Brilliant Emerald

第十一章

3 

 ユキの体は鉛のように重たく、激しく降る雨が何度も頭を打ちのめしては、大地に徐々に沈み込んでいくようだ。
 ずぶ濡れの顔は決して雨だけのせいではない。
 トイラが消えていった一点を見つめる目は雨よりも大きな水滴を流していた。
 仁は声をかけるのを躊躇う。
 ユキの悲しみは宇宙のように果てしなく大きく広がっている。
 何を言ったところで意味を成さない。
 それならばと、ジークから 貰った巾着袋をぎゅっと握り締める。
 目の前に引き寄せ、思いつめた顔で見つめた。
 ──この中に……
 震える手で巾着袋のヒモを緩める。
 しかしそれ以上雨で冷たくなった手はスムーズに動かなかった。
 またヒモをきゅっと締めて、巾着袋を制服のポケットに荒々しく突っ込んだ。

「ユキ、早く山を下りよう。このままじゃ風邪を引いてしまう」
 仁の言葉など聞いてもいない。
 足に根が生えたようにユキは動かず、戻ってくることのないトイラをもしかしてと、期待をしながらまだ待っている。
「ユキ、みんなもう森へ帰ったんだよ。帰るべきところへ帰ったんだよ。ユキも自分の場所に戻らなくっちゃ。自分が存在しうる場所に」
 仁はユキの腕を掴み、引っ張った。
 ユキは人形のように何も反応しない。
 心はトイラを求めどこか遠くを彷徨っていた。
 それでも仁はもう一度ユキの腕を掴み、ぐいっと無理やり引っ張った。
 ユキはよろけて倒れそうになると、仁はしっかりと受け止め、ユキの肩を強く抱きしめてやった。

「ユキ、しっかりしろ。歩くんだ、しっかりと自分の足で歩くんだ。歩くしかないんだよ」
 ユキの髪は雨を吸い込み、先端で水滴がぽたぽたと滴り落ちている。
 もうこれ以上ユキを苦しめるなと、仁は自分の制服のブレザーを脱いでユキ の頭に被せた。
 そのまま有無を言わさずユキの手をとり歩き出した。
 その力に負けてユキも足を動かした。
 二人はトボトボと元来た道を戻っていく。

 田島亮一の家はこの雨で火が弱くなり鎮火しようとしていた。
 森には幸い火は燃え広がらず、田島の家だけがきれいさっぱりと燃え尽きた。
 周りには数台 の消防車が、赤く浮き上がって見えた。
 消防隊がホースをもって最後まで火を消すために忙しく動き回っている。
 まだ現場の混乱は続いていた。

「誰か森の中にいるぞ」
 消防士が仁とユキに気がついた。
 良子と柴山がその声に反応して慌てて駆け寄ってきた。
「仁、ユキちゃん。どこに行ってたの。心配したわ」
 良子が声をかけた。
「良子さん、トイラとキースが行ってしまったんだ」
 仁が説明する。
 良子は『ん?』という顔で疑問符を頭に飾っていた。
 トイラとキースのことを覚えてない。
「良子さん、トイラとキースのこと覚えてないの?」
「なんのこと? 誰それ?」
 仁はこんなにも早く記憶が消されたことに驚くよりも、ユキの悲しみがまた深くなることを懸念した。
 咄嗟にユキを見つめた。
 ユキは益々心を閉ざし、より一 層頭をうなだれていた。

 ──このままではユキはダメになってしまう。
 仁は危機感を拭えなかった。
 またジークから貰った巾着袋のことを考えてしまった。
「だけどさ、なんで俺達こんなところで火事みてるんだろう。何しにここに来たんだ?」
 柴山が独り言のように呟いた。
 トイラとキースの記憶と共に、それにまつわる全てのことを忘れていた。
「私を救うためでしょ、圭太。だけどなんで私、田島の家に来たのかしら」
 良子も不思議な顔をしていた。
 だが、そんなこともお構いなしなのか、良子と柴山の仲は元に戻っていた。
 良子が柴山の腕を組んで甘えた仕草をして いる。
 柴山は嬉しそうに照れて笑っていた。
 少し離れたところで消防士が田島に説明していた。
 この火事の原因は、田島亮一が保管していた薬品の化学反応が原因と告げられた。
 そして同じく肝心な 記憶を消され、訳がわからないまま、家だけが燃え た事実で田島は地面に膝をつき、再起不能になっていた。


