Brilliant Emerald

第五章

6 

 息を切らして、トイラのお気に入りの木に向かってユキが森の中を駆けている。
 一刻も早くトイラに会わなければならない。
 冷たい空気に晒された白い息が激しい。
 いつものように木の下でトイラは腰を掛けくつろいでいた。血相を変えて走ってくるユキが視界に入り、ゆっくりと立ち上がった。
「どうした、ユキ、そんなに慌てて」
 ユキは感情が先走ってトイラにしがみついた。
「私、もうすぐ日本に帰ることになったの。もうここには来れない」
 その突然の知らせはトイラの頭の中を真っ白にした。
 ユキがこんなにも早く自分の前から姿を消す。
 トイラには到底落ち着いて考えられる状態じゃなかった。

「トイラ、私どうしよう。あなたから離れるなんて辛すぎる。私、絶対嫌だわ」
 この時、トイラの頭にはもう森の守り主の太陽の玉のことしかなかった。
 あれがあればユキはいつまでも自分の傍にいられる。
 それしか方法が考えられなかっ た。
「ユキ、もしお前が望むなら、俺と一緒にずっとこの森で暮らさないか。ユキの住んでいる世界を捨てることができるか?」
 ユキは躊躇わなかった。
 自分の居場所はこの森の中、そしてトイラの傍。
 それしか考えていなかった。
「うん。私トイラと一緒にずっといたい。同じ時を過ごしたい」
 その答えを聞くや否や、トイラはユキの手を引いてジークを探し出した。

 ジークを呼ぶトイラの声が森中に響き渡る。
「何をそんなに慌ててジークを探しているんだ」
 キースがトイラの異常な行動を心配して出てきた。
「俺、決めたよ。森の守り主になるよ。そしてユキをこの森の住人にする」
 その声は興奮しきっていた。
 一刻も早く森の守り主にならないといけないかというように。

「ジークの言葉を全て信じるつもりか。僕はどこかまだ信じられない」
 キースはどうしても否定的になってしまう。
 トイラをなんとか説得しようとしていた。
「キース、今の俺にはこれしかない。ユキも同意している」
 キースはユキの顔を見た。
「ユキ、君も本当に望んでいることなのか」
 ユキの目も真剣だった。
 キースに力強く『うん』と首を縦に振った。
「それなら、僕も一緒に行く。この目で本当か確かめてやる。もし違ったら、容赦なく阻止するからな」
 キースは事の全てを全部見てやろうと、敢然たる態度でトイラに忠告した。


 ジークはコウモリの姿で木の枝に逆さまにぶら下がり寝ていた。
 トイラに突然起こされ、大きく欠伸をする。
「ジーク、頼む。俺を森の守り主の所に連れて行ってくれ」
「ということは、決断されたんですね。わかりました。ご案内します」
 人の姿になり、伸びをしながら、首をポキポキならして、ジークは準備を整える。
「さあ、行きましょう」と先頭に立ち森の中を進んでいった。
 トイラはユキの手を握り、その後をついて行く。
 キースも油断はならないと、辺りを慎重に見渡しながら歩いていた。

 冬の森、奥へ入れば入るほど、閑寂さが増す。
 空は太陽の光を通さぬほどの厚い雲で覆われ、昼間なのに不気味なほど暗い。
 空気は冷たく氷のように肌を刺す。
 どれくらいの時間を歩いていたのだろう。
 森の中では、時間の流れを感じさせないほど、歪な時空にのまれているようだった。
 ユキ以外、息が乱れることなく、平然と早足で歩いている中で、ユキは頬をりんごのように赤くさせ、必死についてく。
 ユキだけ他の誰よりも吐く息が白かった。
 坂道になると、ユキはみんなの歩調に合わせられなくなった。

「どうして皆、そんなに早く歩いても、息が乱れないの」
「ユキ、大丈夫かい。ほら俺がおんぶしてやるよ」
 トイラは背中を差し出した。
「いいよ、自分で歩けるから」
 恥ずかしそうにユキが答える。
 ユキとトイラがいちゃいちゃしているのをみてキースが呆れていた。
「お前達、いちゃいちゃしてる場合か。これから何が起こるかわからないってときに」
「キース、いいだろ。ユキは俺達と違って体力の差がありすぎるんだから」
 その時ジークが叫んだ。
「あっ、見えてきましたよ」
 ジークが指差した方向を皆がみた。

