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ベッドの上に寝転がった仁は、感情任せでユキに無理やりキスをしたことを今頃になって後悔していた。
トイラに負けたくないと思ったことが引き金となり、ユキに自分の気持ちを押し付けてしまったが、それは暴力と同じだと反省していた。
でもこの時こんなこと考えている暇はなかった。
一刻も早く手を打たなければ、手遅れになってしまうかもしれない。
自分の携帯を出して、叔母の良子に電話した。
それは柴山と連絡をとるためだった。
ジークとの取引きには柴山の協力がかかせない。仁の頭の中にはユキを救う青写真ができていた。
良子と電話が繋がれば、柴山はすぐ傍にいて難なく会う約束が取り付けられた。
とんとん拍子に事が運ぶ。
仁はやるしかないと覚悟を決め、ユキを助けたい一心で柴山に会いに行った。
町の中心の賑やかな通りから、見逃してしまいそうな路地を入ったところに、昔から地元の人が飲みに来る古ぼけたコーヒー屋がある。
店内は古いが、小奇麗で、光沢のあるアンティーク調の木のカウンターと、小さなテーブルが4つあった。
柴山がこの町に住んでたときからの行きつけの場所でもあった。
仁がドアを開けると、ベルがカランコロンと音をたて、香ばしいコーヒーの香りが押し寄せるように流れてきた。
「おっ、仁、こっちこっち」
奥のテーブルに、柴山がコーヒーカップを手にして座っていた。
日曜日の夕方の店内は、二人以外他に客がいなかった。
「なんか好きなもん頼め」
「じゃあ、ぼくもコーヒー」
カウンター内の店主に目を合わせて、仁は頼んだ。
「お前、コーヒーが苦いとか言って嫌いだった癖に」
「いつの話だよ。小学生の時だろ。古すぎる」
柴山は、そんなにも昔のことかと、笑っていた。
「で、話ってなんだい。しかも良子にも話せないことを俺と話したいって、どうしたんだ。もしかしてユキちゃんのことか」
「それもあるけど」
「でも、ユキちゃんは難しいぞ。トイラがいるからな。それに外国人でハンサムだし、俺が助言できることないぞ」
柴山は諦めた方がいいぞと遠回りに伝えていた。
「違うんだって、恋のことじゃなくて、実は」
仁の声が小さくなった。
そしてもっと近くにきてくれと、柴山に手招きしていた。
不思議な顔をして、柴山は顔を仁に近づけた。
仁は、こわばった顔で、豹と狼の話を持ち出した。
そして豹と狼が人間に化けているということを教えた。
荒唐無稽な話に、いきなり柴山は笑い出した。
「何かと思えば、こんなことか。もうこの話は都市伝説みたいになってるのか」
「違うんだってば、もう、折角本当のことを言ってるのに」
「でもそれがどうしてユキちゃんと関係あるんだ?」
「だからそれがユキの家に住んでるんだよ」
「えっ?」
柴山の顔つきに変化があった。
ジーンズの後ろのポケットからメモ帳を出してぶつぶつと言っては何かを確認している。
仁はじっとその様子をみていた。
そしてテーブルにコーヒーが静かに置かれ、仁がコーヒーにミルクを入れて飲もうとしたときだった。
柴山が口を開いた。
「実はさ、色々調べてたんだけど、どうも目撃情報がユキちゃんの家のあたりに集中してるんだ。しかも黒豹と狼が猛スピードでユキちゃんの家に走っていっ
たっていう目撃証言も聞いたんだよ。もしかしたら、ユキちゃん、黒豹と狼を飼っているんじゃないかって、俺も思いだしてね」
「飼ってるんじゃなくて、一緒に住んでるんだってば。それがトイラとキースなんだってば」
柴山がいつも何かに目を光らせてるといっても、非現実的な出来事はすぐには信じられないようだった。
仁はなんとか信じて貰おうと躍起になった。
「そりゃ、なんかあったら教えてくれとは言ったけど、それは俺をからかってるんだろう。それにそれが仮に本当のこととしても、仁は友達の秘密をばらして裏切ってることになるぞ。そんなこと友達なら普通しないぞ」
