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「ジーク、許せねぇ」
トイラは殺気だち、唸りを上げる。
尖った牙をむき出しにし、興奮でねばっとした唾液が白く糸を引いている。
猛獣のごとくジークに爪を突き出し襲い掛かった。振り上げた鋭いカマのようにジークの体に食い込み引き裂いていく。
ジークは痛さに悲鳴を上げた。
服はずたずたに、その間から血にまみれた皮膚が見えている。
「くそ、トイラ、よくもやったな」
ジークも怒りに任せ、もてる限りの力を振り絞り、掌をトイラに向け熱い光線を放つ。
トイラはそれをジャンプしては、ひらりとかわし、ジークの胸元に飛び込んで地面に倒し、逃がすまいと押し付けた。
ジークの顔めがけて前足を振り上げ、えぐるように引っ掻いた。
「うっ」
ジークは左目をやられ、血まみれになっていた。
そしてコウモリの姿になると、トイラの押さえつけた足を掻い潜って空高く飛んでいった。
「待てジーク」
トイラは追いかけようとしたが、キースに呼び止められた。
「トイラ、これを見てみろ。ユキのアザが半月になっている」
キースは人の姿になり、ユキを抱き抱えていた。
トイラも人の姿に戻ると、ユキの前に駆けつける。
ユキの胸元のアザがはっきりと見えた。
トイラは驚愕し、気が遠くなりそうにうろたえていた。
「なんてこった、もう半月になっている。このままでは時間がない。早くジークをやっつけなければ、ユキは……」
「落ち着け、トイラ。ユキは大丈夫だ。まだ時間がある」
「しかし、この月のアザが満月に近づく度に、ユキの胸の痛みは強さを増す。太陽の玉を持つジークがこれ以上近づけば、人間であるユキの体はもたないかもしれない。持ちこたえたとしても、完全な満月になれば、ユキは確実に命を落としてしまう。どっちにしても最悪だ」
「トイラ、自分を信じろ。森の守り主が言っていただろ。お前ならユキを救えると。とにかくユキをベッドに寝かしてやらないと。ほらお前が運べ」
壊れ物を抱くように、トイラはユキを恐々と抱きかかえた。
ユキを部屋まで運び、そっとベッドに寝かしてやった。
ユキの顔色はどんどん青くなり、唇が紫色になっていく。
頬に触れると冷蔵庫で冷やされたようにひんやりしていた。
「しまった、体温が下がっている」
トイラは黒豹の姿になり、昔ユキが小さかったときにしてやったように、隣に寄り添って体を温めてやった。
「ユキ、しっかりするんだ」
黒豹のトイラは喉をゴロゴロさせていた。
胸の痣によって、ユキの閉じ込められていた過去の記憶が夢の中で徐々に蘇る。
ユキは思いだす。
トイラ、キース、ジーク、そして白い大蛇の事を。
赤黒い光がどんよりと広がる空間、そこは地下水で浸食された洞窟、鍾乳洞のようだった。
空間まで侵食されているのかねじれた歪みをもっていた。
ゆらゆらと輪郭がぼやけた大蛇の頭が、ユキの目の前に現れた。
「誰だ、私の眠りを妨げるものは」
大蛇は居丈高に振舞う。
キースは恐れのあまり震え上がっていた。
もし狼の姿なら、確実に尻尾が垂れて後ろ足の間に挟まっていたことだろう。
トイラは、声が出ないほど森の守り主の威厳に圧倒されていた。
トイラが豹の姿ならば、尻尾が膨れ上がっていたことだろう。
「そこに居るのは、トイラとキースだな。そしてこれは人間」
ユキは大蛇の顔の真正面に居た。
大蛇の口から先が二股に分かれた細い舌が、ユキをあざ笑うかのように、チョロチョロと出たり入ったりしている。
そしてユキの頬に舌の先が触れた。
布で軽く触れたような、くすぐったいものだったが、鳥肌が立ち体の震えが止まらなかった。
ユキは悲鳴を上げたくなる気持ちを必死に堪えて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「お願い、食べないで下さい」
ユキがそうつぶやくと大蛇は笑った。
「ははははは、私がお前を食べるだと」
ユキはそっと地面に降ろされた。
「えっ?」
大蛇の様子が一変する。
慈悲を与えるような優しい眼をしていた。
それでも威厳ある気品が十分伝わる。
「お前達がここへ来たのには訳がある。何もかも私にはお見通しだ。そしてこれから起こること全ては、お前達には必要な出来事の一つとなるだろう」
大蛇の話し方は預言者のようで、いまいちよくわからなかった。
トイラとキースはただその場で、緊張して突っ立っていた。
「トイラ、お前は本当に森の守り主になりたいのか」
大蛇が訊いた。
「それじゃ、俺をここへ呼んだのは本当にあなただったのですか」
「ああ、そうだ」
あっさりと大蛇がそれを認めた。
疑ってかかってたキースは驚きが隠せない。思わず口がでてしまう。
「森の守り主、ジークをメッセンジャーとして、あなたが駒の役割をさせたということなんですか」
「そうだ」
「なぜあんな信用の置けない奴を使うんですか」
キースはどうしても納得いかないでいる。
「お前は、忠実で、用心深く何事も慎重で優秀だ。何も自分を恥じることはない。お前は私が思った通りの森の守り駒だ。誇りに思う。そして、トイラ。誰より
も気ままで身勝手だ。だがしかし、お前は緑の目を与えられている。お前には森の守り主に相応しい力が備わっている。だが今のその気持ちではまだなれぬ」
「森の守り主、俺が、ユキ、いやこの人間をこっちの世界に引きずり込もうとしていることが、いけないということですか」
まだ森の守り主になれぬと聞いて、トイラはユキと一緒に入れなくなるのではと心配になってしまう。
「トイラよ、我々の世界では人間と交わることは禁じられておる。森の守り主であれ、その掟は絶対だ。だが、この人間はどうも例外らしい。我に必要なもの備えているようじゃ」
「それでは、ユキを俺たちの世界に連れてきてもいいということですか。太陽の玉があればそれが可能なんですか」
希望を感じ、トイラの顔が明るくなった。
期待をこめた目で大蛇をみていた。
「トイラ、よく聞け。お前がこの人間と一緒に暮らす方法はたった一つしかない」
「それはなんですか」
「お前が、この人間の命の玉を手に入れるということだ。この人間が持つ全てのものが詰まった命の玉。それをお前の体内に取り込めば、お前の中でお前と一緒
にこの人間の魂は生き続ける。だが、形は持たない。人間が人間の世界を捨てるということは、目に見える存在している全てのものをその場所に置いて、体の中
の命の玉だけを取り出すということだ。太陽の玉を用いても、この人間は我々のようにはならない」
その事実はトイラをぶちのめした。
「そんな。俺が森の守り主になっても、今のユキの姿のままでは一緒に居られないなんて。ユキの命の玉をとるなんて、そんなことできるわけがない。そんなの嫌だ」
ユキはじっと考えていた。
でも答えはもう決まっていた。
「トイラ、私はそれでもいい。あなたの中でも一緒にいられるのなら、私は幸せ」
「ユキ、ダメだ、それだけはできない」
「でも私はあなたの中で生きられるんでしょ。だったらそこが本当の私の居場所だわ」
「嫌だ、俺は絶対に嫌だ。ユキの命を犠牲にしてまでそんなことできない」
トイラはこれほどの絶望感を感じたことがなかった。
力が抜け、地面の上でヘタっていた。
その時、ジークが戻ってきた。