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太陽の玉が半分に割れた──。
天空が裂けたようなこの世の終わりとでもいう衝撃がジークの体に走っていた。
真っ青な顔付きで立ちすくんでいる。
ジークは悶絶間際のからからに涸れた喉の奥から、
悲鳴に似た奇声をあげる。
割れてしまうことなどありえない。
ありえないはずのことが起こった。
絶望の中、ジークの手のひらで太陽の玉は小刻みに震えている。
ジークだけではない。
トイラやキースまでもその出来事にショックを受け仰天した。
太陽の玉は森の秩序を守るもの。
これがなければ森は消滅
してしまうことを森の守り駒は充分に知っていた。
それが目の前で真っ二つに割れることは破滅を意味していた。
森の守り駒たちの驚きは、辺りをフリーズさせる程の衝撃を与え、時を止め音さえも飲み込んだ。
その時、ユキの苦しむうめき声が静粛の中で小さく洩れた。
ハッとトイラは我に返る。
太陽の玉が割れたからといって、ユキの状況は何も変わらなかった。
どんどんユキは弱っていく。
森の破滅よりももっと恐ろしいことがトイラの目の前で起こっている。
森をなくしてもユキだけは失いたくない。
時間は悪意を持ってユキの胸の月の玉を満月に進めていく。
早く決断を下さなければユキを失う。
トイラの手足は激しく震え、急激に体が冷えていく。
それいて、ダラダラと汗が噴出している。
肺に空気が入らず、何度も何度も荒く息を吸っていた。
何とかしてほしいと、トイラは藁をも掴む思いでキースに助けを求める。
「キース、助けてくれ。俺はどうしたらいい。このままユキの命の玉を取るしか方法はないのか」
トイラはこの状況であっても迷いが生じた。
命の玉を取っても、このままのユキを失ってしまう。
そしてもう二度と抱きしめることもできない。
自分の心に存在しても、この先の長い時の中、そんなユキの面影だけ抱いて耐えられるのだろうかと逡巡する。
だが、このままではユキは確実に死んでしまう。
何を悩んでいるんだと、助ける道がわからないのなら、もう手段は一つしかないと、言い聞かせているもう一人の自分もいた。
そんなトイラをみてキースも躊躇する。
助けを求められて何もできない自分に胸の潰れる思いだった。
どうすればトイラの苦しみを和らげられるのか、それを考
えたとき、そっとトイラの肩に手を置いて、ユキの命の玉をとることを肯定してやることしかできなかった。
それが正しいかどうか聞かれたらキースもはっきり
とは答えられない。
そっと置いた手に突然力がはいり、トイラの肩を強く握り締めてしまった。
トイラはユキを強く強く抱きしめる。
堪えきれない濁った悲しみが胸の底から湧き出ると、涙がまつ毛にじわっと宿った。
ユキとの楽しかった思い出が、次々と頭によ
ぎる。
何よりも安らぎをくれたユキの笑顔は強烈にトイラの心を締め付けた。
その瞬間、トイラは歯を食いしばり悪魔に取り憑かれたような恐ろしい顔つきで覚悟を決める。
ユキを生贄のごとくじっと見つめながら、心を鬼にしてトイラは決断した。
──ユキの命の玉を奪う。
ユキの口元にトイラの口が重なる寸前だった。
突然、ジークが天空をも駆け抜ける金切り声を上げる。
その悲惨な劈く音は、死に物狂いで集めたトイラの集中力を撹乱し
た。
またトイラは激しく動揺してしまう。
「なんだ、これは。すごい気を感じる。あの時と同じだ。大蛇の森の守り主を初めてみたあの時だ。背筋が凍るような異質な空間、そして辛辣な匂い」
キースが突然叫び出した。
この場に及んで、何かの異変が起こった。
トイラがジークを振り返ったときだった。
半分に割れた太陽の玉がジークの手元から滑り落ち、地面にぽたりと落ち
たかと思うと、二つに割れた太陽の玉の間から荒れ狂った竜巻のように漆黒の闇がうねりをあげて現れ出た。
「一体何が起こってるんだ」
トイラがそう叫んだとき、漆黒の闇は巨大な力をもってジークを引きずり込もうとしていた。
ジークの姿は立体感がなくなって見え、映し出された影のように
薄っぺらく引き
伸ばさ
れた。
何かに捕まえられたように、体が横に伸びては半分に割れた太陽の玉に強く引っ張られ、吸い込まれそうになっている。
時々、コウモリの姿が浮かび上がり、また人の姿になったりと、激しく交互に姿が変わる。
人の姿とコウモリが分離しているようにも見えるようだった。
ジークは引き込まれないように必死に抵抗する。
地獄を見たような形相で腹の底から叫び声をあげた。
「助けてくれ!」
ジークは自分に一番近い場所にいる仁に、震える手を伸ばした。
仁は目の前の信じられない光景に肝もすくみあがる程怯えていた。
しかしジークの悲惨な表情を見るや否
や無我夢中で立ち上がった。
そしてジークの体を掴み、力の限り引き寄せる。
闇の渦の力は容赦なく仁の体も引きずり込んだ。
