Brilliant Emerald

第八章

5 

 その晩、トイラはベッドの中でうなされていた。
 オムニバスのように夢が次々と現れては、物語を成さずに消えてゆき、また新たなシーンが始まる繰り返しだった。
 過去の戦い、自由奔放に森の中で過ごした日々、お気に入りのあの大きな木、キースや仲間との触れ合い、ユキとの出会い、そして大蛇の森の守り主が混ざり合って出てきた。
 そのとき、ところどころに無の空間が現れ、それがブラックホールのように全てを吸い込んでいった。
 とてつもない恐怖を感じ、トイラはそれに追いつかれないように走って逃げている。
 体が思うように動かず、自分自身もとうとう無に引き込まれて行った。
 辺りは漆黒の闇で何も見えない。
 何かの気配が突然すると、唸り声が聞こえた。
 緑の光が二つぼやっと浮き出て、段々と自分に向かってくる。
 それが黒豹の自分自身の姿だと気がついたとき、ありえない状況に目を疑った。
 黒豹は、夢の中の人の姿のトイラを激しく睨んでいる。
 そして突然牙をむき出し襲い掛かった。
「やめろ、俺はお前だ!」
 夢の中で叫んだとき、トイラはぱっと見開くように目が覚めた。
 汗を掻き、心臓が激しく動いていた。
 首を横に向けると、ユキがパジャマ姿で、ベッドの端に顔をふせるように寝ているのに気がついた。
(ずっと看病してくれてたのか)
 トイラはそっとユキの髪に触れた。
 起こすつもりはなかったが、ユキはそれに気がついて目覚めてしまった。

「すまない、起こしちまったか」
「あっ、トイラ、汗びっしょりよ。大丈夫?」
 ユキが側にあったタオルで顔を拭いてやる。
「ユキ、ここにきて、俺を抱きしめてくれないか」
 トイラの表情は怖いものをみた子供のように怯えていた。
 何かにすがらないとどこかへ流されていきそうで、ユキに助けを求めた。
 こんな弱気なトイラの姿を、ユキは見たことがなかった。
 ユキは、躊躇うことなくトイラのベッドに入り、トイラの腕を枕にして一緒に添い寝してやる。
「怖い夢でも見たの?大丈夫よ。私が傍にいるから」
「ありがとう、ユキ。君のぬくもりを感じると安心するよ」
 安らぎを得るように、二人は抱き合ったまま、そのまま再び眠りについていった。

 朝、トイラが目覚めたとき、ユキはもうすでにベッドからいなかった。
 早く起きて朝食の支度をしにいったとはわかっていたが、ユキが傍にいないのがトイラには寂しくてたまらない。
「俺はやはりユキなしではいられない。ユキと離れてしまうことなど考えられない。助けたくともその術がわからないのなら、来るべきときが来るとしたら、俺 はユキの命の玉を取ってまでユキの全てを奪おうとするのかもしれない。もうそれが俺の答えなのか。失いたくないものは奪うことしか選択は残されてないのだ ろうか」
 トイラの精神は不安定になっていた。
 時間がない焦りと、失うことの恐怖、森の守り主の責任感、そして自分の中の豹の部分の驚異的な力がトイラを追い詰める。
「くそっ!」
 動きの鈍い体を、必死にベッドから起こして、立ち上がった。



 仁はまた眠れない夜を過ごし、ジークと話した会話を何度も何度も思い出していた。
 朝、起きて顔を洗い、やつれた自分の姿が鏡に映ったとき、別人に見えてしまったほどだった。
 母親が朝食をテーブルに用意している。
 父親がすでに座って新聞を読んでいるその前の座席に仁は座った。
 オレンジジュースのカートンを持ち上げ、自分のグラスに注いで、一気飲みしていた。
「あら、仁。まるで自棄酒みたいな飲み方ね」
 母親が笑っていた。
 そして手を後ろにして何か隠している。
「仁に見せたいものがあるの。じゃーん。ほらこれ。どうかわいいでしょ」
 それはユキのために作ったピンクの水玉のドレスだった。
 仁はそれを見て、眉をひそめ、悲しげな目になった。
 ユキはもしかしたら後一週間の命になるかもしれない。これを来て町を歩くことなんてあるのだろうか。
「どうしたの、仁。暗い顔して。かわいいドレスでしょ。上手く作れたと思ったんだけど、ユキちゃん気に入らないかしら」
「ううん、とてもかわいいよ。これを着てユキが町を歩けば、みんな振り向くぐらいだよ」
「でしょ、でしょ、私も早くユキちゃんがこれを着てるところみたいわ。仁、デートくらい誘ったら」
 脳天気な何も知らない母親に、仁は人の気もしらないでと、返す言葉もなかった。
 そしてもう一杯オレンジジュースを胃に流し込む。
 そのピンクのワンピースは、男の仁が見ても本当にかわいい出来上がりだった。
 タンクトップ風の少し太めの肩紐。肩と胸は露出するが、片側は長めの肩紐でリ ボンを結ぶようになっている。
 結んだリボンの二本のひらひらがスカーフのような飾りの役割をしていた。
 裾へいくにつれて広がり、丈は短めだが、スウィングする と円錐 のように広がる。
 ユキに早く持って行けと母親が薦めていた。
 父親も側で、新聞を読んでるフリをしては、笑いながら話を聞いていた。
 しつこい母親に押されて、結局その日曜日の午後、ドレスを持って、仁はユキの家に向かうことにした。