「だから僕は本当に裏切ってるんだよ。トイラとキースが邪魔なんだ」
仁の真剣な表情に柴山は複雑な顔をしていた。
どうも嘘を言っているようにも思えなくなってきた。
「だったら、ほんとにそうなのか、証拠でもないとなあ。俺がこんな状態で記事にしても誰も信じないよ」
「いい考えがある。その証拠をみせるよ」
仁はコーヒーを一気に飲み干した。
カップをソーサーに置いたそのとき、その表情はもう少年の持つあどけなさが消えていた。
大人びた表情で、これから罪を犯すことを十分に告知していた顔だった。
ユキは家に帰ってすぐにシャワーを浴びた。仁にキスされたことは、気にしないでおこうと思ったはずなのに、トイラを見たとたん、どうしようもなく罪悪感が芽生えてしまう。
自分が悪いわけではないのはわかっているが、どうしても汚れたような気分がぬぐえなかった。
「ユキになんかあったのか」
トイラがユキの様子がおかしいことに気がついて、さりげなくキースに聞いた。
キースも命の玉のことを話したことで同じように罪悪感を感じていた。
それも原因の一つだろうと思うと正直にトイラに言えなかった。
「仁のところでなんかあったとは思うけど、他にもきっと悩んでることはあると思う。ユキの場合、月の玉が胸にあるだけに、普通の人間には考えられないことが次々起こってるしね」
キースの言葉でトイラはソファの上でうなだれた。
全ての責任は自分にあると全身で感じていた。
キースも悪気があって言ったわけではなかったが、結果的にはトイラを責めてしまったと思うと、申し訳なささが倍増した。
ふたりがぎこちなくなっているとき、濡れた髪のままユキが居間に現れた。
「夕飯の用意するね。トイラ何か食べたいものない? おいしいもの沢山食べて、早く体が自由に動けるようにならないとね」
ユキはソファに座るトイラに、無理に笑みを見せようとする。
不自然なことくらいトイラにはお見通しだった。
「どうしたユキ。仁と何があったんだ。帰ってきてからおかしいぞ」
「ううん、トイラが心配することじゃない。大丈夫」
ユキはソファーに座るトイラに近づいて、そっと首に手を回して抱きついた。
「でもちょっとだけこうさせておいてね。とても心が落ち着く」
キースは二人に気遣うようにキッチンに向かった。
「今日は僕が夕飯作ってやるよ。二人はそこで座ってるといいよ」
キースは気を利かしたつもりだったが、トイラもユキも思わず顔が引きつる。
また薬草みたいなものを作られたらたまったもんじゃない。
「私、作るよ」
思わずユキはキッチンに飛んでいった。
案の定キースは、手にこの日の朝摘んだ薬草を持っていた。
ユキは驚いて取り上げると、キースはクスクス笑っていた。
「冗談だってば」
ユキが食事の用意をする側で、キースはテーブルにお皿を並べて手伝っていた。
トイラもそれに加わろうと、ダイニングにやってきた。
「トイラ、もっと休んでおけ。まだ無理しない方がいい」
キースが言った。
「肩はまだ痛みがあるけど、あの薬のお陰で、かなり動けるようになったよ。明日、学校だし、なんとか日常動作は問題なさそうだ」
「トイラ、無理しちゃだめだよ。学校なんて行かなくってもいいよ。私も一緒に側にいるから」
「じゃあ、またデートするか、ユキ」
トイラのその誘いが嬉しかったのか、ユキは喜んで頷いていた。
そのとき、ドアベルが鳴った。
「誰だろ、こんな時間に」
ユキは玄関に行ってドアを開けた。
だがそこには誰も居ない。
しかし『ユキ』と呼ばれる声を聞いたような気がした。
「誰?」
庭の周りの低木の茂みが、ガサゴソとしていた。
「猫かしら」
不思議に思ってそろりと近くに寄ったときだった。
突然後ろから誰かに肩を掴まれた。変な香水の匂いがする。咄嗟に振り返れば黒いフード付きのワードローブを着た誰じゃがそこに立っていた。
「キャー」
ユキの悲鳴が聞こえたとき、トイラとキースが慌ててかけつけた。