5
テーブルの上の食べかけのハンバーグ。
すっかり冷め切っていた。
ユキはそれを見つめていると涙が溢れ出して、自分に腹が立ってくる。
ユキは泣きながらお皿を手にして、そこにあった全てのハンバーグをゴミ箱の中に力任せに捨てた。
「ユキ、何も君の分まで捨てなくてもいいじゃないか」
「だって、こんなの作ったからトイラは」
「僕がはっきりといわなかったのが悪かった。玉ねぎアレルギーといえばよかったんだ」
「アレルギー!? えっ、そんな。私、なんてことを。ごめんなさい」
ユキは声を上げて泣き出した。
「だから、泣かないで。事情を知らなかったから、ユキは好き嫌いをなくそうとして、工夫して作ってくれただけさ」
「でも意地悪したのと同じだった。それなのにどうしてトイラは玉ねぎが入ってるって分かってて食べたの」
「トイラはユキが作ったから食べたかったんだ。いつも言ってるよ。ユキの作る料理はおいしいって」
ユキの涙は当分止まらない。顔をくしゃくしゃにして喚いてしまう。キースはユキの頭をポンポンと軽く触れてなんとか慰めようとしていた。
トイラは起伏が激しく、振り回されては腹が立つが、ユキが作ったものは必ず文句を言わず食べる。
後片付けも手伝う。
それがトイラの優しさだとユキはその時気が付いた。
ユキの肩はいつまでも小刻みに震え、嗚咽していた。
「ユキ、トイラは君が思ってるほど悪い奴じゃないんだ。ちょっと気分屋で気難しいところがあるけど、アイツ、ほんとはいい奴なんだぜ。僕もそういう所が結構好きなんだ」
キースは今がチャンスとばかりにトイラの肩を少し持ってやりたかった。
「ほら、もう泣くなって。僕ちょっと出かけてくるよ。トイラの薬買ってくる」
「それなら、私が買ってくる」
「いいよ、僕にしかわからないから」
すっかり辺りは暗くなっている。月明かりを頼りに、キースは薬を求めて出かけていった。
「気をつけてね」
泣きすぎて、赤く腫れた目を向けてユキはキースを見送った。
キースが行ってしまうと、急に家の中が静かになりユキの心細さを一層かきたてる。
トイラの様態が急変したらどうしよう。
心配で階段をそろりと上がって、トイラの部屋をそっと覗く。
少しあけたドアの隙間から、苦しそうにうなされているトイラの顔をみると、いてもたってもいられない。
「やっぱり医者に見てもらわないと」
そう思や否や、一目散に玄関に向かい、靴を履いて外に出ると、ユキは慌てて自転車にまたがりペダルをこいでいた。
ここからそんなに遠くないところに、小さな医院がある。
この町の住民は体の調子が悪くなると誰もがそこを尋ねる。
ユキも一度風邪で世話になったことがあった。
気さくな話しやすい先生。小さな田舎町の先生だから、その人に直接頼めば往診に来てくれるかもしれない。
一心不乱でペダルを漕ぐ。
ポツポツと立っている街灯が田舎道を照らそうとするが、あまりにも頼りない光で薄暗い。
点いたり消えたりを繰り返しているものあり、不気味な雰囲気がする。
人通りも全くない、暗い夜道。
夜道が怖いなんて言ってられないほど、ユキは我を忘れて猛スピードで自転車を飛ばしていた。
車もあまり通らない寂しい道。田畑が広がるところを通りかかったときだった。
突然前に人影が立ちはだかった。
「危ない」
急ブレーキをかけるユキ。
体が前につんのめると同時に胸に痛みが広がった。
まるで内側から、幾つも針をつつかれ、その針が体の中から突き抜けようとしているような痛みだった。
その痛みに耐えかねて立ってられず、バランスを崩し自転車とともにユキは倒れこみ、意識が朦朧とする。
黒い影がユキに近づくにつれて、そのシルエットが浮かび上がってくる。
フードつきのワードローブを頭からすっぽりとまとい、顔は暗闇にのまれ、目だけが不気味に光を帯びていた。
「また会ったね。ユキ」
耳障りな振動が伝わってくる低い声。
黒い影が一歩一歩、ユキに近づく。
胸の痛みが激しく増して、息が苦しい。
胸を必死に押さえ、よたつきながら立ち上がろうとしたその時、黒い影の手がユキの肩を掴んだ。
ユキの胸の痛みも頂点に達した。
「ああーー!」
ユキの悲鳴が暗闇に響き渡る。
ベッドで寝ているトイラの耳がピンと立ち、それをキャッチする。
「ユキ!」
だが体は見えない鎖でしばられているように重く動かない。
歯を食いしばり、体に力を入れて全てを跳ね除けようとする。
ベッドから起き上がり、窓を開け、闇に向かって猛獣のように吼える。
みるみるうちに黒い塊となり、二階の窓から軽々飛び降りて、声が聞こえた闇へと駆け抜けていった。
「さあ、立つんだユキ」
黒い影はユキのシャツの胸倉を両手で持ち上げ、自分に引き寄せる。
ユキは必死に抵抗するが、苦しくて力が入らない。意識も遠くなっていく。
黒い影がユキの胸元を、悪魔のような手で抉ろうとしたとき、どこからともなく数匹の猫が飛び掛ってきた。
犬も現れ、歯をむき出しにして次々黒い影に襲い出した。
「邪魔するな」
黒い影は攻撃を避けた弾みでユキから手が離れる。
ユキは、どさっとセメント袋のように地面に落とされ気を失った。
その時、黒い突風が矢のごとく現れる。
「ユキから……離れろ……」
苦しさで呼吸が乱れていた。肩が上下に揺れ動き、立ってるのがやっとだという姿の大きな黒豹が、持てる力の限り唸っている。
白い歯をむき出しにして、緑の目は大きく見開き、怒りの炎が燃えたぎっていた。
黒い影はその姿を見るなり余裕たっぷりにニヤリと笑った。
「トイラ久しぶりだな。オヤ、どこか調子でも悪いのかい。なんだか苦しそうだが。変なものでも食べたのか」
黒い影は冷ややかに笑う。しかし、すぐに邪悪な目を向け、出し抜けに手を前に突き出した。その瞬間オレンジ色の光線がトイラを襲った。
トイラは飛び上がりなんとか交わすが、着地するとき足がよたついていた。
光線が当たった地面はえぐれて焦げ付いていた。まともに浴びたらダメージを食らうところだった。
「くそっ、こんなときに ……」
トイラは歯を食いしばり黒い影に飛び掛った。
黒い影は、すっーと後ろに下がって、トイラから遠ざかる。
黒豹のトイラはユキを背にして立ちはだかり、黒い影に向かって威嚇する。
しかし目がかすんで、まともに立っていられない。
必死に気力を奮い起こすも、ふらつきが収まらなかった。
「こんなにも簡単にトイラをやっつけられるなんて、私はなんてついているんだ」
また手を前に掲げたときだった。
後ろから大きな犬が飛び掛り、黒い影の背中に爪を立てて引掻いた。
「うっ、お前はキース」
そこには銀色に輝く毛皮をまとった狼が勇ましく立っていた。
「ジーク、お前の思うようにはさせない。お前をぶっ潰してやる」
狼の姿のキースが叫んだ。
キースが遠吠えをすると、どこからともなくまとまった数の犬がやってきた。
多勢に無勢。ジークは今にも飛び掛ってきそうな犬たちを見て断念する。
「くそ、もう少しだったものを」
ジークと呼ばれた黒い影は夜空に浮かび、闇に溶け込むようにすっと消えた。