Brilliant Emerald

第四章

6 

 翌日、トイラとキースがキッチンに下りて来れば、いつも朝食の支度をしているユキがいない。
 代わりに、テーブルの上に、トイラの大好きな焼き魚とキースの大好きなベーコンが、ご飯と味噌汁と一緒に添えられていた。
 弁当も二つ布にくるまれて、家の鍵も並んで一緒に置いてあった。
 トイラとキースはお互い顔を見合わせて渋い顔つきになっていた。
「ユキ、まだ怒ってるのかな」
 ベーコンをつまみキースが言った。
「怒ってねぇーよ。怒ってたら、朝食なんて作んないよ。しかも俺達の好物なんか置いてさ」
 トイラは焼き魚をじっと見つめていた。
「だよな。だったら早く食べて、学校行こう。この間になんかあったら大変だ」
「ああ」
 ユキが朝食を準備している姿を想像しながら、トイラは魚をぱくついた。
 ユキの優しさが身に沁みる。
 自分の中途半端な態度がユキを混乱させ、些細なことですれ違い続ける。
 トイラは自分の置かれている立場を一層強く考えてしまう。
 ユキを好きな気持ちを封印せねばならない。嫌われた方がよっぽど楽だ。
 トイラは思いを断ち切る覚悟を決めて、目を閉じて魚の骨を力強く噛み砕いていた。
 トイラは自分の背負ってるものが重過ぎて、逃げてしまう事を選んでしまった。

 前夜、わけも分からずイライラしてトイラに八つ当たってしまったことをユキは後悔していた。
 静かな朝の冷たい空気。昇りたての太陽の光が黄金色にまぶしい。
 自分で処理できないくすぶったもやもやに突然身震いし、思わず小石を蹴り上げる。
 ぎゅっと鞄を胸に抱いたり、空を見上げたり、いきなり走り出したり、いやな気分から抜け出そうとしていた。
 トイラが好きなのに素直になれない自分に苛立ちを感じつつ、朝、顔を見るのが辛くて逃げてきてしまった。
 『ごめんね』と素直に謝れない気持ちを込めて朝食を置いてきた。
 ミカが現れたことで、体が焦げそうなくらい醜い嫉妬に胸が苦しい。
 結局は独り占めしてていい気になってたと気がつき、自業自得だと思ってならなかった。
 今まで人とは違っても、はっきりと物を言う自分は正しいと思い込んでた。
 嫉妬する側の人間になれば、いやな感情に支配されて人を闇雲に憎んでしまう。
 自分もまた嫌な奴だった――。嫌われて当たり前だ。
 ユキはとことん落ち込んでいった。

 まだ生徒が誰も来ていない早朝の学校。
 今日もまた何か起こるのだろうかと、軽く汗を掻いた額をぬぐい、不安で校舎を見上げる。
 下駄箱でユキが上履きに履き替えようと片足を入れたその時、痛みを感じた。
 脱いで確認すると、画びょうが 入っていた。
「まただわ。一体誰がこんなわざとらしい嫌がらせをするんだろう」
 しかし怒る気にもなれなかった。
 落ち込んで落ち込んでとことん落ち込み、画びょうを踏んだ一瞬の痛みよりも、前夜から続く胸の痛みの方がもっときつい。
 やるせない思いにため息をついていると、静かな校舎の中で、その時、聞きなれた声が突然聞こえた。
「あら、春日さんじゃない。何こんなに早く来てるの?」
 マリだった。
「矢鍋さんこそどうしてこんなに早いの?」
「クラブの朝練よ。試合が近いからね、少しでも練習しなくっちゃ。それであなたは?」
 マリはバレーボール部に所属していた。
「私はちょっと、あの二人から離れたくて。いつもずっと一緒でしょ。なんかいい様に思わない人も居るしね」
 ユキはちらっとマリの反応を見ていた。
「ふーん。また誰かに嫌われてるんだ」
「そうだね、私ってほんと嫌な女なんだろうね」
 ユキは自虐した。

「あんたさ、自分はいつも人と違うって思ってない? それでいて自分は正しいとか思ってるでしょ」
 マリは呆れて言った。
「えっ?」 
 それは的を外さない弓矢のように、ドンぴしゃりとユキの心臓に突き刺ささる言葉だった。
「私が春日さんのこと嫌いなのはそういうところ。アメリカかカナダかしんないけど、ちょっとそんなところで育ったからって、何が私達と違うの? 英語は話 せるかもしれないけど、それが自慢すること? それなら私だってあなたよりバレーボール上手いわよ。他の人だって、あなたより優れた能力一杯持ってるわ。 すぐに海外ではどうとかよく言ってたけど、日本だってあなたが知らないだけで、いろいろあるわ。ちょっと向こうの世界知ってるからって、そっちの方がどう して良いことだって決め付けるの? 自分の見たものしか価値観がないのね。遠くに目を向けることができても、今の目の前の状況に目を向けることができない 人だわ。もっと自分から溶け込めばいいのに。お高く止まって努力をしようとしないだけ」
 マリの全てが的を射ていた。
「矢鍋さん……」
「ふん、あなたに構ってる時間なんてないの。じゃあね」
 マリは体育館に足を運んでいった。
 ユキの厚い殻にヒビが入っていく。
 誰もこんな風に言ってくれる人なんて居なかった。
 ユキの事をしっかりみているからこそ、言えた言葉だった。
 ユキ自身、はっきりと物を言うと思っていたが、それは自分の意見を述べるだけで、人のことなんて考えたことがなかった。
 本当に自分の意見が言える事ってこういうことだ。
 マリの発言は、決して嫌味でもなく、悪口でもなく、ユキが気がつかなかった大切なことを忠告してくれた。
 それこそユキのために言ってくれた言葉に聞こえた。
「矢鍋さん、待って」
 ユキが叫んで引き止めるとマリは振り返った。
「ありがとう。今まで嫌な思いさせてごめんね。それから、練習頑張ってね」
 ユキは思いっきり笑顔だった。
 自分からマリに飛び込んだのだ。
 そしてマリはそれを素直に受け入れる。
「何言ってんの、今更。また後でね」
 マリは笑っていた。すっきりとして気持ちのいい笑顔だった。
 ユキは一歩前に進んだ気分だった。
 急に心が晴れやかになって、気持ちが落ち着く。
 トイラにも同じ気持ちをぶつけたくなった。自分の素直な気持ち。
 ユキはトイラに早く会いたくて急にそわそわしだした。
 この時、ユキはまだ知らない。トイラは間逆の判断をし、ユキが心を開いても、もうどうにもならなくなっていることを。
 トイラもまた分かってない。記憶を失ってもユキがトイラを好きになってることを。
 過去に起こった事のせいで、ふたりは過酷な運命へと流されているようだった。
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