Brilliant Emerald

第四章

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「申し訳ないけど、勝手に朝食を食べてくれる? 今からシャワー浴びたいんだ」
  時計を気にしながら、ユキは急いでバスルームへと駆け込んだ。
 ユキの記憶が曖昧になってる事を知ってほっと一息つき、トイラとキースはキッチンに入って、朝食の準備をし始めた。
「どうやら、昨日のことは覚えてないようだね」
 戸棚から出したシリアルの箱を手にしてキースが言った。
「キースの小細工なんだろ」
 トイラは棚からボールを出し、キースの持っていたシリアルの箱を奪った。
「まあね。すでに気を失っていたみたいだから、ほんの少しだけ弄るだけで上手くいったよ。あまり『忘れ粉』は使いたくないからね。ただでさえ、ユキは記憶を失ってるから、コントロールするのは気が引ける」
「しかし、ジークのことは今は遠ざけておきたい」
 トイラは箱を開けてシリアルをボールに入れだした。
「いつまで遠ざけていられるかだけど、昨日は噂をすれば影だったね。しかもトイラの体調の悪いときにやってくるなんて」
「ジークは俺たちの周辺を偵察していただけだと思う。偶然が重なってユキと出くわしてしまった」 
 シリアルの箱を持つトイラの手に力が入って、箱が歪になっていた。
「でもまだ簡単にはいかないと思ったはずだろうね。今度はどんな手をつかってくるんだろう」
 キースがトイラからシリアルの箱を奪い返す。
「きっと、卑怯な手さ」
 トイラが静かに言った。


 朝の通学途中。ひとりで前を歩くトイラの後姿を眺め微笑んだ。
「何、笑ってんの?」
 隣にいたキースが訊く。
「トイラは猫背だなって思って」
「なるほど」
 キースは自分の背筋を伸ばした。トイラは習性だからいいが、自分が猫のつく言葉でそういわれたらたまらない。
 学校に近づくにつれ、人通りが増えてきた。
 のどかなぽかぽかとした天気。
 トイラが愛想悪くても、心安らぐほど春の日差しが柔らかい。
 すれ違う小学生が、物珍しそうにトイラとキースを眺めていく。好奇心旺盛の子供は物怖じなくハローと声を掛けていた。
 キースはそれに笑顔で答えていたが、トイラは面倒くさそうにしている。
「ハローハローってうるさいんだよ」
 流暢な日本語で子供たちに言えば、あどけない瞳を向けて「日本語わかるの?」と子供たちはさらにトイラに問いかける。
「ほら、お前ら早く学校行け、遅れるぞ」
 蹴るフリをして蹴散らし、子供たちはキャッキャと楽しんで走っていった。
 ユキはトイラらしいと見ていた。
「ねぇ、キース。学校でも別に猫被らないで日本語話せないフリをしなくてもいいんじゃない?」
「猫を被る? その言い方は好きじゃないけどさ、普通に話したら僕たち人気者になりすぎて、みんな気軽に話しかけてくるだろ」
「それって、楽しいじゃない」
「そうなったら相手するの面倒くさくなる。適度が一番さ」
 不思議ないい訳だと思いながら、ユキは聞いていた。
 実際のところは、話せないフリをすることで人をあまり寄せ付けず、ユキの傍にいても不自然じゃないようにしていた。
「だけど、なんでそんなに日本語話せるの? どうやって勉強したの?」
「ユキだって英語も日本語もどっちもできるじゃないか」
 キースは何でもないことのように言った。
「私の場合は海外で住んでたからよ。ちゃんとそこでも日本語学校に通ってたの。ちゃんと勉強しなければ二ヶ国語なんて習得難しいよ」
「僕たちはそういう語学能力が優れてるのさ、上手く説明できないけど、あっという間に習得したってことさ」
 キースは茶目っ気たっぷりにおどけていたが、ちらりとユキの反応を気にしていた。
「頭いいんだね、二人とも」
 目の前で流暢に日本語を喋ってるのを見せ付けられれば、語学の才能があると認めざるを得ない。
 世の中一瞬のうちに難しい計算をこなす人もいる。
 語学もすぐにマスターする人もいてもおかしくないとユキは尊敬の眼差しをキースに向けた。
「実は、犬語も猫語も話せるんだ」
 キースは得意げに言う。
 ユキは冗談だと思って笑っていた。
 トイラとキースは言葉の持つ音を意味のある言語へ変換する能力がある。
 話す場合も相手の耳に一番合う言葉に変化させることができる。
 言葉を口から発するコミュニケーションではなく、脳に直接意思を語りかけているにすぎない。
 すなわち二人はどんな言葉も聞けて話せる能力を生まれもって備えていた。
 ユキの記憶はまだ失われたままだ。
 まだ今よりも幼かったときのユキが初めてトイラに出会ったとき、ユキはすでにそのことに気がついたはずだった。
 その時のトイラは本来の姿――黒豹だったのだから。
 早くユキの記憶が戻って欲しい。だがその時はすでに時計の針が進みすぎているのかもしれない。
 キースは複雑な思いに吼えてしまう。
「ワオーン」
 ユキはその意味も知らず、キースのおふざけとみなして無邪気に笑っていた。
 キースの持っていきようのない気持ちの表れに反応し、トイラは振り返り困惑した顔を向けた。
 それと同時期に、それを耳にしたその周辺の飼い犬たちも同情するように悲しく遠吠えし出した。