 象くらいあるような、大きな岩が二つ山の斜面に重なるようにどしっと置かれていた。
 岩にはところどころコケが生えている。
 けっして表面はスムーズでなく、刃物でも作れるようなシャープな断面だった。
 辺りは葉の落ちた木々が高く聳え立ち、風に吹かれて上の部分が小刻みに揺れている。
 殺風景でどこまでも冷たく、あたり一面異質で見るものに不安を抱かせた。
「こんなところに本当に森の守り主がいるのか?」
 キースが疑ってかかっていた。
 ジークは無表情でキースを無視する。
「ここです。この穴に入るんです」
 岩が重なって交わった下の部分になんとかしゃがんで一人入れるくらいの隙間があった。
 ジークがそこを指差している。
 キースは鼻を動かして匂いを嗅ぐ。得体の知れない気持ち悪さで顔が強張り、どこか怯える目をトイラに向けた。
「ほんとにここなんだろうな」
 トイラが確認した。
「はい、そうです。ここに入れば、全てがわかります。行きましょう」
 先頭にジークが立ち、岩の隙間の中に入っていく。
 その後をトイラとユキが続き、キースは躊躇いながら中に入っていった。キースはここが本物である事に気がついていた。
 中は暗く、外の明るさに慣れてたユキには前が何も見えない。
 しっかりと片手はトイラの手を繋ぎ、もう片手で岩の壁を伝って歩いていた。
 腰を曲げて歩かないといけない低さから、突然大きな空間へと抜け出た。
 湿度があるのか、じめっとして外の寒さと比べて温かい、いや生ぬるい気持ち悪さに近かった。
 空間が陽炎のように歪み、ねっとりとまとわりつく粘っこい空気が渦巻いている。
 飴を触った後のべちゃべちゃするような不快感を感じた。
 とても暗く、ユキにはとてつもない暗闇の空間で、宇宙に投げ出された気分になった。
 他の三人には周りが見えるのか、足取りがしっかりとして歩いている。

「えっと、次どっちだっけ。あっ、わかんなくなっちゃった。ちょっとここで待ってて貰えますか。確認してきます」
 ジークは道に迷って慌てていた。
「おい、ジーク、頼むよ」
 トイラがしっかりしてくれよというように嘆いた。
 三人はその場に暫く置き去りにされた。
 キースはどこか震えていた。

「どうした、キース、お前らしくもないぜ」
「ここはすごい『気』を感じるんだ。とてつもなく大きな力。匂いがここだけ異質で辛辣なんだ。やばいよ、トイラ。これは僕達には手に負えない。逃げた方がいい」
「何を言ってるんだ、今更。だからこそ俺達は来たんじゃないか。そういう力があってこそ、森の守り主に相応しい場所なんだよ」

 ユキはその時、空間で浮き上がる緑の光を一瞬みたような気がした。
 前も後ろも、右も左もわからない暗闇の中、ユキの体は独りでに光に向かって歩き出した。
 足が何かで躓いてあっと思ったとき、突然抱えられて体がふわりと浮いた。
「キャー」
「どうしたユキ!」
 トイラが叫んだ。
 その時、暗闇だった空間に、赤黒い光がぼわーっと広がった。
 目の前に大きな白い大蛇が現れ、緑の目を光らせてトイラとキースを睨んでいた。
 ユキは大蛇の尻尾に絡められ、宙に浮いていた。

 トイラが大蛇の森の守り主に出会ったときを回想していたその時、肩に何か触れた。はっとして過去の幻影から、現実に突然引き戻された。
 それはキースの手だった。
「どうした、トイラ何を考えてるんだ。体が強張ってるぞ。大丈夫か」
「ああ、ちょっと昔のことを思い出していたんだ。ちょうど大蛇の森の守り主に出会ったときのことを」
「あのときのことか、それもまた嫌な思い出だな。トイラはずっと辛い思いをあれからし続けっぱなしだ」
「辛い思いか。それならユキの方が俺よりもずっと辛い立場だ。俺は絶対ユキを守る。自分の命に代えてもな。あんな思いもう二度としたくねぇ」
「ああ、そうだな」
 トイラとキースはその後、何も言わず遠くに歩いているユキと仁を見つめながら静かに歩いていた。
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