6
キッチンから漂う朝食の匂いにキースは反応し、くんくんと鼻を鳴らせている。
「なんか食欲をそそる匂いだね」
フライパンをもっているユキの傍に来て覗き込んだ。
「椅子に座って待ってて。すぐできるから」
先ほど見てしまった裸がちらついて、ユキはキースを邪険に扱ってしまう。
トイラも現れると、さらに自分が犯した失態に身が竦んでしまった。
普通を装うとしてもまともに顔がみられなくて、却って意識して一人気まずくなっていた。
トイラとキースは朝の一騒動もすっかり忘れて、テーブルの上の用意された朝食をじっと見ている。
ユキが目玉焼きとベーコンを運んでくると、キースは目を細めて喜んだ。
「僕、これ好きかも」
「温かいうちに食べて」
ユキに言われるや否や、キースはベーコンをすぐに口に入れていた。
トイラも黙々と食べだした。
ユキがコーヒーを片手にしてテーブルにつくと、トイラが顔を上げた。
「ユキは食べないのか?」
「なんか今日は食欲なくてね」
その原因を作ったのはあんたたちだと言ってやりたがったが、ぶり返すのが嫌で我慢した。
「俺たちのせいか?」
「いや、別にそうじゃないけど」
直球を投げられたら否定するしかできなくて、ユキはあたふたしていた。
話題を変えようと、ユキは昨晩の猫の事を持ち出した。
「ねぇ、夜中に猫の声を聞かなかった? 犬も遠くから吼えていたように思ったんだけど」
「ユキは寝ぼけてたんじゃないの。僕は昨日ぐっすりと眠れたよ。全然何も聞こえなかった。トイラ、お前は聞いたのか」
キースがちらりとトイラを見る。
「いや、知らない」
「だけど、窓を開けて確かめたら、確かに何かがうじゃうじゃとうごめいていて」
「見間違いじゃないの?」
キースに否定されると、そう思えてくるからユキも強く主張する気になれなかった。
このネタも結局、都合が悪くなり、ユキはまた話を変えた。
「ところで、あなた達、カナダのどこから来たの?」
「大自然のロッキー山脈」
キースが大雑把に答えた。
「まるで山の中から来たみたいに聞こえるじゃない」
「その通りさ」
ユキの答えを否定せず、トイラがぶっきらぼうに答えてすくっと立ち上がり、食べた食器をシンクに持っていった。
あっけに取られていると、急に電話が鳴り響いて、ユキはハッとした。
すぐさま駆け寄りレシーバーを手にする。
思ったとおり、父からの電話だった。
「パパ! 今どこなの。もう大変なことになってるんだから」
父親からの声を聞いたとたん、感情が爆発し文句を言わないと気がすまなくなっている。
それを傍で聞いていたトイラとキースは、お互いの顔を見合わせて何かを確かめ合っていた。
強気で話していたユキのトーンが次第に低くなっていく。
「うん、うん」と父からの言葉を受け入れ、最後は「わかったわ。じゃあできるだけ早く帰ってきてよ……」と納得して電話を切った。
そして大きくため息を吐いてトイラとキースを見つめた。
「どうやら問題は解決したみたいだね」
キースがにこやかに言った。
「解決も何も、全てはパパの我が侭じゃないの。自分の研究がしたくて、向こうの大学の条件としてあなたたち二人の日本留学を受け入れたなんて。あなたたち
そこの大学のお偉いさんの親戚ってことで、ようするに交換条件だったのね。私に言わなかったのは反対されるのが怖かったからですって…… 何よ。強行突破みたいに卑怯な手を使ってさ、私に何もかも押し付けるなんて」
「何でそんなに怒る?」
トイラが聞いた。
「だって昔からそうなんだもん。いつもパパが決めたことで私は振り回されて、日本に戻ってきたのも突然パパが言い出したから。本当ならずっと向こうで暮ら
