擦を起こし、熱くなる。
 とても苦しい。
 いつまでこの体が持つのか、一向に痛みが治まらず、却って酷くなっていると自分でも感じていた。
 しかし、そんな事を今更言えず、自分にはやらなければならない事がある。
 絶対にくじけられない、なんとしてもやり通さないといけない。
 エレナは気力だけでベッドから起き上がり、震える手で薬を手にして、勢いでごくりと飲み込んだ。
 きっと上手くいく。
 それだけを信じて、壁伝いに無理をして歩く。
 夜明けがすぐそこに来ている薄暗さではあるが、それは確実に周りを明るくしていた。
 エレナはかつて慣れ親しんだ海が見たくて、居間に向かっていた。
 まだはっきりと色が見えないが、そこには懐かしい海が、変わらない姿であった。
 そして、その部屋では、皆がまだ休んでいた。
 その中でも、ソファーで座ったまま眠っているライアンに目が行った。
 レイにも言われて、本当に好きなのはライアンだというのは自分でもわかっていた。
 出会った時は最悪でも、ライアンの側に居て、ドキドキとした日々。
 夢中で抱きしめてしまった、温かいライアンの背中。
 ライアンをいつも感じてしまった、モスグリーンのダッフルコート。
 ウィットにとんだ話術に、屈託のない笑顔。
 全てがなぜかストレートに心の中に入ってきては、心が惑わされ、常にライアンのことを気にしてしまった。
 自分でもなぜここまで気になってしまったのか、一番のきっかけは最悪の出会いの時に見た、あの背中だった。
 あの時、ライアンを怒らせて、踵を返していったライアンのあの背中が、エレナの心を捉えるきっかけだった。
 そこには無視できないものがあり、そしてバイクに乗った時にそれを抱きしめてしまったことで、エレナの中に恋の炎が芽生えてしまった。
 ずっと、それを自分で否定して、心に鍵を掛けたつもりだったが、それはもうとっくに外れていることにも気が付いた。
 どうしようもないライアンへの思いが、彼の寝顔を通じて益々押えられなくなる。
 どんなにライアンが好きでも、エレナが選んだのはカイル。
 あの時、頭の中では納得ができる筋道が通っていた。
 それなのに感情はそれに従わない。
 咄嗟にライアンから目を逸らし、それと同時に自分の感情にも、必死に目を逸らそうとした。

 エレナは皆に何かをしたくて、食べ物を探しにキッチンに向かった。
 不思議だったのが、十年も家を空けていたのにあの頃と全く変わっていなかったことだった。
 電気、水道も通っているし、冷蔵庫を開けると、多少の食べ物も用意されていた。
 この十年間、いつここにエレナが戻ってきてもいいように、レイが家までも守っていてくれたことに、エレナは申し訳なくなった。
 なんとしてでもレイを救わなければならない。
 体の痛みはレイの苦しみと比べたら些細なことのように思える。
 エレナは踏ん張って、手を伸ばし、戸棚からフライパンを取り出した。
 その時、後ろから声をかけられた。
「エレナ、起きて大丈夫かい。体の具合いはどうだ」
「ハワードさん。私は大丈夫です」
 それが嘘だとハワードにはわかった。
「何をしようとしているんだ」
「朝食を作ろうと思って。レイが色々と食べ物を用意してくれていたの」
「君はできるだけ休んだ方がいい。私達は大丈夫だ。今日は忙しくなる。それまで余計な事をしない方がいい」
 相変わらず、その目つきはきつかった。
 しかし、そこにハワードの気遣いが伺える。
「はい」
 エレナは素直に言うことを聞き、部屋へ戻ろうとしたとき、ライアンがキッチンに入って来た。
 入り口でばったり出くわしてしまって、エレナははっとしてしまった。
「おい、エレナ、こんなところで何してるんだ。休んでなきゃだめじゃないか」
「うん、今、ハワードさんにも言われたところ。ベッドに戻るね」
 エレナはライアンの顔をまともに見られなかった。
 伏目がちにしていると、ライアンもまた気遣えず、仕方がなくエレナから離れてすぐさま冷蔵庫のドアを開けた。
「おっ、なんかある。これ食っていいのか。昨日から何も食べてなくて腹ペコだぜ」
「ライアン行儀悪いぞ」
「何言ってんだい、ハワードだって腹減ってるから台所に来たくせに」
 相変わらずのぶっきらぼうなライアンの姿は、エレナの心をなごませた。
 それに深く係われないだけに、エレナは断ち切ろうとそっとそこから出て行った。
 カイルはその時、窓際に立って海を見ていた。
 その瞳は物悲しく、迷いが生じて、目の前の海と同じように茫洋としたまとまりのない思いが溢れていた。
 エレナはそっと近づき、後ろからカイルを抱きしめた。
 自分はカイルを選んだ。
 それを自分に知らしめるためだった。
「景色がきれいでしょ」
「エレナ、起きてちゃだめじゃないか」
「大丈夫だから、そんなに心配しないで。今はカイルと一緒にこの景色を見たい」
 エレナはカイルの隣に立ち、そっと微笑んだ。
「エレナ……」
 エレナが自分のために微笑んでいるのに、カイルは素直に喜べない。
 寧ろ苦しく、胸を突かれる痛さがあった。
 それでも、カイルはエレナの肩を抱きしめ、必死に寄り添った。
 エレナも自分の頭をカイルの肩にもたせ掛けた。
「小さかった時は毎日この景色を見ることに飽きていたわ。でも見られなくなるとあんなに悲しいなんて思わなかった。また見ることができて本当に嬉しい」
「あの時、君はこの景色を恋しがってたんだね。本当に美しい海だ。今度はきっと君のお父さんと一緒に見られるよ」
「そうよね、父もこの景色をまた見られるのよね」
 二人は物静かに寄り添ってはいるが、心の波は穏やかではなかった。
