Brilliant Emerald

第十一章

6 

 深夜はとっくに過ぎている。
 冷たくひっそりとした病院は不気味で一層の不安を煽った。
 病院の廊下の長椅子にユキはポツンと座わり、落ち着かない表情で考え込んでいた。
 ──仁まで失ってしまったら…… 
 不安でいたたまれなくなる。
 もうこれ以上誰にも迷惑は掛けられない。
 自分がやるべきことは何か、ユキは強く決心する。
 ──トイラのことを忘れよう。
 ユキはジークの巾着のことを強く考えていた。
 あれさえあればうまく行く。
 だか体が震えて仕方がない。思い出を削られることを身をもって恐れていた。

 その時、慌てて仁の父親と母親がやってきた。
 多少不安な表情をしている。
 しかしユキをみると気を遣って笑顔を見せた。
 ユキの心はまた罪悪感にさいなまれ た。
「おじさん、おばさん、ごめんなさい。私のせいで、仁が」
 ユキは取り乱していた。
「ユキちゃん落ち着いて。仁は大丈夫だから」
 母親はユキを抱きしめる。
「でも、おばさん、仁は肺炎をこじらしているって」
「それくらい大丈夫よ。治る治る。仁はそんなこと気にもしてないって」
 母親はにっこりしていた。
 そばで父親も頷いていた。
 仁の両親の優しさをもってもユキは自分は許されるべきじゃないと素直に受け入れられなかった。
 自分のことしか考えてなかったのに、周りは皆ユキを心配し てくれる。
 それが恥ずかしくて仕方がない。
 そこにユキの父親が現れた。
 仁の両親と挨拶して、病院での手続きの経緯を説明しだした。
 看護師も後からやってくると、仁が運ばれた部屋へとみんなを案内してくれた。
 幸い軽い症状ですぐ治ると言われ、仁の母親も『ほらね』とユキに笑顔を見せていた。
 ユキはベッドに横たわっている仁の手を取り、祈る思いで強く握りしめた。
「ごめんね、仁。私自分のことしか考えてなかった。仁はこんなにも私のこと心配してくれてるのに」
「ユキ、みんなの前で恥ずかしいよ」
 仁はまた母親になんか言われると思うと、気が気でなかった。
 しかしユキに握られた手が嬉しいのか照れていた。
「ほら、いったでしょ、ユキちゃん。仁は大丈夫だって。病気になってユキちゃんに看病して貰った方がラッキーって思ってるくらいよ」
 仁の母親がそういうと、周りは安堵の笑いが漏れた。
「母さん、余計なこと言わないで。でもちょっとだけユキと二人っきりにしてくれない」
 息子にそういわれ、母親はユキの父親にそうしましょうと合図をとって、みんな部屋から出て行った。
 やっとユキと落ち着いて話ができると、仁は軽くため息をついた。
 体を起こしてユキの目をじっと見る。

