第九章
6
四人がデスモンド社についた時、時刻は一般のビジネスマンが、そろそろ退社しようとするラッシュアワーに差し掛かっていた。
エレナとライアンは、レイの指示通りにデスモンド社の高層ビルの入り口から堂々と中へ入ろうとしている。
その姿を遠くから、ハワードとカイルが見守っていた。
都会のダウンタウンエリアは、殺伐としたジャングルのように、何が飛び出してくるかわからない治安の悪さが感じられた。
道路の端に車を寄せ、人と車に溢れた流れの中で待機しながらカイルは不安になっていた。
二人がビルの中に入ると、外からは見る事はできなくなり、カイルはこの時息を飲んでいた。
「カイル、信じよう」
ハワードに慰められ、カイルはぐっと腹に力をこめた。
エレナとライアンが中に入ったとたん、ビルの入り口付近でエレナが急に倒れそうにふらついた。
ライアンがとっさに体を支え、その時触れたエレナの体の熱さに驚いた。
「エレナ、熱があるんじゃないのか」
「ライアン、大丈夫。心配しないで。これぐらい平気よ。ちょっと緊張して、つまずいただけよ」
このビルに入った以上、二人はもう後に引き下がれなかった。
あちこちから視線を感じ、その中にレイの言っていた組織もいることだろう。
ここで逃げ出すことはできない。
「エレナ、もう後戻りはできないぜ。準備はいいかい?」
「ええ、もちろん」
二人は受付けへと挑むように向かった。
受付では美しい女性が会社の顔として座っていた。
その女性に近づき、エレナは精一杯胸を張って、挑戦的な態度で言った。
「父、ダニエル・コナーに会いに来ました。あなた方がずっと探していたものを持って。社長にすぐに連絡して下さい」
受付の女性は怪訝な顔をして、どう扱っていいのか思案していた。
その時、後ろから男の声がした。
「コナー博士に会いに来たんですか」
エレナが振り返ると、そこには見覚えのある男がいた。
十年前に無理やり父を連れ去った、銃を向けていた男。
Jだった。
「あなたは、あの時父を連れ去った……」
エレナは怒りが蘇り、唾棄する思いで睨んだ。
「これはこれは、あれから成長されてすっかり美しくなられましたね。我々は招待状を送ろうと長い間探していたのに、まさかあなたから来て下さるとは。よう
こそいらっしゃいました。またお会いできて光栄です。さあご案内いたしましょう。そのお隣の男性はお父様がFBIに属されてる方ですね。あなたも一緒と
は、不思議な事があるもんだ。一体どういうご関係なんでしょうか。もしや恋人同士ですか」
Jの白々しい慇懃無礼なその態度は、腸が煮えくり返る思いだった。
「あなたには関係のないことだわ」
「まあいいでしょう。さあこちらへどうぞ。今、ご案内いたしましょう」
Jが歩き出すと、エレナとライアンは顔を見合わせ、一度気合を入れるように確かめ合い、覚悟を新たにしてついて行く。
エレナはJの背中を睨みつつ、その憎しみを力としている。
しかし、足が思うように動かず、早足で歩くJの歩調についていけなかった。
ビルの中の空調のせいもあったが、この時、震えるように寒く、エレナの息も乱れてきた。
「ライアン……」
「どうした、エレナ」
「腕、組んでいい?」
「ああ、もちろんさ」
エレナはすがるようにライアンの腕にしがみ付いた。
すでに歩くのもままならないくらい、エレナの体は限界に近づいていた。
尋常じゃないそのエレナの状態に、ライアンの不安が増幅し、動揺が走った。
どうしたらいいのか気弱になりそうになっていたとき、レイがライアンの後ろについてきていた。
それを見たとき、ライアンは少し落ち着いた。
レイがそこに居るだけで、とても頼もしく、レイの存在感は男であるライアンにとっても、すがりつきたいくらいにそれは堂々としてかっこいい。
エレナを守るためとはいえ、裏の組織で悪事に手を染めたであろうが、レイはそれでも許されるべき男だとライアンには思える程だった。
レイの揺ぎ無い精神が、ヒシヒシと伝わり、そこにエレナを愛する気持ちも含まれているのを感じる。
自分も負けていられないと、ライアンは背筋を伸ばした。
上階へ昇るエレベーターに案内され、そこに乗り込むと、四角い箱の中の空間は肌に突き刺さる電気のようにピリピリした。
ドアが閉まって、箱が持ち上げられた時、ライアンの毛穴が開ききって、不安でぞっとする。
エレナもライアンの腕を掴む手に力が入り、衝撃に耐えている様子だった。