 雨はいつの間にか小降りとなっていた。
 良子の車の後部座席でユキはうなだれて座っている。
 窓をみれば外は真っ黒で何一つみえない。
 闇の中を彷徨っている気分にさせられた。
「ユキ、僕んちに来い。君を一人にしておけないよ」
「ありがとう、仁。でも大丈夫」
 言葉の意味とは裏腹に、ユキのその台詞は感情がこもっていない棒読みそのものだった。
 仁はユキの顔を心配の眼差しでみつめる。
 車が止まったそのとき、突然ユキの顔から一つの希望に期待する光明が放たれた。
 自分の家を見て目を見開いている。
 ユキの見つめる方向には赤々と明かりが点っていた。
「あっ、誰か家に居る。もしかしてトイラとキース!」
 ユキは車から飛び出すと、一目散に駆けて行った。
 仁もまさかと車から飛び出してユキの後に続く。
 ユキが玄関のドアを勢いよく開けて、大声でトイラとキースの名前を叫んだ。
「ユキ! こんな時間までどこへ行っていたんだ。心配したぞ。しかもずぶ濡れじゃないか」
 しかし、家の奥から出てきた人物を見てがっかりと肩を落とした。
「パパ……」
 父親は、ユキの後ろに居た仁に気がつくと、あまりいい顔をせず、じろりと厳しい目を突きつけた。
 仁はしどろもどろになりながら、軽く会釈して挨拶する。
 状況を察したユキは冷めた声でフォローを入れる。
「パパ、この人は隣のクラスの新田仁君。友達なの。私をここまで送ってくれただけ。外には彼の叔母さんもいるし、心配することはないわ」
 ユキの顔はまた無表情に戻っていた。
 仁はもう一度父親に向かって一礼をする。
 ユキを一瞥するが、父親の前では何も話せない。
 黙って諦めて帰っていくしかなかった。
 家を出て静かにゆっくりと玄関を閉める。
 ピシャリと閉まりきったとき、同時に目を瞑り、口を結んだ。
 その場を去るのが心残りで仕方なかった。


 ユキは久しぶりに会えた父親を無視して、さっさと二階にあがった。
 父親は長いこと会っていなかった娘のそっけない態度に少々ショックを受け、自業自得な自分の行動を恥じていた。
 後頭部に手を置いて『参ったな』としきりに髪を掻き毟っていた。
 ユキは二階に上がると、トイラが使っていた部屋を迷わず開ける。
 不思議なことに、トイラが使っていた形跡はもう何も残ってなかった。
 そこは誰も使ったことのないような客間にしか見えなかった。
「どうして! 今朝まで使ってたじゃない。ベッドメイキングや掃除なんかするような柄じゃないのに、ここでこの間まで一緒に抱き合って寝てたのに、まるで ここに は 誰もこなかったみたいじゃないの」
 ユキはベッドに腰をかけ、そっとそのベッドを撫でた。
 床を見ると、石を積んで遊んだ思い出が蘇る。
 その石もどこにも見当たらなかった。
 何一つトイラのものは存在しなかった。

「トイラ、会いたい。お願い、戻ってきて」
 ユキは強く念じる。
 一瞬、目の前にトイラの姿が見えたように感じた。
 自分を見てにこやかに笑っていた。
 心に希望の種が与えられた気になり、もう一度強く念じようとしたとき、突然入ってきた父親に邪魔をされ、その希望の種も踏みにじられてしまった。
「何してるんだ、ここはユキの部屋じゃないだろう」
「何してるのは、そっちの方よ」
 ユキの怒りの叫びが部屋いっぱいに跳ね返り、父親は萎縮する。
「黙って行ったこと怒ってるんだな。急に呼ばれしまって、突然の出張だったんだ。一人にさせてすまなかった」
「えっ、一人にさせた? 留学生のこと覚えてないの?」
「ん? なんのことだ。誰かここに来たのか?」
 ユキはこの時気がついた。
 父親が突然いなくなったのも、トイラとキースが企んだことだったと。
 記憶を消すことができるのなら、出張させる小細工をすることも容易いことなんだろうと思うと、父を責める気はなくなった。
 全ては計画された出来事だった。
 そして後始末は何もかも抹消。
 ここまで皆が忘れてしまうと、ユキは自分が夢を見てたのかとさえ思えてきた。
 一体何が本当にあったことなのかわからない。

 しかし一つだけはっきりしていた。
 トイラを思う気持ち──。
 これだけは誰が否定しようとユキの心にしっかり残っている。
 ユキは突然号泣した。
 トイラを求めて、ただひたすら求めて、トイラを思い描けば描くほど、悲しみは深く、そのまた深くと広がっていく。
 父親は娘の涙に慌てていた。
 自分が全て悪いんだと、ひたすら謝っていた。
 本当の涙の理由など知る由もない。
 ユキも説明できず、父親のせいじゃないと首を横に振ることしかできなかった。

「ユキ、いつも身勝手な父親でごめん。今回帰ってきたのも、またあっちで過ごす話があって、それでユキに相談に来たんだ」
「えっ? あっちって、アメリカに戻るの?」
「ああ、そうだ。やっぱりパパは日本よりも海外の方がいいって思った。ユキを振り回してすまない。できたら向こうの高校が始まる9月までに戻りたいと思っている。ユキ一緒に来てくれるかい?」
 ユキの脳裏にはあの森のことが真っ先に浮かんでいた。
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