3
遠くで仁とユキが手を繋いでいる。
自分が選んだ道とはいえ、皮肉にも仁がユキをさらっていき、事の運びが上手く行き過ぎて苦虫を噛んだような顔をしている。
エメラルド色の瞳は絶望と虚しさ、そして怒りが渦を巻いてどんよりしている。
どうして自分は普通の人間じゃないのだろうと自分の手をじっと見ては、猫が隠していた爪のごとく、突然鋭くシャキーンと爪を尖らせた。
そしてまたすっと引っ込めるように人の手に戻した。
人間だったら良かったのに──。
そう思ったのはこれが初めてではなかった。
過去にユキと出会ったことをトイラは思い出す。
あの時出会ってよかったのだろうか、でも出会わなかったら──。
遠い目になりながら、トイラは昔のことを想起せずにはいられなかった。
ユキと過ごした楽しかった思い出。
今はそれを思い出すことで自分を慰めることしかできなかった。
無駄なことと思いつつ、ユキへの思いがどんどん募る自分に嘘はつけなかった。
このとき暫く、その思いを抱いて辛い現実から逃げたくなった。
トイラは過去を振り返る。
それは子供のときのお気に入りの絵本を引っ張り出しては、懐かしんでぱらぱらページをめくる、そんな気持ちだった。
秋の終わりから冬になろうとしていた深い森の世界。
紅葉の落ち葉の絨毯。木枯らしが吹き、日が落ちれば息が白くなる寒さ。
動物たちも活動を萎縮し、冬眠したりと、静かで物悲しい雰囲気が漂う。
誰も居ないひっそりと静まり返る不穏な薄闇で、小さな影がピョンピョンと跳ねるように動いている。
黒豹の姿のトイラは物陰からその影の正体を探ろうと、しなやかな物腰で少しずつ近づいていた。
暫くその影を見ていたが、突然視界から消えた。
鼻をヒクヒクすれば、確かに何かがいる。
それを突き止めようと鼻に頼って歩いたその先に、少女が落ち葉の上でうずくまって寝ているではないか。
それがユキだった。
トイラは首を傾げ、周りをのそのそと回ってあらゆる角度からユキを観察する。
人の子がこの森に何しにきたのか不思議に思ったとき、森が蠢きトイラに語りかける。
『お前の必要なもの』
森がこの子をここへ導いてきた?
自分に必要なもの?
トイラはじっとその小さな子を静かに見つめていた。
「このままでは寒さで死んでしまう」
そう思うと、トイラはユキの体をくるむように隣に横たわった。
一晩ずっと側に付き添い、ユキの体を温めてやった。
トイラもまたユキの温かさが心地よかった。喉が自然にごろごろ鳴り出した。
朝の日差しが木々の間からすっと差し込んで、ユキは目覚めた。
目の前には黒いしなやかな毛。シルクのように光沢めいている。そっと小さな手でそれを撫ぜた。
トイラが顔を上げ、ユキを見つめる。
無表情で、恐ろしさを秘めた黒豹の顔。
しかしユキはずっと探していたものを見つけたように喜んでぎゅっとトイラの首筋を強く抱きしめた。
トイラの方が面食らって『うっ』とうめき声をあげた。
それでもユキのされるがままに耐えていた。
「なんて温かいの。ここが私の居場所? そしてあなたが私の新しい友達?」
ユキは不思議なことを言った。トイラは緑の目でユキを深く見つめる。
ユキは怖じけるどころかトイラを気にいっている。
「私はユキ、あなたの名前は?」
「トイラ」
「うわぁ、喋れる! しかも日本語が分かるの? すごい。それにかわいい名前。まるでおもちゃ(TOY)が一杯詰まってそうね。そしてその目、なんてきれいな緑なの。エメラルドの宝石みたい」
ユキはあどけなくコロコロと笑って一人で喋っていた。
トイラの毛並みを時々優しく撫ぜる。
それが心地よくトイラは目を細め、喉をゴロゴロ鳴らしていた。
「優しいのね。一晩中、傍にいてくれてありがとう」
ユキが抱きつく。トイラも頭をすり寄せた。
自分の物というように匂いをこすりつけているようにもみえた。
「森の外まで送ろう。きっと誰かが心配している」
そう言ってトイラは人の姿になった。
ユキは目を白黒させる。
「トイラって人間にもなれるんだ。私、幻を見ているのかな。でも幻でもいい。ねぇ、トイラ、これからもずっと傍にいてくれる? 私、友達いないんだ。トイラが友達になってくれたら嬉しい」
ユキは背伸びして、トイラの顔にそっと触れた。
人間と交わることはトイラの世界では禁忌とされる。
しかしトイラはその枠に定められる事を嫌い、自由奔放だ。
普段は森を守るためだけに、備えられた駒の役割に過ぎない存在。
モノトーンだったトイラの心がユキというカラーで彩られたそのとき、トイラの好奇心は抑えられなかった。
――ユキの傍にいたい。
それが二人の全ての始まりだった。
果たしてそれが偶然の出会いだったのか。
運命だったのか。
森は全てを受け入れてトイラとユキを見守った。
トイラとユキが出会ってから、二人は時間を見つけては、時を一緒に過ごすようになった。
一緒にいる時間は同じなのに、二人が持つ時計の針の速さは違っていた。
それに気がついた時、トイラは決断を迫られた。