ライアンは心配になり、エレナの頬にそっと触れてみた。
やはりとても熱く、相当の熱がでている。
このままではエレナが倒れるんじゃないかと思うと、気が気でなかった。
上階へ着いたお知らせの音が耳に入ると、すぐさまエレベーターは止まった。
ドアが開くと、先にJが降り、そしてライアン、エレナと続き、最後にレイが降りた。
レイは一言も話さず、側に居るが、Jがそれを時々睨んではいかにも邪魔にしていた。
目の前には広々とした空間が広がり、ガラス張りの窓から街を見下ろす見事な景色が一望できる。
その窓の付近で、葉巻を持って立っていた男が振り返った。
「おお、ようこそお越し下さいました。あなたがコナー博士のお嬢さんですか。これはお美しい方だ」
「父に、ダニエル・コナーに会わせて下さい!」
エレナは必死に訴えた。
「何もそんなに急ぐ事もないでしょう。初めてお会いしたことですし、まずは歓迎のおもてなしでもしないと……」
「そんなの必要ないわ」
エレナはさっきまでしがみついていたライアンから手を離し、デスモンドを睥睨した。
「そうですか、わかりました。それなら、例のものはお持ち頂いたのでしょうか」
「持ってきたわ。でも今はまだ渡すわけにはいかない。まずは父に会わせて」
「心配なさらんでも、今こちらに向ってますよ。ほら到着しました」
今乗ってきたエレベーターの隣のエレベーターから軽やかな音がなった。
そしてそのドアが開くと、黒いスーツの男二人に囲まれて、とても痩せ細った男がふらふらとして現れた。
その姿はやつれきり、肉がすっかり落ちて目がくぼんでぎょろりとしている。
白髪混じりの髪、荒れ放題に生えた無精ひげ、かつての面影が見い出せないくらい、それは弱々しい姿だった。
エレナはその姿に我慢できなくて涙した。
「お父さん」
ダニエルはその声する方向を見て、目を見開いた。
「マ、マリー」
「お父さん、私よ、エレナよ」
「エレナ? ああ……どうしてここに」
エレナがかつて愛した女性にそっくりだったことにもびっくりしたが、それ以上にここに居る事ことが信じられない。
「お父さん、会いたかった」
エレナが震える思いで近づこうとすると、デスモンドは側に居た男二人に離れろと指で指図した。
ダニエルはすぐさまエレナに近寄り、涙しながら抱きしめた。
エレナは小さな声で伝える。
「お父さん、助けに来たわ」
「エレナ、なぜここに来たんだ。私の事はいいから、今すぐ逃げなさい」
「逃げる時はお父さんも一緒よ」
「しかし……」
その時、エレナの体温が非常に熱い事にダニエルは気がついた。
「エレナ、熱があるんじゃないのか」
「大丈夫よ、お父さんに会えて興奮しているだけだわ」
そしてエレナはデスモンドに聞こえるように態と大きな声を出した。
「お父さんもうここにいるのは無意味だわ。どうか研究を続けて。私、見つけたの、研究資料を。これがあればまた研究が続けられるでしょ。もう自由になって。お願い」
ダニエルは驚きを隠せなかった。
研究資料なんて元々存在しない。
エレナの嘘に困惑している。
「感動ですね。十年ぶりに親子が再会した。娘さんもそうおっしゃってることですし、ここは是非我社のためにもご協力お願いします。もちろん今までのここにいらっしゃった分も考慮して、お礼はたっぷりとさせて頂きます」
デスモンドはにやりと葉巻を口にくわえて笑っていた。
ここまでてこずらされ、多少は腹が立つが、やっと長年の課題がこれで解決し、すっきりすることの方が割合を示していた。
ダニエルは先行きのないこの研究が何を意味するか考えると、顔を青ざめていた。
エレナがここに居て、研究資料を持ってきたという以上、これはレイの計画の何ものでもない。
それに気がつくと、一気に鳥肌が立ち、この無謀な計画に恐れをなしてしまった。
しかし、静かに無表情でレイが見つめてる以上、ダニエルはレイを信じて嘘を突き通すしかなかった。
「わかりました。資料が見つかったのでしたらもう抵抗していても仕方ありません。そちらの言う通りにするしかないでしょう。但し私の娘、そしてこちらの男性に危害を与えることは決してしないで下さい」
「初めから、言うことをきいていればいいものを、無駄な十年間でしたね。そこは悔やまれますが、まあ、協力して下さるのでしたら、今までのことは水に流しましょう。いいでしょう、そちらの条件を飲みましょう」
──この悪党め!
