Brilliant Emerald

第三章

6 

「トイラ、大丈夫か」
 人の姿に戻ったキースがトイラの傍に駆け寄った。
「ああ、大丈夫だ」
 トイラもまた人の姿に戻るが、立ち上がれずよつんばになったまだった。
 はあはあと肩で息をしている。
 ジークが去った後、辺りを確認しキースは口笛を吹く。
 そこに居た犬や猫たちは、命令解除の合図を受けてそれぞれの帰るべき場所へと去っていった。
「みんなありがとね」
 キースは労いの言葉をかけていた。
 トイラは最後の力を振り絞り、よたつきながらユキの元へ近寄る。
「俺、不覚だった。なんてこった。お前が現れなければ、俺ダメだったかもしれない」
 自信過剰なトイラだが、めったに弱音を吐くことなどこれまでキースは見たことがなかった。
 それゆえに、キースは自分の存在を認められて役に立った事が誇らしかった。
「とにかく家に帰ろう。お前も早く体を治すんだ。森から薬草取ってきてやったよ。これを煎じて飲めばすぐに治癒するさ」
 トイラは地面に横たわってるユキの顔をじっと見つめ罪悪感いっぱいに悔しさを滲ませた。
 ユキを自分に引き寄せ、何度も謝りながら愛しく抱え込んだ。
 キースはその様子をまともにみられなくて、思わず悲しさから目を逸らす。
 代わりに見た空に浮かぶ美しい月ですら非情に感じてしまう。
 トイラがユキを抱えてよたよたと立ち上がり、重い足取りで歩きだした。
 キースは、少し離れてユキの乗っていた自転車を手にして黙って押していく。
 体も心も傷ついているトイラ。でもそれはまだ序の口だ。この先もっと辛くなる事をキースは予期していた。
 

 朝の陽光が差し込み、ベッドで寝ていたユキが目覚める。
 起き上がろうとするが、体のあちこちがいたくてうめき声を上げた。
 胸も少しチクチクし、服を引っ張ってそこに目を向けると、痣が少し大きくなっていることに気がついた。
 ユキは不可解だと、眉間に皺を寄せ考え込んだ。
「まるで月が満ちていくようだわ。それになんで私服も着替えず寝てたんだろう。自転車に乗って……」
 そこまで言いかけたとき、トイラが病気だった事を思い出し、一目散に起き上がった。
 勢いで痛む体のことも忘れ、自分の部屋から飛び出すと、向かいのトイラの部屋にノックもせずに入っていった。
「トイラ! あれ? いない」
 すぐさま階段を駆け下りて、居間に飛び込めばトイラとキースが何事もないようにソファーに座ってテレビを観ていた。
「おはよー、ユキ」
 キースが元気に声をかけてくる。その隣でトイラも気だるそうに「おはよう」と言った。
「トイラ! もう大丈夫なの。お腹は痛くない?」
 走って駆け寄るユキ。
「ああ、大丈夫さ。言っただろ、一晩寝たら治るって」
「よかった」
 ユキは安心して涙腺が緩んでいた。
「何も泣くことない。大げさでうるさいな」
「だって、あんなに苦しそうにしてたら心配になるじゃない。だから私、お医者さんを呼びに行こうとして自転車に乗って……あっ!」
 ユキは突然大きな声を出した。
 トイラもキースもユキがどこまで覚えているのか気にしていた。
「変質者が出たんだ」
「変質者?」
 トイラが繰り返す。
「そう、変質者。あの時胸が痛くなって、その後どうなったか覚えない。でもどうやって私戻ってきたんだろう。それからの記憶がない」
 ユキは首をかしげている。
「なあ、胸が痛くなったって、大丈夫なのか」
 トイラが恐る恐る訊く。胸の痣の大きさを確かめたい。トイラは露骨にユキの胸の辺りに視線を向けていた。
「うん。ちょっとなんかぶつけて青痣ができた感じだけど……えっ、ちょっとどこ見てるのよトイラ」
 ユキはあたふたして手で前を隠す。
「隠すほどのものでもないだろ」
 キースがまた揶揄した。
 ユキは憤慨してキースに殴りかかろうとするが、すばしっこくよけられて、空振りに終わった。
 ちょっとキース。
 キースのせいで、ユキは昨晩の事を深く聞けなくなった。
 変質者に驚き、ショックのあまり記憶がとんだとしか考えられない。 
 一晩寝てしまうと不確かな記憶は益々曖昧になってわからなくなっていく。
 ひとつ確かなのは、トイラが元気になったということだ。
 トイラを見れば、不機嫌さはいつも通りだが、あの苦しんでいるトイラをみるよりはずっとよかった。
 ユキはいつもの日常に戻った事を喜ぶ。
 あちこち体の痛みは残るが、それでも笑顔になれる朝だと思った。
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