「ユキ、君のお父さんと電話で話をしたとき、ちらっと聞いたんだけど、また向こうに戻るかも知れないんだってね。お父さんはそれで悩んで家を出たって思ったらしいよ。ユキは本当に向こうに行っちゃうの?」
「えっ?」
「向こうに行けば、トイラがいた森の近くになるもんね。そしてそこにはトイラの思い出も一杯だよね」
 仁はユキの古傷をつつく気分だった。
 しかしユキにもはっきりといいたいことがあった。
「仁、あのね、今日あの山で私の思い出の中のトイラの姿を見せられたの。私とても辛かった。やっぱりトイラのこと忘れられないって思った。仁、お願いがあ る。ジークから貰ったもの、あれはトイラたちの記憶を消すものでしょ。それを私に使って、私から記憶を消して欲しいの。そうじゃないと私はいつまでもトイラ のこと思い続けて苦しいの。ここに居ても、あっちに戻ってもきっとこのままじゃ苦しいだけ」
「じゃあ、それを使えば、ユキはあっちに戻るんだ。でもそれって、ユキは逃げてるんじゃないの?」
 仁はがっかりする。
「でも、このままじゃ、辛くて辛くて。それにみんなに迷惑をかけてしまう」
「トイラはどうするの? トイラはユキを思って、自らをユキに託した。それでもトイラのことを忘れてしまいたいの?」
「仁、何が言いたいの? 仁だって私からトイラを離して、忘れるようにしようとしたじゃない」
 ユキは反発する。
「それはそうだけど、あれはユキを助けようと思って血迷っただけ。これとは話が違う」
「何が違うの?」
「ユキ、忘れたくないものを無理に忘れる必要がないってことだよ。大切な思い出はきっと将来、持っててよかったって思えるよ。今は時間がかかるだろうけど、トイラの思い出と一緒に生きて、ユキはトイラのこと忘れちゃいけないって思うんだ」
「仁……」
 ユキの目にじわりと涙が溢れてくる。
「僕、待つよ。ずっと待つよ。ユキがトイラのことを思い出しても苦しくなくなるまで。ずっと待つ。だってこの世界で僕だけが、ユキの大切な思い出を理解で きるんだもん。僕は忘れないよ。トイラやキース、そしてジークのことだって。僕には大切な友達、そしてかけがえのない思い出。ずっと胸に抱いていたい。 きっと大人になった とき 懐かしんで、宝石のような輝いた思い出となってると思うんだ。大切なことから逃げちゃだめだ。過去があるから未来へと続く。これからのユキには今まで経験 したことが絶対必要だったって思えるときが来るよ」
「仁 …… ありがとう」
「ユキ、君なら乗り越えられる。トイラと共に。だってトイラはいつも君の傍にいるんだろ? そうじゃなかったかい?」
 仁に言われてユキはトイラの言葉を思い出した。
『どこにも行かないさ。俺は君のすぐ傍にいる。すぐ傍に』
「うん。そうだよね。私はトイラと共に生きてる。この思い出と共に、いつもトイラはここにいる」
 ユキは胸を押さえる。
 自分の心臓の鼓動が体で響く。
 これはトイラの鼓動の音でもある。
 一緒に動いている。
 ユキの目からまた涙がこぼれてきた。
 でも、それは悲しさの涙ではなかった。
 トイラと共に生きる喜びの希望の雫のように、キラキラと美しい水玉が落ちていった。
 仁はちょっと大げさだったかなと恥ずかしげに笑っていた。
 だけど、それなりに悩んで出した答えだった。
 仁もほんとうは黙ってあの銀の粉をユキに 振りかけてやろうと何度思ったことか計り知れない。
 捨てたことをユキに伝えると、ユキはそれでよかったと頷いてにっこりとした。
 仁の前向きな姿勢はユキにひしひしと伝わった。
 ユキは仁に心から感謝するとぎゅっとハグをした。
 突然の柔らかな感触に、仁の動きがとまり、顔が赤くな る。
「仁、早く良くなってね」
「ああ、でもまた熱出たかもしれない」
 仁はバタンとベッドに倒れてしまった。
「やだ、仁、大丈夫」


 仁は暫く入院することになった。
 あれから病院を後にして、ユキが家に戻ったときは日付はとうの昔に変わっていた。
 寝る時間があまりなく、その日は欠伸をしながら登校する羽目になった。
 二日連続あまり寝ていない。
 かなり疲れているがそれでもユキはどうしても学校に行きたかった。
 やらなければならないことがある。
「逃げちゃだめか」
 その言葉を呟きながら、ユキはマリのことを考えていた。
 ねちねちと言葉で虐められていても、決して手を出されたことはなかった。
 頬をまたそっと撫ぜる。
 痛かったが、この時になってその痛みは胸に響いた。

 ――あのとき矢鍋さんは私を心配してくれていた。だから抑えられない感情があんな形になったんだと思う。本当に心配してくれてなければそんな感情なんてでてこないよ。
 ユキは体育館に向かっていた。
 そこで朝練が終わったマリを見つける。
 走って来たためにハアハアと息をしながらユキは近づいた。
 以前マリに言われたように、自分の殻を破り飛び込んでみようと思った。
「矢鍋さん、昨日はごめんなさい。心配してくれてたのに、私、馬鹿なことを言って」
「謝るのは私の方よ。叩いてごめん。それに今まで私もネチネチと意地悪して悪かったわ」
 ユキは驚いた。マリが自分に謝った。
 思わずアメリカナイズの行動に出てしまった。
 ユキは思いっきりマリにハグしていた。
「やだ、春日さん、みな見てる」
「いいの、これが私流のやり方。私たちいい友達になれるよね」
「うん」
 マリも恥らうように笑っていた。