 キースは何やら台所でごそごそしていた。
 ユキは見守るように少し離れて見ていた。
 だが鼻をつまんでいる。
「キース、これ何の匂い?やだ、なんかおぞましいよ」
「薬草さ、今朝、林の中で種類が似たのがあったので、トイラのために薬を作ってるんだ。これを飲めば、多少は早く回復するさ」
「えっ、それを飲むの?」
 ヘドロのような緑、どろっとして、見るからに苦そう。どうみても口に入れられた代物ではなかった。
 ユキはトイラに同情した。
 トイラはソファーで無表情に座っていた。
 だが目はユキを常に追っていた。
 ユキと目が合う。
 ユキはにこやかに笑っている。
 トイラもそれにつられて軽く笑みをこぼした。
 キースが湯飲みに薬草汁を入れて、トイラの前に持ってきた。
 目の前の空気を腐らすような勢いの匂いが立ち込めた。
 ユキも一緒になって様子を伺っている。
 ユキとキースが顔を見合わせた後頷いて、にたっと歯を見せて笑っている。
 トイラは湯飲みを手にして、それを躊躇わず一気に飲み干した。
 反応が気になるキースとユキだったが、意外と落ち着いているトイラに少しがっかりした。
「なんだもっと、嫌がるかと思ったのに」
 キースは面白みがないので、残念そうだった。
「ふたりとも心配してくれてありがとう」
 トイラらしくない萎れた声だった。
「おいおい、やっぱりトイラ変だぜ。もっといきがって、憎らしくしないと。苦いもの飲ませるな! とか言ってくれないと、なんかつまんないよ。折角いつものより苦くしたのに」
「なんだって、キース。こんなときまで、俺をからかうのか」
「そうそう、その調子。そうじゃないとトイラはつまんないんだよ。大人しいトイラなんて、ただの飼い猫だ、にゃーお!」
 キースが猫の真似をしている。
 ユキはこの二人の掛け合いが昔から好きだったなと思い出していた。

 ──ピンポーン。 
 ドアベルが突然家中に響く。
 誰が来たのだろうと三人顔を見合わせた。
 ユキが玄関に駆けつけると、紙袋をもった仁が立っていた。
 ユキの顔を見れば、ジークの『今ユキを助けられるのは君しかいないよ』と言われた声が、またどこ からか聞こえてきたような気がした。
 ユキは仁をみて歓迎していた。
 仁は居間に通されると、そこでトイラと目があった。

「トイラ、体の調子はどうだい?クシュン」
「ああ、大丈夫だ。ほんとにありがとう。仁が助けてくれたこと、とても感謝しているよ」
 トイラは猫アレルギーの仁に気を遣って、できるだけ離れた部屋の隅に移動して座り込んだ。
 仁はトイラの素直なお礼が、どこかまともに受け取れなかった。心の中ではジークとの駆け引きが常に渦巻いている。自分の心を誤魔化すかのように話しを変えた。
「ん? なんかこの部屋臭いね」
「これ、キースがトイラのために変な薬作ってたの」
 ユキが手でパタパタと風を起こすようにして、恥ずかしがっていた。
「変な薬とはなんだよ。僕だってトイラのためにやったことなのに。だけどさ、仁、その紙袋の中なんだい。なんかやさしい香りがするよ」
 キースは仁の母親の香水の匂いを嗅ぎつけていた。
「あっ、これ、ユキになんだ。僕の母から」
 ユキにその紙袋を手渡す。
 ユキは中身を取り出して喜んだ。
「もうできたの。うわぁ、なんてかわいいの。すごい。ほんとに貰ってもいいの」
 その素直に喜ぶユキの姿は、そこに居るものの心を和ました。
「ユキ、着てみてごらん。きっと似合うよ」
 仁がそういうと、ユキは嬉しそうに奥の部屋に走っていった。
 そして、暫くして、ユキが顔だけ出すように、ドア付近でモジモジしていた。
 その顔はどこか心配そうだった。
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