 学校の校門に来れば、そこでモジモジとしながら仁がユキを出迎えた。
「おっ、おはよう、春日さん」
 すでに友達気取りに馴れ馴れしい。
 トイラは気に食わなさそうにちらりと一瞥する。
「おはよう新田君。昨日はありがとうね」
 仁に寄ってこられると、ユキもそれに合わせて肩を並べて歩き出した。
 あっという間にふたりの世界になり、トイラもキースも中に入れず、距離を開けて様子を見ていた。
「ライバル登場って感じだね」
 キースがトイラをからかう。
「あの優男はユキの好みじゃない」
「それって、ぶっきら棒のトイラが好みだっていいたいのか」
「そうじゃない。ユキはもっとはっきりと物を言う男らしい奴がいいんだよ」
「だから、それってトイラじゃないか」
 遠まわしに自分に惚れていると意味しているのに、それを認めないトイラにキースは嫌気がさしてきた。
 トイラは明らかに仁を敵視していた。
 好きなら素直になればいいのに、トイラは自ら全てを壊して偽り続けている。
 心は嘘をつけないのに、トイラは不器用すぎて自分でも何をしているのかわかっていない。
 キースはそれを正そうとするのに、トイラは聞く耳持たずなのがいらつく。
「おい、トイラ、耳と手が野生になってるぞ」
 キースに指摘され、尖る耳を咄嗟に大きな猫の手で押さえるトイラ。
 それを見ながら、キースはやってられないとため息をついた。
 元に戻すまで、トイラは落ち着くために何度も深呼吸をしていた。
 
「それじゃ、また後で」
 ユキは仁と自分の教室の前で別れた。
 トイラとキースは先に席についてる。
「アノコ ト ナニ ヲ ハナシテ タノ?」
 キースがトイラの代わりにきいてやった。
 トイラは外の景色を見ているふりをして、耳だけはユキに向けていた。
「えっ、別に。向こうが話してくるから聞いてただけ」
 ユキがかばんから教科書とノートを出し、机に入れたときだった。
 空っぽのはずが、何かに当たった感触がする。
 ユキは手探りで確かめてたとき、はっとした。
「痛っ」
 咄嗟に手を出すと、指先から赤いものが盛り上がってゆっくりと垂れていく。血だ。
 その匂いに反応したトイラとキースが振り返る。
「ユキ、ドウシタ」
 キースが聞いた。
 ユキが机の中を覗き込むと、刃が一杯に出されたカッターナイフが目に入る。
 顔は青ざめ、使い方を間違えれば凶器にもなりえるものだけに、自分の机の中にそれが刃をむき出しに入っていたことは、背筋が凍るくらい恐怖を感じた。
 顔を青ざめ、ユキの気が動転して言葉を失った。
 突然息苦しくなり、 パニック障害に陥りかけた。
「ユキ、ドウシタンダ」
 トイラも目を釣りあがらせて落ち着きをなくしている。キースにも緊張が走っている。
 ここで荒げてはいけない。二人に言ってしまえば、また事が大きくなる。
 嘘をつくしかない。
「ううん、なんでもない、ペーパーカットよ」
 声は震えるが、ユキは必死に笑おうと無理をする。
 ふたりはまだ疑った目を向けても、それ以上何もいうつもりはないユキは黙り込んだ。
 机の中で、慎重にカッターナイフの位置を確認し、刃を引っ込め、何事もなかったように振舞った。
 虐めが和らいで、いい方向に流れていたと思っていたユキには、この出来事はまだ何も変わっていないと警告されてるようだった。
 ユキは教室の中を見渡した。
 一体誰がやったのだろう。
 現実として受け入れられず、ユキはなかったことのように試みた。
 しかし、それは机の中のカッターナイフだけでは収まらなかった。
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