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「ユキちゃん、この破れ方は、はさみで切られたものね。誰かに意地悪されたの?」
仁の母親に訊かれるや否や、ユキの目に涙が溜まっていく。
「やっぱり学校で何かあったね。よかったらおばさんに話してみて」
優しく言われると、我慢していたものが内側から溢れてきてしまう。
ユキはシャツだけじゃなく、手紙やカッターナイフのことも話してしまった。
親身になって、温かく包み込んでくれる仁の母親。その行為にユキは甘えてしまう。
「おばさん、ごめんなさい。初めて会ったばかりなのに、私つい……」
「いいのよ。ユキちゃん、時には弱いところがあったって恥ずかしいことじゃないわ」
抱きしめようと手を広げてくる。
ユキは羽根布団にくるまれた感覚で、その母親の腕の中にいた。
香水の匂いがする。
ほんわかとやわらかな甘いピンク色を思わせる香り。まるで魔法をかけられているみたいに心地いい。
仁がドアの隙間から気になって覗いている。
気づいた母親は手であっち行けと知らせていた。
その頃、トイラはユキが心配で落ち着かず、時折足をゆすらせては居たくもない場所で苛立っていた。
猫と犬にユキを見かけたら守るように命令をしたものの、充分ではないことをわかっていた。
すぐにでもこのカラオケの部屋から飛び出したくてたまらない。
天井には演出のためにミラーボールまで設置してあり、その光で気が散る。
思わず黒豹に変身して、飛び掛りたい衝動に襲われた。
ひたすら我慢しているだけで力がどんどん消耗していく。
しかし、ミカの言葉で、ユキに負担をかけることを知った今、ある程度の犠牲は払わなければと、息荒く必死で耐えていた。
カラオケについてきたのも、二人には仕方なくのことだった。
これからもいろいろとユキに負担をかけない対策を考えなくてはならない。
トイラもキースも上手くことが運ばないもどかしさに、頭が痛くなる思いだった。
ミカがべったりと側にまとわりつき、トイラは鬱陶しくてたまらない。
そしてこの女が、ユキの机の中に忠告の紙を入れたことも知っていた。
匂いで判別できたのだ。
ユキに敵意を持っている。
だからこそトイラは偵察でミカと向き合う。
ミカの落し物を拾ったのも、手伝ったのも、この女の行動を監視してたからだった。
「ねぇ、トイラ、何か歌ってよ。キースは楽しんでいるわよ」
ミカがマイクを渡そうとする。
「オレ、ウタエナイ。 キク ダケ。オマエ ウタエ」
「私? じゃあ、トイラのために歌うね」
勝手にしろとでもいいたげに、トイラは癇癪起こす寸前まできていた。
目の前で手を叩いてへらへらしているキースにも、無性に腹を立てていた。
(こんなことして楽しんでる場合じゃねぇだろうが)
トイラはキースを力いっぱい睨んでいた。
夕暮れ時、ユキは仁の自転車の後ろにおぼつかなく乗っていた。
車通りからはずれ、田んぼや畑が広がる中、仁は力強くペダルを漕いでいる。
「ユキちゃん、もっとしっかり捕まって。それじゃ落ちちゃうよ」
仁は『春日さん』から『ユキちゃん』と呼び方を変えていた。
「だけど、ふたり乗りしていいの?」
ユキは気が気でない
「車も来ないし、人もあまり居ないから大丈夫だよ。だからしっかり捕まって」
ユキは言われるまま仁の腰辺りを強く抱きしめた。
仁はドキッとして、更にペダルを漕ぐ足に力が入った。
「今日は来てくれてありがとう。母は息子より娘が欲しかったんだ。いつも文句言うんだぜ。かわいい服が作れなくてつまんないって。だからユキちゃんの服作れるのすごく嬉しそうだった」
「新田君のお母さん、本当に素敵だね。私とっても好きになっちゃった。招いてくれてありがとう」
ユキの言葉が嬉しく仁は気が大きくなっていく。もっとユキと仲良くなりたい。
「ねぇ、僕のことも『仁』って呼んでくれない? アメリカではファーストネームで呼び捨てだろ。僕も話聞いてたらアメリカの習慣とか憧れちゃったよ」
「じゃあ新田君も…… あっ、仁も私のことユキって呼び捨てにしてくれていいよ。その方が耳に慣れてるし」
「あっ、わ、わかったよ。ユ……キ……ヘヘヘ」
嬉しさと恥ずかしさと戸惑いで仁はどもってしまう。
照れくさくて笑ってごまかしていた。でも呼び捨てにできるのが嬉しくてたまらない。
「あのさ、もし、もしもだよ。ユ、ユキ……が学校で困ってることがあったら、僕に言ってね。絶対、ユキの力になるから」
