Brilliant Emerald

第二章

1 

 襲ってきたカラスの出来事によってクラスは驚き、混乱していた。教室の一番後ろの窓際に集中して集まる視線。状況が飲み込めないまま異様な雰囲気だけが漂う。
 その一角で、気を失ったユキを抱きかかえるトイラが、本能丸出しに死守しようとして焼き付けるように睨み返している。
 何が起こっているのか理解しがたく、トイラの異常な気迫に誰もが畏怖して言葉を失っていた。
「落ち着け。ここは戦場じゃない」
 我を忘れているトイラに向かってキースが小声で発した。その直後、ころっと態度を変えて周りのものに話しだした。
「カラス、コワイ。ボクモ キゼツ シソウダッタ」
 キースの言葉を皮切りに次々とカラスの話題が飛び出し、みな口々に感想を述べ合ってクラスはざわざわとし始めた。
「春日は大丈夫なのか。トイラも怪我してるじゃないか」
 動揺しながら村上先生が問いかける。
 ユキはピクリとも動かず、トイラに抱きかかえられている。そのトイラの手もカラスに引っかかれた傷ができて血が出ていた。
「ホケンシツ ツレテイク」
 キースが言った。
「そ、そうか。じゃあ、頼んだ。みんなも落ち着くんだ。もう大丈夫だから」
 村上先生が収集をつけようと、みなに呼びかける。
 いつものようにホームルームが始まり、止まっていた時間が、何事もなかったように動きだした。
 トイラはユキを抱きかかえて教室を出て行く。その後をキースが続き、様子を窺っている生徒に向かって「ダイジョウブ ダイジョウブ」と連呼していた。
 教室を出たとたん、キースは大きく息を吐く。
「トイラ、もっとやり方があっただろう。あれじゃ目立ちすぎだ」
「仕方がねえだろ。こっちも必死だ。あのカラスは嫌なものを運んできやがった。お陰でこの有様だ。手加減してしまったから、こうなっちまったんだよ。お前が手伝ってくれたらよかったんだよ」
「いつもなら僕の助けなんか必要ないって言うくせに、こういうときだけなんだよ」
 キースはぶつぶつ呟く。
「昨日、あれだけ猫を集めて情報を収集しても不振な動きはなかった。そっちも犬の力を借りたんだろ」
「ああ、遠吠えまでして確かめたけど、何もなかったよ」
「まさか学校に来るなんて……すっかり油断してしまった」
 トイラはユキを見つめて申し訳なくなった。
「しばらくは仕掛けてこないと僕も思った。アイツもかなりのダメージを受けてるからな。まさか、こんなにも早く動き出すなんて。だけどこうなるとユキの記憶が思ったより早く戻るかもしれない。そのときトイラの苦しみは少しは解放されるかもな」
 キースが慰めようとする。
「苦しみなんて変わらない。この先の方がもっと苦しい。ユキの記憶が戻ったところで俺にはもう意味をなさない」
「だが、今のお前を見ていると、いじらしくてたまらないよ。ほんと、単純だよな。何もユキを避けることないじゃないか。彼女はただ記憶を失ってるだけだ」
「お前に俺の抱える問題が簡単に分かってたまるか」
 トイラは苛立って感情を吐き出してしまった。
「トイラ、そうかっかするな。僕だってこれでも心配してるんだぜ。それにもう済んでしまったあとだ。過去のことはどうしようもない」
「だからと言って、俺の失態が消えるわけでもないだろう」
「お前だけが悪いんじゃない。そう責めるな」
 キースの優しさが却ってトイラを傷つける。
 どんなに慰められても、血にまみれた瀕死のユキを思い出して自分を責めてしまう。あんなことは二度とごめんだ。ユキを失いたくない。自分の命にかえても。
 しかし、このままではいずれユキは……
 気を張り詰めたトイラの肩に、軽くキースの手が置かれ、トイラははっとした。
「思いつめるな。助ける方法はきっとある」
 キースに心のうちを読まれていたのが悔しく、トイラは何も答えない。
 一番トイラを理解しているキースだからこそ、物事が良く見えてしまう。キースもまたやるせなく、何も見ないふりをしてスタスタと先を行ってしまった。
 キースの気遣いを察したトイラは、それに甘んじてユキを自分に引き寄せ抱きしめる。少しでも長くユキに触れていたかった、今だけは。
 ユキの目が覚めれば、また心を押し殺して冷たく接しなければならない。
 ユキに近づけないのなら嫌われた方がいい。記憶がないユキを見るのが辛すぎて、自ら何もかも壊してしまう。
「ユキ、今どこにいる」
 記憶を取り戻してほしくても、戻ったときの方がもっと苦しくなる。
 自分でもどうしたいのかトイラにはわからなかった。