したかったくらい。でもパパが望んだから私はいつもその通りにするしかなかった。今回も何を言ったところでもう仕方がないわ。最初から教えてくれてたら私
だってちゃんと快く賛成したのに。こんなにも嫌な気持ちになることもなかったはずだわ」
「そっか、ということは、僕たちがここに居てもユキは大歓迎ってことだね」
キースはウインクした。
「ん? あーちょっと待って、だからそれは……」
ユキはそこで素直になれなかった。
「なぁ、そろそろ学校に行かないと遅刻するんじゃないのか」
トイラは壁に掛けてあった時計を指差す。
「うわー、もうこんな時間。これじゃ完全に遅刻よ」
ユキが慌てている傍でキースもトイラも落ち着きを払っていた。
遅刻をすれば、また注目を浴びてしまう。
このふたりを連れ、遅れてクラスに入れば何を言われるかわからない。
でも走れば少しの遅刻で済んで最小限に留められるかもしれない。
「ほら、あんたたちも走るのよ!」
玄関を施錠したあとは切羽詰ってユキは一目散に走り出す。
ユキの走っている様を見たキースはトイラと顔を見合わせた。
「ちょっと本気出しますか」
にやりと笑みを浮かべてキースも走り出す。
それは風のように、すでに前を走っていたユキの脇をビューンと駆け抜けていった。
「えっ、嘘」
ユキが驚いているうちに、キースの背中がどんどん遠くなっていく。田舎道から土ぼこりが立って恐ろしいほど早かった。
「ユキ、何をもたもたしてるんだ」
すでに後ろに追いついていたトイラが言うや否や、ユキはふわりと体が持ち上がり、飛ぶように進んでいく。
何が起こっているのかすぐにはわからなかった。
でもすぐ傍にトイラの顔があり、自分が抱きかかえられているところに気がつく。
「ちょっと、トイラ、何してるのよ」
あまりにもびっくりしてユキはじたばたと手足を動かした。
「おい、暴れたら、落とすじゃないか」
スピードが益々上がっている。本当に振り落とされそうに感じてユキは身を竦めてトイラの腕の中で大人しくなる。
オリンピック選手でもこんなに速く走れないだろうと思えるスピードだ。そんな馬鹿な。
「ちょっと、速過ぎない?」
「遅刻したくなかったら、黙って大人しくしていろ」
なんだか脅迫めいたその言葉に、ユキは口を閉ざしてしまう。
自分を抱えて恐ろしいほどの速さで走っているのに、平然とした凛々しい顔つきのトイラ。緑の瞳が朝の陽光を受けて色鮮やかに映えている。
それを見つめているうちに、心が穏やかに落ち着いていく。心地いいと思ったときには学校が近づき、その勢いで抱きかかえられたまま学校の校門をくぐっていた。
あまりの出来事にユキはトイラに抱きかかえられたまま放心状態だったが、周りの生徒たちの視線にハッとして我に返った。
「ちょっといつまで抱いてるのよ。下ろして」
手足をばたばたさせて訴えるユキにトイラは悲しそうな瞳を向けた。
「ユキ……」
また何か言いたげにしながら葛藤し、そうして出した答えは乱暴にユキから手を離したことだった。
ユキは弾みでバランスを崩して地面に尻もちをついてしまった。
「あっ、もう。下ろしてっていったけどさ……」
いかにも痛いと訴えようとしたのに、トイラはユキをまたもや置き去りにして先を行ってしまった。
「ちょっと、トイラ」
何を考えているのか全くわからない。近づいたと思えば、すぐまた去っていく。
優しさを覗かせながら、やることは間逆だ。
「トイラの奴、酷いな、ユキを落として去っていくなんて」
先に学校に着いていたキースが、近寄って手を差し伸べ、ユキを引っ張りあげた。
「ありがとう」
制服についた砂をユキは軽くはたいた。
キースは気の毒そうにユキを見ている。
「まあ、トイラらしいって言えばそうなんだけど、あいつ、ちょっと今荒れてるから、仕方ないんだ」