「ありがとう」
仁には虐めの事がばれている。でも、却ってユキの気が楽になった。
辺りは暗くなりかけていた。
長くふたり乗りしていると、仁は少々疲れてきている。
それでも張り切り、いいところをみせたいと頑張っていた。
ユキの家の近くに来ると、辺りはすっかり日が落ちていた。傍を通った神社が不気味に見える。
暗いのでユキの家の前まで仁はしっかりと送り届けた。
十分の明かりがなく、家の電気もまだついてない。トイラとキースはまだ帰ってない様子にみえた。
「仁、ありがとう。お母さんにも宜しくね」
「わかった」
仁が帰ろうと自転車に跨る。
「あのさ、前回言いそびれたけど、僕、ユキのこと好きだから。それじゃまた」
ユキの返事も聞かずに、仁は急いで坂道を自転車で駆け下りていった。
照れくささのあまり、告白して逃げてしまったが、気持ちを伝えられたことが嬉しくてにやけていた。
ユキは突然の仁の告白に呆然としてしまう。見送りながら暫く突っ立っていた。
ちょうどその時、庭の茂みに隠れて、キースはトイラを羽交い絞めにしていた。
「馬鹿、今出るな。やばいだろ、その姿は」
トイラは完全に黒豹になっていた。
「くそ、あの仁って奴。ユキと何してやがった。離せ、キース」
「何考えてるんだ、お前は。そんな姿で飛び出したら、えらいことになるだろうが。それとも仁を追いかけてかみ殺すつもりか」
トイラは『グルルルル』と唸っていたが、必死で人間の姿に戻った。キースはまだ抑え続けている。
ユキが玄関の鍵を開けていると、人の気配を感じ、後ろを振り返る。
そこにはキースをおんぶしているトイラの姿があった。
「あんた達、そこで何してるの?」
ユキに気づかれ、キースはトイラから離れた。
「だって、鍵がなかったから、家に入れなかったんだ」
キースが苦笑いしながら言った。
そういえば、二人に鍵を持たせてなかったことを、ユキはその時気がついた。
「あっ、ごめん。じゃあ、いつからそこに居たの」
仁に告白されたところをトイラに見られてたのだろうか。
「三十分も待たされた。どうしてすぐに家に帰らなかったんだ。あいつとどこに言ってたんだ。しかもあいつ、最後に好きとか告白してなかったか?」
不機嫌なトイラはイラつきを隠せない。ユキも見られていて気が気でない。
「鍵を渡さなかったのは悪かったけど、隠れて見てることないでしょ。それにトイラだって、五十嵐さんと腕組んでカラオケ行ってたじゃない」
「仕方ないだろ、付き合いなんだから。それよりもあいつと何してた?」
しつこく聞くトイラ。
「デートに決まってるでしょ」
やけくそでユキは言い切ってしまった。
「ああそうですか、俺もカラオケ楽しかったよ。ミカとベタベタしてたし」
トイラも聞かれてもないのに嘘をついてしまった。
「家にすぐに入れなかったくらいで、何をそんなに怒るのよ」
ユキはイライラを隠せない。
「そっちだって怒ってるじゃないか」
トイラも報酬してしまう。
お互いなぜいがみ合うのかよくわからないまま、顔を見合わせる。
その後、『ふん!』と首をわざとらしく横に振った。
売り言葉に買い言葉。
ふたりは無意識に抱いた嫉妬で我を忘れて言い合いしてしまう。
「ねぇ、早く家に入ろうよ。お腹空いた」
側でキースがおろおろしていた。
その晩の夕食は食卓にカップラーメンとその上にちょこんと箸が乗っていた。
ユキは準備が終わると、自分の部屋に、どたどたと音を立てて階段を駆け上っていった。
「トイラ、お前のせいだからな。なんで夕食がカップラーメンなんだ。でもさ、あんなにムキになることもないだろう。お前、言ってることと行動してること全然違うよ。もうブレブレじゃないか」
カップラーメンをずるずると音を立ててキースは食べていた。
「うるさい、ついああなっちまったんだよ。ユキだって突っかかってくるしさ。俺も自分で何やってるかわかんないんだ。キース、俺のカップラーメン食え。俺、食欲ない」
トイラは泣きたくなるような情けない声を発しながら、キースの前にラーメンをつつつと押して差し出した。
「お前も重症だな。でも、分からないこともないけどな」
キースはトイラを哀れに思ったが、目の前のカップラーメンを見て自分も哀れだと思った。
トイラはうなだれ、そのまま融けるようにテーブルに突っ伏していた。
キースのラーメンをすする音が虚しくズルズル耳に届いていた。