 一方でカラスによって仕掛けられた罠は、確実に、ユキに影響を与えてしまった。
 ユキもまた迷宮の中を彷徨い始めていた。 
 暗闇の中で、恐怖と立ち向かいながらユキは出口を探していた。
 じめじめとして蒸し暑い洞窟。
 時折り頭上に落ちてくる水滴にドキッと驚かされ、ユキは岩の壁伝いにゴツゴツする石の上を歩いていた。
 ぬるっとした石の上で足をとられて、バランスを崩すたびにヒヤッとする。
 なぜ自分がこんな場所にいるのだろう。
 疑問に思いながらも、見覚えのある気もする。
 額から汗が噴きだし、それを拭えばねっとりとした感触が気持ち悪い。
 手を見つめれば、べっとりと赤黒く陰が覆っていてハッとする。
「これは汗じゃない。血だ。まさか私の?」
 意識したとたん、焼けるように腹部が熱くなってくる。それを確かめれば、ドクドクと血が流れていた。
 それに驚き、ユキは悲鳴を上げる。そして目が覚めたとき、緑の目が悲痛な思いでユキをじっと見ていた。
「ユキ、大丈夫か」
 目覚めて間もないユキは混乱して、訳がわからないでいた。
 見慣れない部屋でベッドに横になっている。そして自分を心配している人が目の前にいる。
「私、一体……」
「うなされていたけど、どこか痛いのか」
「うなされていた?」
 ユキはハッとして起き上がり、布団を跳ね除け、自分の体を確かめる。どこも血はでていなかった。
 ユキが何かを言いたげにトイラを見つめる。
「血が……」
 そこまで言いかけたとき、ベッドの周りを囲っていたカーテンがシャーと音を立てて、目の前の視界が広がった。
 白衣を着た女性がユキを覗き込んで話しかける。
「気がついたみたいね。どれどれ」
 血圧器を手にしてユキの腕に巻きつけ測りだし、手際よく操作していた。
「ただの貧血だと思うんだけど、教室にカラスが入って襲ってきたら、そりゃびっくりするわよ」
 沢山の生徒の面倒をみるだけあって、親しみやすい気さくな感じの保健の先生だ。
 横で心配そうに様子を窺っているトイラにも微笑んでいた。
「だけど、こんなかっこいいふたりに運ばれて、ちょっと羨ましいわ」
 余計な一言に、ユキはうつむいて黙っていた。
「血圧は異常ないわね。でもどこか痛いところある?」
 血圧の道具を片付けながら先生が聞く。
 ユキは無意識に胸の辺りに手を置いた。少し熱を持ったように熱く感じていた。
 でも首を横にふる。
「それなら、もう大丈夫みたいね」
「センセー、ツヅキ、ハヤク、ハヤク」
 キースが部屋の隅に置かれている机の傍で座っていた。
 その机の上にはオセロが置かれている。 
「はいはい、ただいまただいま」
 先生も調子よく答えて、キースのいる場所に戻って行った。
 ボードをみるなり、先生は考え込む。
「なかなか強いね、君」
 二人して楽しく遊んでいた。
「あのゲームが終わるまで、ここでゆっくりしてもいいだろう」
 キースと先生の様子を眺めながらトイラが言った。
「私、気絶したの?」
 ユキが心ここにあらずで訊いた。まだ無意識に胸の辺りに手を置いている。
「ユキ、胸が痛むのか?」
「えっ? ううん、大丈夫だけど。私、あの時、カラスの羽を拾おうとして、それで……」
 トイラはユキの言葉を遮るように声を出す。
「俺たちが現れて気が休まらなかったし、ただストレス溜まってたんだろ。なんだ、大したことないじゃないか。元気なら心配して損した。もしかして演技だったんじゃないのか。俺たちへの当て付けとかさ」
 もちろん本心などではなかった。カラスの話題から逸らすためにトイラはわざと憎まれ口を叩いている。 
「ちょっと、なんでそうなるのよ。何、その言い方。そうよ、ストレスに決まってるわ。もちろん原因はあなたたちよ。朝から裸を見せるし、抱きかかえられて猛スピードで走るし、一緒にいると目立つし」
「はいはい、せいぜい俺たちのせいにしてくれ」
「何よ。ふん」
 ユキはベッドから身を起こして立ち上がり、すぐ近くに置いてあった上履きを乱暴に履いた。
「私、教室に戻るわ。先生、どうもお世話になりました」
「あら、まだゆっくりしていいのよ」
 先生が引きとめるが、ユキは深く頭を下げ感謝の意を伝えて保健室を出て行った。
 トイラもその後をついていくと、キースは残念そうに先生に顔を向けた。
「ボクモ イカナクッチャ」
「またいつでも遊びにいらっしゃい」
「ウン。マタ アトデネ」
 キースも二人の後を追いかけた。
 静かになった保健室で、先生はひとり駒を動かし、裏表ひっくり返していた。
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