3
「ユキちゃん、ほら食べて。とにかく腹が減っては戦はできぬ。まずは腹ごしらえから片付けましょう。それからまた考えましょう、ねっ」
目の前には湯気が立つおいしそうな食事。
お腹に早く入れろと食欲がどんどん湧いてくる。
ユキはごくりと唾を飲み込み、涙を甲で拭うと箸を取っ た。
仁の母親は優しく微笑み、早く食べなさいと目でユキに語っていた。
『いただきます』と箸を持つ手を震わしながら口にする。
「おいしい。本当にありがとう」
温かい食事がユキを元気つけた。
──トイラたちもちゃんとご飯食べてるだろうか。
不当な扱いをされているのではと思うと気が気でない。
自分がしっかりするためにも、ユキは噛みしめながら出されたものは残さず全部食べた。
食欲が満たされれば、次に襲ってきたのは眠気だった。
こっくりと頭が揺れる。
「ユキちゃん、遠慮しないでいいのよ。ちょっとソファーに横になりなさい。少し寝た方がいい」
仁の母親は、クッションを置いて、ユキを横にさせてやる。上からブランケットがふわっと優しくユキを包み込んだ。
気持ちがいい──。
眠気に勝てず、そのまますっと眠りについていた。
仁の母親はユキをそっとして、ゆっくり寝られるようにとそのまま買い物に出かけていった。
ユキは暫く夢見心地の中にいた。
そんな静かな家の中、ドアノブがガチャガチャ響く。
仁が戻ってきた──。
「あれ、この靴……母さん、ただいま、誰かお客さん来てるの?」
居間に入って仁は電気が走るようにどきっと驚いた。
ばたっと手から鞄が床に落ち、気配に気づいたユキが目覚めた。
「仁……」
ソファーから身を起こし、ユキは立ち上がる。
「ユキ」
仁の心臓が早鐘を打ち動揺する。
二人はただお互いの名前を呼ぶだけで精一杯だった。
暫く沈黙が続く。
いつまで黙り続けるのかと、部屋の時計のカチカチ動く音が一秒一秒時間の流れをわざ と二人に知らせていた。
ユキが先に口を開く──。
「私、ここに来るつもりじゃなかったの。仁がトイラとキースを裏切ったこと、まだ許してない。でも私、今日病院でジークに追われて、無我夢中で逃げてき て、行く当てもなく、気がついたらここに来てたの」
「えっ、なんだって! ジークに追われた!? 嘘だろ。どういうことだ。くそっ!」
仁は頭を抱え、異常な声を上げて叫んだ。
「どうしたの? 仁」
「ユキ、ジークは裏切った」
計り知れないショックが、仁から全ての血を奪ったように顔を真っ青にさせた。
「えっ? 何を言ってるの?」
「ユキ、僕、間違ってたのか? 本当に騙されたのか?」
仁は、放心状態で突っ立っている。
「仁、どうしたの。何のことか説明してくれないと、わからない」
仁は今までのいきさつを全てユキに話した。
ユキが全てを知ったとき、体の震えが止まらなかった。
「それじゃ、私を助けようとして、ジークに騙されてしまったってことなの」
「ごめん、ユキ。僕、どうしてもユキを助けたくて、まさかこんなに簡単に騙されるなんて思わなかった。約束したんだよ。トイラとキースをユキから離した ら、ジークはユキをもう無理やり追いかけないって。まさか全くの嘘だったなんて、僕、一体なんて事をしてしまったんだ」
仁は跪き、悔しさをにじまして、床を拳で強く叩いていたた。
ユキの手が仁の肩に触れる。
憎しみは既に消えていた。
トイラが言ってた言葉がこの時やっとわかった。
仁は本当に何か訳があってやってしまったと言うことを──。
全ては自分を思う気持ちが、引き起こしたことに過ぎない。
仁もまた必死で助けようとしていた。
ユキの胸のつかえはすっと氷解していった。
「仁、もういいわ。あなたは悪くない。悪いのはジーク。人の弱みにつけこんでこんなことするなんて許せない」
「ユキ、ごめん。ほんとにごめん」
「それより、トイラとキースを助けなくっちゃ。協力してくれる?」
「もちろんさ。でもどうやって助けたらいいんだろう」
「今から警察署に行くわ。一緒についてきて」
二人は膳は急げと鉄砲玉が放たれたように玄関を飛び出した。
仁の母親とドアの前ですれ違った。
「あら、仁、ユキちゃん、どこへ行くの」
「おばさん、ほんとにありがとう。とにかく急いでるので、また後で」
二人は通路を走っていく。
仁の母親はそれが微笑ましかった。自分の息子が好きな女の子に一生懸命になってる姿を応援してやりたくなった。