「仁、逃げるんだ」
キースが叫んだ。
仁は逃げることなど考えられ
なかった。
この瞬間手を離せばジークは闇に吸い込まれてしまう。
何か方法はないか、このままでは自分も危ない。
太陽の玉が突然、視界に入ると同時に仁はひらめいた。
咄嗟にジークの足元に転がっていた太陽の玉の片割れに蹴りを入れた。
仁の判断は正しかった。
割れた太陽の玉が片方引き離されることで闇の渦は瞬く間に消えた。
闇の渦から解放されてもジークの恐怖心はまだ抜けない。
体がゴムのように伸びきった感覚が拭えず、ペラペラの紙になったような気分でいた。
だが腹の部分が熱く引き締められている。
この感触はなんだろうとジークがそこを見ると、仁の両腕がベルトの
ようにしっかり食い込んでいた。
──この腕が俺を助けてくれた。
大切なものに触れるかのようにジークは仁の腕に自分の手を重ねた。
仁はジークに触れられてやっと我に返った。
咄嗟に腕を引っ込める。
ジークがゆっくりと振り向き、しかめた表情で仁に問い質す。
「お前、なぜ私を助けた」
仁は、言葉に詰まるが、ありのままを言った。
「だ、だって、助けてってジークが僕に言ったから」
「私は、お前に酷いことをしたのを忘れたのか」
「忘れてるもんか!」
「じゃあ、なぜ、憎い私を助けた」
それでも答えが知りたいのか、しつこくジークは訊く。
どうしても仁が取った行動の真相が知りたい。
それほど自分が助けられたことがありえないと信じられなかった。
「助けを目の前で求められてほっとけなかったんだよ。例え憎い相手でも、僕は黙って見殺しにできなかったんだ。嫌だよ、命が消えていくのを何もしないでただ見ているなんて」
仁は自分でもお人好しなのはわかっていた。
敵に塩を送ってどうするんだと言われても、自分がとった行動は間違ってないと言い切れた。
その表情は晴れ晴れ
としていた。
「お前、本当に馬鹿だな。でも、ありがとう」
ジークは鼻で笑ったような息をもらす。
最後の部分だけ小さな声で呟いたが、目を硬く瞑り、心から湧き出る感情は充分顔に出ていた。
仁は聞き間違えたかとぽかんと口をあけて目をぱちくりした。
ジークが再び目を開けて仁と見詰め合ったとき、表情から敵意がすっかり消えていた。
口角が上
向き薄っすらと笑みをこぼしているようにみえた。
キースは一部始終をみていて首をうなだれた。
余計なことをしてと仁の取った行動に失望の色が顔からにじみ出ていた。
「仁、折角のチャンスを……」
しかしトイラは違った。
顔は硬直し、恐るべきものをみたようにその目はいつもの倍ほど見開ききっている。
脳天からジーンとした痺れが体中突き抜けた。
触
られても全く感触を感じない程、体は機能が全停止していた。
ユキは時折、小さなうめき声を出し、いつ命が消えてもおかしくないほど、虫の息になっていた。
「トイラ、どうするんだ。ユキの命の玉を取るなら今しかない」
ジークになんか囚われている暇はないとキースはせかす。
だがトイラは、体中を叩きのめされたほどのショック状態で全く動こうとしなかった。
「トイラ! どうした。このままでは間に合わなくなるぞ!」
キースの怒りに似た叫びに仁ははっとして、ユキの側へと駆けつけた。
トイラの近くに寄れば必ず現れたくしゃみもこの時全くでなかった。
さっきの異変で、仁の体
にも何か影響を及ぼしてい
た。
ユキがトイラの腕の中で息絶えようとしている姿は、仁の心臓が破裂するくらいのショックをもたらした。
怒りと悲しみと悔しさが混ざり合い、仁は取り憑かれたごとくパニック陥る。
「ユキ! そんな、ユキがユキが」
仁は首を何度も横に振り、制御できない興奮が体をむやみに痙攣させた。
キースは無理やり羽交い絞め、仁を押さえつける。
誰もどうすることもできないんだと、仁を押さえる手に力が入った。
仁はキースに抑えられて何も抵抗できなくなった。
そのがっちりと押さえ込まれた力加減はキースの心の底の悲しみをしっかりと仁の体にも伝えていた。
誰も
がこの状況が辛くてたまらない。
そう思うと仁はひたすら涙を流し、顔がぐしゃぐしゃに濡れて、その
光景を
見守ることしかできなかった。
「トイラ、目を覚ませ。このままじゃユキはほんとに死んでしまうぞ。早く命の玉を取るんだ」
トイラはまだ動かない。焦点が合っていない視線で一点を見つめる。
「トイラ! トイラ!」
キースの叫びがやっとトイラの耳に届いたその時、トイラは震えながらユキの顔を見つめ、今一度、大蛇の森の守り主の言葉を思い出した。
『お前達がここへ来たのには訳がある。何もかも私にはお見通しだ。そしてこれから起こること全ては、お前達には必要な出来事の一つとなるだろう』
『お前には森の守り主に相応しい
力が備わっている。だが今のその気持ちではまだなれぬ』
『いいか、良く聞け、これは私の命でもある』
そしてトイラの緑の目は炎が揺らぐように力強い光を放した。