「荒れてる? なんで?」
「それはトイラとユキの問題だから」
「えっ、私も?」
全く心当たりのない顔をするユキを見るのはキースも面白くなかった。
「ユキ、しっかりしろよ」
「ちょっとなんで私が注意されるのよ。注意すべき人物はあっちでしょ」
指を差すもトイラの姿はすでに消えていた。
そしてチャイムが鳴り出し、キースは何も言わずスタスタと歩いていった。
ユキも同じようにキースの後を続くが、またふたりに惑わされ疲れきってこれ以上抗議する気力がなくなっていた。
弱りながらキースと一緒に教室に入れば、さらにクラスの女子たちからの冷たい視線を浴びてしまった。
矢鍋マリが女子たちを代表して近づいてきた。
「あら、あれが欧米の登校の仕方? まるでお姫様ね。さすが帰国子女の春日さん。外国人の心を捉えるのが上手いこと」
見てたのだ。
嫌みったらしく絡んできて、自分の欲求の不満を晴らしている。それをユキは哀切にみていた。
マリとどうしてここまでこじれてしまったのだろう。
マリもはっきりと物をいうタイプ。海外で討論の仕方を教えられたユキは、マリの意見を否定して自分の考えを伝えてしまった。
真っ向から否定されたマリはプライドを傷つけられ、ユキにむっとしてしまう。でも最初はそれを抑えていたが、毎回話す度にユキの態度に我慢ができなく
なっていった。マリは一応ユキと仲良くなろうと努力はしたが、海外から戻ってきたばかりのユキには物事を深く考える余裕などなかった。
その行き違いが、相容れないお互いの関係を築き上げしまい今に至る。
面倒見がよく、みんなから信頼の厚いマリに対して、鼻つまみとなってしまったユキには庇ってくれる味方がいない。どっちに人がつくかは歴然だった。
気がついたときにはユキの周りには誰もいなかった。
自分はどうせ海外で暮らしたから、他のみんなとは違う。ユキも鼻っ柱が強いから折れてまで仲良くなんてなりたくなかった。
マリはユキの謙虚のないそういう態度が許せないらしく、露骨に絡んでくるようになった。
マリがユキに絡むことで、他の女子たちは溜飲を下げ、陰口だけで終わる。
マリだけがこうやってわざわざユキを責めてくるのだった。
それをかわして、ユキは沈痛な面持ちで机についた。
遅刻はなかったにせよ、トイラの派手な行動のせいで結局は目立ってしまい、ユキは恨めしく隣に座っているトイラを睨んでしまう。
その視線をすぐに感じたトイラは振り向いた。
「シカタナイ、オクレソウダッタ。ユキ ハシル ノ オソイ。ダカラアアナッタ」
やっぱり日本語話せないフリをしている。
無駄ではあるが、ユキが抗議しようとしたその時、教室で「えっ!!」と驚く声が聞こえた。
声のした方を見れば、キースがマリと数人の女子たちと話しをしている。
「うそ、本当に一緒に住んでるの?」
「ソウダヨ。ボクタチ ユキ ノ イエ ニ スンデル」
女子たちはユキに視線を向けた。
知られてはいけない事を、いともあっさりと暴露するキースがにくい。
こうならないように、釘を刺しておかなかった自分も馬鹿だった。
トイラはともかく、女子のハートを掴んでしまったキースが他の女と一緒に住んでいるとなれば驚くのも無理はない。
女子たちの羨望の――いや、嫉妬っと言う方があってるのかもしれない視線が突き刺さる。
ユキにとってみれば全くの不可抗力だ。
それを言ったところで誰一人お気の毒だなんて思わないことだろう。
また虐めの種が増えた。
そう思ったとき、前の席の女子が振り返った。
「うわぁ、すごい。ねぇ、今度遊びに行っていい、春日さん」
「えっ?」
一人が言うとそれが連鎖して、また一人振り返って好意的に捉えてニコニコと媚を売るように微笑んでくる。