 この先の不安にどこか怯え、カイルはそれを払拭しようと、エレナを見つめ、キスを求めた。
 エレナはそれに素直に従い、そっと目を閉じた。
 二人の唇が重なろうとしていた時、そこへライアンが入ってきてしまった。
 ショックも強かったが、声にならない詰まった感情が喉の奥から飛び出してしまい、それを飲み込むことができなかった。
「うぉっ」
 エレナとカイルはその声にはっとして、すぐキスを中断した。
 あまりにも気まずいライアンは、開き直るしかなかった。
「す、すまない。邪魔するつもりはなかったんだ。ただ、なんか食べないかなって思ってさ、ハハハハハハ」
 乾いた笑しか出てこない。
「そういう時は静かに奥に引っ込めよ。わざわざ声だしやがって、わざと雰囲気壊したんだろう」
 カイルもまた本能的にライアンを敵視してしまう。
「ち、違うよ。び、びっくりしてさ。ご、ごめん。だけどさ、おまえもそういう事は隠れてしてくれ。目のやり場に困るだろうが。こっちの事も考えろよ」
 エレナはただ目を伏せて俯いていた。
 一層のこと、キスしているところをライアンに見られてもよかったとさえ思えるほど、エレナは自分が壊れてしまいたかった。
 そうすることで何もかも吹っ切れたかもしれない。
 エレナはカイルの手をとり、強く握った。
 せめて、カイルとの仲が上手くいっていることだけでもライアンに知らせたかった。
 不自然に握ってきたエレナの手は、カイルを余計に困惑させる。
 エレナはライアンの前だと、過度に感情を高ぶらせていることに気がついた。

 家にあるもので朝食を済まし、四人は一筋の希望を持って教会へ向かった。
 後部座席でエレナはカイルに寄り添うように座っている。
 薬は多少利いていたとはいえ、移動中に起こる振動はエレナの体の痛みを絶えず刺激した。
 曲がった時や信号で止まって再び動き出すときが、特に体に負担がかかり、その度に顔を歪めていた。
 時々、気が遠くなりそうになるも、必死に耐えては、荒く呼吸をしている。
 痛みが走る度に、エレナはカイルの手を無意識に強く握っていた。
 カイルはエレナが苦しんでいる姿をまともに見てしまい、辛くて仕方がない。
 「大丈夫か」と声を掛ける事も無意味で、何も言えず、このままでは本当にエレナが力果ててしまうのではと思うと、気が気でなかった。
 必死で踏ん張っているエレナを見ていると、止めることもできずに、カイルはエレナの手をしっかりと握り返すことしかできなかった。
 ライアンもまた運転中、エレナの洩らしている呻き声を背中に受けては気が気でないが、側で寄り添っているカイルにも心穏やかではなかった。
 エレナはカイルのものなのはわかっていても、こんな間近で二人が一緒のところを見せられるのは、失恋した心に塩を擦り込まれているようだった。
 思いつめるとスピードを出しそうになり、ライアンは絶えずスピードメーターをチェックしていた。
 そして教会が見えた時は、皆、一つの山を越えたように、一段落ついた気分になった。
 しかし、それは一瞬で終わり、またそこから緊張の波が押し寄せる。
 期待はあっても、エレナが何かを見つける保障はなく、皆不安だった。
 それでも、自分にしかわからない何かがあると信じて、エレナだけは必死に教会を目指している。
 傷ついた体なのに、エレナが目を輝かせて、歩いていく姿は、とても健気でいて、痛々しい。
 体は激しいほどの痛みを感じているというのに、この時は期待に膨れて跳ね除けていた。 
 自分にしかわからない事がここには必ずあると、信じて止まない姿だった。
 まさに取り憑かれた表情で教会の入り口に吸い寄せられていく。
 皆、固唾を飲んで見守った。
 カイルはエレナを支え、そしてライアンは教会のドアを開ける。
 教会の中が見えた時、エレナは目を見開いて、前方を見つめた。
 左右に並べられた長椅子。
 その真ん中は、祭壇に続くまっすぐな通路。
 その先には、あのインターネットの写真で見た通りのステンドグラスがあった。
「これがそうね。カイル、大丈夫よ。私一人で歩けるわ」
 エレナはゆっくりとステンドグラスへと近づいていった。
 しっかりと見つめるものの、自分が気がつくほどのものは青いバラ以外何もなかった。
 上から下へ、ゆっくりと視線を移し、一つ一つ丁寧に見ていく。
 いくら見つめても、エレナには謎が解けなかった。
「お父さん、一体私に何を知らせようとしたの? ここは関係がなかったの?」
 なんだか急に涙腺が緩んでしまう。
 絶対何かがわかるものがあると信じていただけに、エレナは悔しさで涙がこぼれそうだった。
 しかし、それをぐっと堪える。
 目を抑えた時、左側にオルガンがある事に気がついた。
 エレナはそのオルガンに近づき、そしてオルゴールの曲を弾いてみた。
 静かな教会に、その音は壁や天井に跳ね返って響き渡った。
 次第にそのメロディはこの教会に馴染んでいく。
 皆、静かにエレナの演奏を聴いていた。
 その時、正面のドアが開き、神父が入って来た。
 エレナの演奏を聴いて、眉根を寄せている。
「あなた達は一体、ここで何をしてるんですか」
 その神父の声で、エレナははっとして、演奏を止めた。
 神父が周りを見れば、ハワードを始め、前日に訪ねて来た者達だと認識した。
 そして、前方のオルガンの前に居たエレナを見て、神父は目を凝らして注意深く見た後、息を飲むように目が開かれた、
 ハワードはそれを見逃さなかった。
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