 教室に入ると、五十嵐ミカを見つけて『おはよう』とユキは挨拶した。
 戸惑っていたが、一応返事は返ってきた。
 最初の第一歩だと思い、ユキはにこやかに笑う。
 もう過去に虐められたことは気にしない。
 これが逃げずに前に進む第一歩。
 きっとトイラも応援してくれているはず。
 まだまだ心の傷はすぐには癒えないけど、一つ一つ片付けなければ前にも進めない。
 ユキはまた胸を押さえ、トイラを強く思った。
「あれ、今、トイラが側に居たような気になった」
 辺りを見回す。
 でも見えない。
 がっかりしてまた簡単に落ち込んでしまった。
 さっきの前向きな姿勢はまだ脆く壊れやすい。
 このままではいけないと頭を上げて背筋を伸ばす。
「なあ、春日、一人で何一喜一憂してるんだ。見てたら笑えるぞ。お前、面白いな」
 近くに居たクラスの男の子に声を掛けられ驚いた。
 しどろもどろになりながら、ユキは笑ってその場を誤魔化した。

 英語の時間、ユキの前に居た生徒が当てられ、答えられなくて困っていた。ユキは後ろから助け舟を出した。
 うまく答えられて助かったとその生徒が安心して席につい たとき、後ろを振り向いてユキにお礼を言った。
 ユキは気分がよかった。
 するとトイラが一瞬窓際にもたれかかってこっちをみている錯覚をおこした。
 振り向くと何も見えなかった。
 ──あれ、まただ。

 お昼の時間、ユキは一人でお弁当を食べようとしていると、マリが側にきた。
 一緒に食べようと自分のお弁当を見せてウインクした。
 するとマリと仲のいい友達ふたりも加わった。
 それをクラス中が珍しい光景だと見ていた。
 ユキの心にポッと火が点って温かくなり、自然と笑みがこぼれた。
 そしてやはりこのときも側にトイラが現れ、そして振り向くとすーっと消えた。
 ユキは突然はっとした。

 そっか、トイラは前を向けっていってるんだ。
 そして一緒に私と前を歩こうとするんだ。
 過去に囚われずに、前に進めばトイラも側に居てくれるんだ。
 そうだよね。
 うじうじしてるときに出てきたら、私はずっと過去に囚われて一歩も歩めないもんね。
 トイラ、私頑張る。
 まだ辛さは正直癒えないけど、でも前に進むわ。
 そうよあなたはいつも私の側にいるんだから。
 この私の命と共に。

 
 その晩、ユキは父親に言った。
「私、パパと一緒に行かない。日本で高校を卒業したい。だからパパ一人で向こうに行ってきて」
「そっか、ユキがそういうのなら、パパもここにいるよ」
 ユキはソファーに座る父親の後ろに突然回って、肩をもみだした。
 父親は娘のサービスに照れながらも肩がほぐれていくのが気持ちよく、心までほぐされていくようだった。
 口元が自然にほころぶ。
 少し見ない間に自分の娘は成長していた。
「なあ、ユキ、あの新田仁君だけど、あの子はユキのボーイフレンドかい?」
 父親として気になるのか、そっと訊いた。

 ユキは仁のことを少しばかり考えてみた。
 父親はユキの答えをずっと待ってるのか、慎重な面持ちだった。
 ユキはそれを見るとくすっと笑いをもらした。
 顔を上げれば、目の前でトイラも同じように笑いながらユキを見ている。
 美しいエメラルド色の瞳がくっきりと見える。
 ぶっきら棒にいきがってかっこつけていた。

 ──トイラがこんなにもはっきり見える。私、前を向いて歩いてるんだね。トイラと一緒に。そうだよね。
『ユキ、しっかり前を向け。俺も一緒についていくぜ』
 そんなトイラの声が聞こえてきそうだった。
 ユキはうんと力強く頷く。
 そして父親の耳元で小さな声でごにょごにょと囁いた。
「えっ、ユキ、今なんて言ったんだい?」
 ユキはそれ以上何も言わず、にこやかな笑顔をみせながら、父親の肩をひたすら力強く揉んでいた。


<THE END>

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このあと宜しければ、続編もお読みになって頂けると幸いです。
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