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明らかに何かがおかしい。
いつまでもトイラとキースは気がかりにユキの様子を窺う。
ジークの罠かもしれない。
しかし、ユキが冷静を装う以上、確かめる事ができず二人はもやもやしていた。
ユキも内心穏やかではいられるはずがなかった。
カッターで切った指先の傷は幸い浅く、血もすぐに止まり、そこに触れない限りユキは痛みを感じなくても、その衝撃はいつまでも体にのこったままだ。
まだ心のどこかで否定して、自分を保とうとしている。
こんなのどうってことない。
心の動揺を抱えたまま、一時間目の授業は始まった。
無難に授業が進めば、黒板に書かれた事をノートに書き込んでいく作業が始まる。ただ見たものをそのままノートに書き込むことで、何も考えずにすんだ。
一時間目が終わると、みな慌しくなる。2時間目は体育の授業で着替えをしなければならないからだ。
ユキも体操服を持って更衣室に向かう。トイラは追いかけられないために、不安な面持ちだった。
ユキもひとりでいるのが心細くなり、前を歩いていた山口ヨウコと佐藤カナに声を掛けた。
ふたりは普段大人しくて目立たないが、キースと仲良くするために、最近ユキに近づいてきた者たちだった。
「おはよう」
ユキが声を掛ければ、ふたりは振り向く。だが返事はなく、そのかわり睨みを返された。
先日までは、キースの話題を持ち出して一緒に遊びたいまで言っていたのに、何かがおかしかった。
ユキはふたりから離れ、声を掛けた事を後悔した。
気分がすぐれず、隅っこで一人で着替えをしていると、五十嵐ミカがユキに近づいて声を掛けてきた。
「春日さん、どうしたの。なんかあったの。ちょっと変よ」
「えっ、そうかな」
笑ってごまかすユキ。正直に言えるわけがなかった。
「それならいいんだけど。調子が悪かったら見学してもいいんだよ。体育の授業ってほんと面倒くさいよね。私休んじゃおうかな。春日さんも一緒に休まない?」
「私はちょっと体を動かしたい気分かも」
「そう、それじゃ私もがんばろう」
ミカも気を取り直して着替えを始めた。他の人とおしゃべりしてたので、先に着替えを終えたユキは更衣室を出ようとする。
途中でヨウコとカナがユキの顔を見てこそこそ話をしているのが目に入り、いい気分ではなかった。
キースの事を話しているときにでも、何か気に障る言動をしたのかもしれない。いつも何気ないやりとりでユキは知らずと反感を買ってしまう。気にしないようにして、体育館へと向かった。
体育はバスケットボールだった。
試合をしても自分にはあまりボールが回ってこない。
たまにボールを手にすれば、ここぞとばかりに人が体当たりしてくるように思った。
ドンとぶつかっても、それは試合上のやむを負えない事故で処理される。
ユキにはわざとぶつかられているのではと疑ってしまった。
隣のコートでは、トイラとキースが嘘のように活躍している。
次々にゴールを決めるトイラとキースのプレイに男子生徒の歓声が沸いていた。
キースはユキの姿を見ると、手を振って合図した。
トイラはちらりと見るだけだったが、キースがトイラの手をとって、無理やり振らせた。
ふたりはもめ出したが、ふざけている姿を見るのが楽しく、ユキは笑っていた。
そのやり取りを誰かが不満に見ていたなど、ユキは知る由もなかった。
体育の授業が終わって、更衣室に戻ったときだった。
ユキのシャツに切込みが入っていた。後ろ側を縦にまっすぐ切られている。
呆然とする中、人に見られたくなくて、慌ててそのシャツを着てはジャケットを羽織った。
少し背中がスースーする。
それは心にまで吹きすさんで寒いくらいだ。
朝のカッターナイフといい、このシャツの背中の切り込みは、同一犯人に違いない。そしてあの手紙も。
以前よりやり方が具体化しエスカレートしている。
気に入らないと思う誰かが、いい気になるなとユキに知らしめている。ユキは誰にも言えず、一人で抱え込んでいた。
「春日さん、今日やっぱり変よ。大丈夫?」
五十嵐ミカはユキを気遣ってくれる。一人でも友達になってくれるのなら、ユキは有難いと思っていた。
「ありがとう、五十嵐さん。大丈夫よ」