「仁、しっかりユキちゃんを守りなさいよ」
「うん、わかってるよ」
仁の母親は二人の後姿を見えなくなるまでみていた。
柴山が警察署で取調べを受けていることを知り、良子は面会するつもりで出向いていた。
事件のことはニュースで一通り把握している。
良子はユキを使ってまで、豹と狼のことを暴こうとした柴山が情けなくて仕方がない。
だが放っておくこともできなかった。
そう仕向けたのは、自分が写 真の記事を馬鹿にしたことが要因になってることもわかっていた。
柴山がすぐムキになって暴走することを、良子はよく知っている。
現行犯逮捕で、保釈保証金で拘留が解かれる確立は低いだろうと思いながらも、それができるのなら、お金を出すつもりでいた。
良子は入り口で行ったり来たりとなかなか警察署に入り込めないでいた。
そこにユキと仁が息を切らして現れたから、良子は目を見開いて驚いた。
「良子さん。こんなところで何してるの」
仁が息を切らせながら言った。
良子はユキを見て申し訳ない顔をする。
「ユキちゃん、柴山が馬鹿なことをしてしまって、本当にごめんなさいね。怪我なかった」
「良子さんが謝ることじゃないし、大丈夫です。それよりもトイラとキースが心配です」
「トイラは豹だったのね。怪我の手当てをしたとき、私もどこかおかしいと思ってたの。ユキちゃんも、仁も知っててあの時連れて来たのね。私がちゃんとわ かってたら、柴山が こんな馬鹿なこと起こさないようにできたのに」
「違うんだ、悪いのは僕なんだ。柴山さんは本当は悪くないんだ」
仁はまたいたたまれなくなった。自分のせいで柴山を犯罪者にしてしまったと、再び自責の念にさいなまれていた。
「とにかく、今は誰が悪いとかそういう問題じゃないの。早くトイラとキースに会わなきゃ」
ユキは勢いつけて警察署に入っていった。
その辺のおまわりさんを捉まえて、自分がこの日の事件の被害者だと我武者羅に伝えた。
そしてトイラとキースに会わせるように要求する。
「ああ、あの豹と狼人間ですね。あれは獣医野生動物学者の人が引き取りたいといって、連れて行きました」
ユキはそれを聞いて魂と体が分離しそうなほど卒倒した。
「なんで、そんな勝手なことをするの。トイラとキースは動物実験の動物じゃない」
ユキは憤りで激しく乱れてしまった。
良子はユキを抱きしめた。
「落ち着いて、ユキちゃん。ねえ、警察官さん、その獣医野生動物学者だけど、もしかして田島亮一?」
「ああ、そう言えばそういうお名前でした。眼鏡かけたちょっと冷血漢な雰囲気のする人でしたね」
「やっぱり」
良子はどこかヤバイとでもいうような顔をしていた。
「良子さん、その人と知り合いなの?」
仁は意外な繋がりに驚いていた。
「うん、ちょっとね。私も獣医だからね、彼の噂は耳に入るわ」
「良子さん、お願い、トイラとキースを助けて。私、なんでもする。柴山さんの事だって、告訴しません」
「ユキちゃん。柴山のことはいいのよ。あいつにはいい薬よ。でもこの件は私に任せて」
良子は柴山の罪滅ぼしのためにも、自分がなんとかしなければとユキの肩をしっかりと両手で掴んだ。
その時、後ろからユキを呼ぶ声がした。
「あれっ? 春日ユキさんじゃないですか。やっとみつけた。どこに行ってたんですか。事情聴取残ってるんですけど」
「あっ、あのときのおまわりさん。あの、お願いです。柴山圭太さんを釈放して下さい。私、罪に問いません。お願いします」
ユキは一生懸命頭を下げて頼んでいた。
トイラとキースの正体が発覚したことで混乱を招き、柴山の取り扱いは警察もあぐねていた。
すでに柴山は悪くないと市民からの訴えもちらほらでてきて、ユキも罪に問わないといっている。
本人も正気を取り戻したところで、取り憑かれていたと表現すれば、これもトイラとキースのせいに自然と流れていった。
そして警察のフロントでユキたちが待つこと30分。
柴山が苦笑いしながら出てきた。
良子は柴山に近づき、あらん限りの力で思いっきり頬を引っぱ叩いた。
「痛ー」
「あんた何をしたかわかってるの? ユキちゃんに謝りなさい」
柴山は、ユキを見るなり突然土下座した。
周りの注目を浴びても何を思われても気にせず、ユキがお代官であるかのごとく平謝りだった。