ライアンは側で聞いてて腹が立って仕方がなかった。
「その前にその研究資料を見せてもらおうか」
Jはどこか訝しんだ表情でエレナを見ていた。
「あなたが見たところで理解できる訳はないと思うんですけど。これは最後まで私が持っておくわ。あなた達が信用ならないですもの」
「それはそれでいいが、研究資料にしてはかなり薄っぺらいモノだな」
「これは一部のものだからよ。他にもあるわ。それは後であなた達が取りに行けばいいでしょ」
Jはエレナをじっと見ていた。
この時エレナはJとの距離感がわからなくなっていた。
自分がどこを見ているのかも定かではない。
視界がぼやけて、気を許すと遠のきそうだった。
体は熱いのに、実際はとても寒く、恐ろしく震えが来ている。
呼吸も苦しく、息を吸っているのに、肺からもれているように充分に酸素が行き届かない。
エレナはそれでも必死で自分を誤魔化しては耐えていた。
同時に、エレナの息が荒らくなってることにレイはすでに気が付いていた。
一刻も早く行動をしなければエレナが倒れてしまう。
「私がこの方達を施設にご案内しよう」
レイがエレナに近づこうとすると、Jが遮った。
「いや、お前には任せられない。私が指揮を取る。Dは下がっていろ」
レイは一瞬苛立ちを顔に出しそうになったが、すぐさま一歩引き下がった。
Jがエレナとダニエルに近づく。
ライアンは二人の前に立ちはだかり、Jがそれ以上近づくのを防いだ。
Jはライアンと対峙して、睨み合った。
きつい眼差しはハワードを毎日見ていて鍛えられていたが、Jの目つきはそういう厳しさでは全くなかった。
人としての感情がなく、無機質にライアンを冷たく見ている。
全く何を考えているのかわからないほどに、それは不気味で寒気がする眼差しだった。
人を殺す事も息をすることと同じくらい身近にやってのける恐怖がそこにあった。
ライアンがどんなに強がっても、絶対に敵わない、気力だけで負けてしまう目の光。
まさに蛇に睨まれた蛙だと思えた。
Jは最後に鼻で笑い、そしてエレベーターに向かった。
正直ライアンは飛び掛られたらどうしようかと、恐れていたので、Jが離れたことでほっとした。
Jがエレベーターのボタンに手を掛け、ドアを開けた。
「D、先にエレベーターに乗れ」
レイはこの時、嫌な予感がした。
Jは何かを疑い、そしてまた何かを感じている。
しかし、この切羽詰った時にレイはどうする事もできず、言われるままにエレベーターに乗った。
次に、部下二人にダニエルを連れてこいと命令をして、エレナから引き離して先にエレベーターに乗せた。
ライアンはエレナを支え、同じようにエレベーターに乗り込もうとドアの入り口まで歩いた時だった。
突然エレナの意識がぱったりとなくなり、エレナが急に前屈みに倒れこんでしまった。
「エレナ!」
ライアンは咄嗟に抱きかかえるも、エレナの持っていた封筒が手から零れ落ち、焦りが生じた。
「うぉっ」
エレナを片手で抱きかかえたまま、無理な体勢で体を曲げ、何とか封筒を手にしてほっとしたのも束の間、急に抱きかかえていた方の手が軽くなった。
はっとしたとき、Jがエレナを奪って軽々と小脇に抱えていた。
「おい、エレナを放せ」
ライアンが奪い返そうとJに向かうが、Jはライアンの腹を蹴り、無理やりエレベーターに押し込めた。
エレベーターの中でライアンは尻餅をついて、顔を青ざめていた。
レイは立場上どうする事もできず、様子を見ているが、腹の中ではJに殺意を抱いている。
それを必死に押さえていた。
「エレナをどうする気だ」
ライアンは悲痛な表情で叫んだ。
「どうもしない、彼女は私達のゲストなだけだ。手厚くおもてなしをするだけさ。自らここへやって来たんだから、誘拐でもないしな」
「くそっ!」
「D、コナー博士の移動を任せた」
ここでは組織側なだけに何もできず、レイはただ頷く。
エレベーターのドアは静かに閉まり、それは下へと向かった。
ライアンは、何度も自分の失態に悔しがり、絶望的になっていた。
「くそっ! なんでこうなるんだよ!」
顔には出さないでいるが、それはレイも同じ思いだった。