「やっぱり春日さんて国際的よね。こういう人たちと交流できて羨ましいわ」
自分もあやかろうと急に手のひら返したようにユキに近づく女子たちが現れだした。
キースのファンだけど、まだ積極的に近寄れない人たちだ。
普段はユキのことなど気にもかけないくせに、この時とばかりに利用しようと近づいてくる。
所詮、高校に集まる人間は、狭い社会で本能丸出しに損得を考えて行動する。
なんだか馬鹿らしくて、ユキは嫌味の一つでも言おうかと思ったとき、キースが首を突っ込んできた。
「ユキ ノ トモダチ ナラ ボクタチ モ トモダチ」
キースは愛想を振りまいて、皆で遊べたら楽しいだろうねなどとその場を盛り上げる。そんな事しなくてもいい。
でもそれがユキのためになることを知っているかのようにも思えて、ユキは何も強く言えず普段しない愛想笑いをしていた。
ユキが微笑めば、周りの女子は調子に乗って、今までの事がなかったように扱いだした。
ユキはこの状況が嫌いであっても、キースが謙虚にみんなに優しく接している態度を無駄にすべきではないと我慢した。
何も正直に自分の気持ちをぶつけなくてもいい。これが空気を読むということだ。
キースに話しかけられたものたちは楽しそうに笑い、その延長でユキのことも気遣う。親の七光りならぬ、キースの七光りだ。
だけど、マリとその取り巻きはまだ気に入らないといいたげにユキを睨んでいた。
ユキがマリに視線を向ければ、マリはぷいっと横を向く。
ユキがため息を吐けば、トイラがボソッと呟いた。
「あいつも素直になれなくて辛いのさ」
「えっ?」
振り返ったときトイラは窓の外を眺めていた。
どういう意味だろうと問い質そうとすれば、教室に先生が入ってきた。
みんな一斉に前を向いているというのに、トイラだけは身を乗り出すように集中して窓の外を眺めていた。
その時だった。
トイラが異常な行動をしだしたのだ。突然立ち上がりクラスの注目を一斉に浴びる。
「ちょっと、トイラ、何してるの」
トイラの体は強張り、一点を異常に見つめている。
先生が何か言っているが、それすら耳に入らず、今にも窓から飛び出しそうだ。
この感じ、どっかでみたことある。目の前の獲物に全神経を集中していかにも飛び掛ろうとするあのポーズ。
猫だ!
「トイラ、トイラったら、ここ二階よ」
このままでは本当に飛び出してしまいそうに見え、ユキは咄嗟に身を乗り出してトイラの上着の裾を掴んで引っ張った。
その時、窓の外から黒い物体が猛スピードで近づき、トイラ目掛けて突っ込んできた。
カラスだ。
教室内も驚いて悲鳴が響いた。
トイラは真っ向からカラスの突撃を受け止めれば、カラスは羽をばたばたと激しく羽ばたかせ、くちばしや足を使ってトイラを攻め続ける。
やり取りが激しく、見ているものは悲鳴を上げたり、固唾を飲んでいた。
そのうち、カラスの黒い羽が散り、それがひらひらとユキの足元に落ちた。
それと同時にカラスは抵抗をやめ、教室の窓から離れて飛び立っていった。
トイラはまだ警戒して外を見つめたままだった。
「ガルルル」
低いうなる声が、微かに聞こえたが、教室のみんなの騒ぎ声でかき消された。
一体何が起こったのか。
足元に落ちていた黒い羽を拾おうとユキが屈んで手を伸ばすと、キースが叫んだ。
「ユキ、サワルナ」
その声にトイラが振り返り、ハッとする。
でもその時、ユキはそのカラスの羽に触れていた。
そして、胸の真ん中あたりが急に熱くなるのを感じると同時に、ユキは突然前が見えなくなった。
そのまま気を失って、椅子から転げ落ち床に崩れ込んだ。
「ユキ!」
トイラの叫び声が、ざわつく教室に鋭く響いた。