「柴山さん、もういいです。立って下さい。とにかく、トイラとキースを救うのを手伝って下さい」
トイラとキースの奪回作戦が始まろうとしたこのとき、ユキの胸がまた痛み出した。
息が荒くなるり、ユキは怯える目つきで周りを見渡す。
居た──。
ジークがにやりと笑みを浮かべてユキを見ている。
ユキが胸を押さえて、前屈みなって前方を見ているのに気がついた仁。
まさか──。
仁の鼓動も速くなる。
ジークは約束を破棄して、目の前でユキを狙っていた。
仁はすぐさま判断する。
「良子さん、お願い、車をすぐに出して」
「どうしたの、突然慌てて」
「いいから、早く。ユキを連れて、車に乗って。僕も後からすぐに行く」
仁はジークに近寄った。少しでもユキから遠ざける時間が必要だった。
「ジーク、よくも騙したな。最初から、僕との取引きなんてするつもりなかったんだね」
「騙される方が悪いんだよ。ほんと簡単にコロッと騙されるね。トイラもそうだったけど、恋は盲目、騙しやすくてほんと楽しいよ」
「卑怯者!」
「そういう自分もそうだろ。簡単に友達を裏切ったんだから。まあだけどお礼を言うよ」
仁は悔しくて仕方がない。
卑怯者──。
ジークの言うとおり自分も同類だった。
その悔しさと怒りをジークに体当たりしてぶつけてやった。
ジークはよろける。
「何をする!」
仁の首を掴み、ひねり潰そうとしたときだった。
「誰か助けて!」
仁がかわいこぶって叫んだ。
ここだと反応が早い。
ジークはすぐに周りに取り押さえられた。
(バーカ、警察の中で暴力事件起こしたらすぐに取り押さえられるっていうんだ)
その隙に仁は逃げた。
良子の赤いスポーツセダンが警察署前に止まっていた。
すべるように後部座席に乗り込む。
「良子さん、早く車を出して」
仁はせかす。
「わかったわよ。さあ、これからトイラとキースを助けに、敵地に乗り込むわよ。みんな覚悟はいい?」
「トイラとキースはどこにいるのか、知ってるのか」
柴山が聞いた。
「ええ、知ってるわ。動物実験センターよ。まあ誰もそんな風に公では呼ばないけどね。表向きは彼の家だから。あいつは噂では動物を何かの実験に使ってるら
しいわ。動物を救うのが目的じゃなくて、自分の趣味だけのためにね。自分の地位を利用して、好きなことやってるって、もっぱら私達の間では有名な奴なの」
「詳しいんだね、良子さん」
仁が言った。
「まあね、何度と奴には言い寄られて、迫られたからね」
「な、なんだって。それで良子はどうしたんだ」
柴山は急にそわそわしだした。
「馬鹿ね、そんなの相手にするわけないでしょう」
良子は呆れた口調で答えながら、ハンドルを切っていた。
柴山は良子の横顔を切ない思いが入り乱れながらただじっと見つめていた。
仁は、ジークが襲ってこないか、何度も車の後ろを確認する。
「ユキ、まだ胸が痛む?」
「ううん、もう治まった。なんとか離れたみたい」
仁は、それを聞いて胸をなでおろした。
だらけるように背中が背もたれに倒れたが、すぐに置かれている状況に気を取り直す。
──今、ユキを守れるのは僕しかいない。
絶対守るからと、目に力を込めてユキに訴えていた。
車は山の麓に向かって畑の間を走っている。
人が住んでない地域。
建物もない。
山の中に入ればたくさんの木に取り囲まれた。
坂道が続き、どんどん山に入り込めば、車はガタガタと振動していた。
その途中で、古ぼけたお地蔵さんが立っているのが不気味だった。
日も暮れかけて、山の中は益々ひっそりとして、意味もなく恐怖心を植えつけるような雰囲気を醸し出す。
誰も一言も話さず、行く先の見えぬ 森の中で不安に行く末を案じていた。
やっと田島亮一の動物実験センターと呼ばれる建物が視界に入った。
山の中には似つかわしくないほど近代的でヨーロッパの神殿の風貌だった。
ホテルか別荘か、はたまた美術館かというようなおしゃれっ気がした。
そしてジークが占領している森からそう遠くないところでもあった。
一方、警察署で数人の警官に取り押さえられたジークは、たまりかねた様子でコウモリの姿に変身した。
周りはあっという間にクモの子散らすように引いていく。
「豹と狼人間の次は、コウモリ…… えっ、まさか吸血鬼か」
警察署の中は騒然となり、みんな震え上がった。
その隙をついてジークはパタパタと飛んで逃げていった。