にっこりと笑顔で返した。
その向こうで、ヨウコとカナが憎しみをぶつけるようにユキを睨んでいた。
昼休み、ユキはいつもトイラとキースと食べる。
といっても席はそのままで、自分の机から移動しないだけだった。
今朝は身支度に時間がかかり、ユキはきっちりとしたお弁当が作れなかった。
簡単にハムやチーズをはさんだサンドイッチ。
同じものをトイラとキースも食べていた。
「うわぁ、春日さん、もしかしてふたりのお弁当作ってるの」
傍に寄ってきたミカが訊いた。
「大したものじゃないから、適当だけどね」
サンドイッチだから、褒められたものではないとユキは苦笑いする。
「春日さんっていいな、二人の留学生と一緒に住んで、そして隣のクラスの新田君とも仲いいんでしょ。今朝一緒に歩いてたし。だけど春日さんは誰が一番好きなの?」
ミカの思いがけない質問に、ユキは面と食らってびっくりした。
「えっ、誰って、そんな……」
答えにつまってしまう。
さりげなさを装いながら、トイラの耳がぴくぴく動く。
「モチロン、ボクダヨネ、ユキ」
キースがニコニコして答えた。
トイラの鋭い眼光がキースを捉えていた。
「春日さんはキースが一番好きだったんだ。そっかよかった。私はトイラが好みだから」
本人を目の前にして、はっきりと自分の気持ちを示すミカの言葉に、ユキは驚きを隠せない。
大人しいと思っていたのに、ミカはユキの抱いていたイメージとは全く異なっていた。
そのときばかりはぎらぎらとした欲望に満ちた、鋭いミカの目つきに少し怯んでしまう。
突然現れた心を乱す障害物。積極的なミカの行動が脅威的だった。
ユキにとっては幸い、トイラはミカの言葉など気にもとめていなかった。
サンドイッチを平らげた後、机に突っ伏していた。
それを横目にユキはミカに質問する。
「だけど、どうして愛想のないトイラなんか好みなの」
何でもないと装いながら、内心ドキドキしていた。
トイラを下げるような言い方も、自分で言っておいて気に入らない。
トイラの心の優しさはユキだけが知っている……とこの時までそう思っていた。
「ものを落としたとき、拾ってくれたし、高いところのものが取れなかったときも、とってくれたりしたのよ。トイラって本当は優しいんだから。一緒に住んでるのに知らなかったの春日さん?」
ユキは言葉に詰まった。
例えミカが笑っていても、ミカの言葉にカチンときてしまった。
そんな事私が一番良く知っている。自分が知っている事を知らないと決め付けられるのは腹が立つし、それに皮肉っぽくいう言い方も気に入らない。
でもユキは強く言い返せない。
いつも自分の側に居ると思っていたトイラ。
自分の知らないところで他の人と接点があったと知ると、気持ち悪いくらいもやもやする。
ユキはトイラを一瞥する。
自分勝手で我が侭だが、根は素直でいつも一生懸命。
飾らない素の姿でいつも本気でトイラと面と向かえる。
誰もユキのようにトイラと付き合える人などいない。
ユキ自身が一番トイラに近い存在だと、自分で思い込んでいた。
それに気がついたとき、他の誰かが割り込んでこの関係を壊されるかもしれない状況が我慢できない。
その時、ユキは息を呑んだ。
――私、トイラが好き?
トイラがユキの視線に気が付いて、睨んできた。
それでもユキはトイラから視線を逸らさなかった。
その目はトイラの心の奥深い、優しい姿を見抜いていた。
トイラの方が慌ててプイッと首を横に振った。
「春日さんはトイラとキースを独り占めしすぎだわ。皆、もっと二人と仲良くなりたいのに、英語が話せる春日さんが側にいつもいるから、仲良くなりにくいと思ってるわ。時にはもっとクラスの皆に気を遣ったら」
ユキはハッとする。
ミカからこんな風に責められるなんて思いもよらなかった。心も穏やかではいられない。
無意識に独り占めしていたんだと、自分でも素直に認めてしまった。
手紙も、カッターナイフも、服を切り裂かれたことも、全てが繋がった。
クラスの誰か、または複数の人たちが、トイラとキースと一緒にいつも居ることをいいように思っていない証だ。
これが嫌われる原因なんだとユキはショックで暫く何も考えられなかった。
側でキースも困った顔をし、トイラは面白くなさそうに、軽く舌打ちしていた。