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心の乱れをかき消すように、男は覚悟を決めてレバーを引こうとしたが、結局それもできなかった。
いつまでも銃を女に向けるのも辛く、最後は自ら潔くできないことを認めた。
再びセーフティロックがかかり、そしてその銃を仕舞う。
女はその様子を微塵たりとも動かずにしっかりと見つめていた。
助かったと安心する訳でもなく、男が話しかけてくるまで女は黙って待っていた。
男は女が見つめる瞳を恐れずに見つめ返す。
先ほど抱いていた動揺は、銃を向けないことで軽減されてはいたが、惑わされたことはどこかで不安を抱かせた。
それでも、女を見ていたいという欲望は強く、男の好奇心の方が段々膨れていく。
今まで女にこのような感情など持ったことはなかった。
常に緊迫した情勢の中で、子供の頃からいずれは軍人となり祖国の役に立つことだけを考えて生きてきた。
それは間違っていたと思わされるほど、この女を一目見たとき、その信念は揺るぎ、簡単に心を奪われてしまったことが自分でも信じられなかった。
それが自分の敵であるというのに、それすら凌駕してしまうほどの力が、この女の瞳の奥に潜んでいた。
素直に認めようではないか。
自分はこの女に一目ぼれをしてしまったことを。
呪われるのは、この時代にこの女と出会ってしまったことだけだ。
この先の事など考えず、男は自分の欲望を優先する。
それが反逆行為とみなされても、今はこの女のことしか眼中になかった。
それほど女は美しく、そして全てを受け入れる優しさを醸し出し、男は素直に自分の腕の中に抱きたいという気持ちにおぼれる。
抱きしめれば壊れそうなくらい華奢でありながら、胸の膨らみは大きく豊かだった。
自分の方がそこに埋もれてしまいたくなるほど、抱きしめられたい程だった。
女を受け入れた今、そんな男の欲望ですら、恥ずかしくもなく心に浮かんでしまう。
しかし無理やり女を抱くことだけは、男はしたくなかった。
女が自分と同じように思ってくれてこそ、男の欲望は満たされる。
「少し話をしないか」
それがどのような結果を生んだとしても、自分がこの女と向き合っている今はそうすることが一番自然に感じられた。
先ほど女が言っていたように、笑顔で語り合っている姿というのは、現実になろうとしていた。
女もまた、この男に対して感じるものがあったために出た言葉だったのかもしれない。
波長が合うことは、こうなることを運命付けられていたと思わずにいられなかった。
仕方がなかったとはいえ、一瞬でも殺してしまおうという気持ちを持ったことを男は面映んでいた。
「ええ」
頬が弛緩し、柔らかに、また温かい血が通っているのがわかるように、ほんのりとピンクに染めて、女は男の提案を素直にのんだ。
「なぜここに一人でいた」
「仲間とはぐれてしまったのです。あまりにも疲れて偶然見つけたこの小屋で休んでいただけです」
「そなたのような美しき女性がはぐれれば、周りはすぐに気がつくはず。誰も近くには潜んでないのか」
「周りの者は必死に逃げ惑い、自分の事だけで精一杯でした。本当に私一人きりです」
「一人でどうしようと思っていたんだ」
「死を覚悟して震えておりました。いずれ誰かに見つかり逃げ切れないことはわかっておりましたから」
女は一語一語はっきりとした発音で答えを返していく。
生死の運命を握られているというのに、やはり怯えることはなかった。
「しかし、なぜこの私をみても怖がらない。いや銃をも怖がらなかったのだ」
「わかりません。それは自分が自然と抱いた感情というしか説明しようがございません。あなた様は私が想像していた敵国の人とは全く違った印象でございまし
た。あまりにも澄んだ瞳が私を安心させたのです。その時ふとその瞳の奥までが見え、私はあなた様と笑顔で話している様子が見えたのです」
「私を見透かしたということか」
「いえ、違います。これは運命とでも言うべきものとしか申し上げられません。私の中に突然あなた様という存在が入り込んできたのです。私は今まで怯えなが
ら暮らしてきました。不安定な情勢の中で常に危険と隣合わせでした。生活する事だけに精一杯となり、心に余裕がなかったのです。でもあなた様を拝見したとき、そ
れらを忘れてしまうほど、その一瞬で平穏な気持ちを味わうことができました。それは全てにおいて勇気付けてくれ、怖いという感情が払拭されたのです」
「そして私は君の思惑通り、殺さなかった。いや、殺せなかった」
男は抱いた気持ちを外に出すように、一歩女に近づいた。
女は逃げることなくそれを受け入れてはいるが、一瞬、瞳の瞳孔が動いたことで少し平常心を乱されている様子にも感じられた。
「この後私をどうするおつもりでしょうか」
どこかで襲われると思っていたのだろう。
その覚悟が、背筋をはった姿勢から伺える。
「できるだけ、君を遠くに逃がしてやりたいと思っている」
男の本音だった。
このまま穢れなき状態で、安全なところに逃げて欲しい。
この時初めて女は瞳を小刻みに揺らして、狼狽した態度を示した。
「そのようなことをすれば、あなた様にご迷惑をお掛けしてしまいます」
「どうした。何を今更怖気ついている。助かりたくはないのか」
「あなた様を危険におかしてまで、することではございません。それにこの状況では逃げ切れるわけがありません。私に手を貸したことが知られてしまえば、あなた様のお命も危のうございます」
敵であるというのに、女は男の行く末を心配する。
どちらも憎しみあっている国の者同士だというのに、この二人の間にはそんな感情は一切感じられなかった。
国同士が対立している、それが基本となり、個々一人として、面と向かって話し合うなり、心を通わせば分かり合える。
大きなものに全てを流されて、個人ではどうしようもない弱い力は支配され続ける。
男も女も口には出さなくとも、お互いを見たとき一瞬でそれを悟っていた。
この二人の間には全くわだかまりはなかった。
面と向かって敵と向かい合ったことなどなく、どちらも憎しみ合うことに実感をもてないでいた。
国の名前を聞けば、敵ではあるが、その中に居る者全てが必ずしもそうではないことが、お互いを見て気がつく。
凝り固まった先入観、それを植え付ける大きな支配力が自分をこのように作り上げてしまった。
そうすることが当たり前だと思っていた事が、小さく芽生えた熱き感情によって、変化を遂げる。
まるで魔法にかかったように、それは不思議な力を発揮した。
「不思議なものだ。君にそんな風に言われるとは。今は君の方が遥かに危険であるというのに」
ふと息が漏れると同時に、なぜかおかしさがこみ上げて男の口元がほころんだ。
だが悠長に笑ってられる場合ではない。
このままここにじっとしていても、いずれ自分の仲間がきてしまう。
その前にどうすべきか、男は考え込んだ。
女もまた目の前で真剣に考え込んでいる男の顔を見つめ、男が話すのを辛抱強く待っていた。
こうやって自分の事を考えてくれているだけでも、女は嬉しく思うのだった。
「一つ賭けをしてみようか」
「賭け?」
「とてもリスクの伴う賭けだ。上手くいく保障は全くない。失敗すれば即、死を意味するがやってみないか」
「すでに覚悟はできております。あなた様が私のために考えて下さったのなら私はそれに従います」
「そうか、だったら私と一緒に他の国へ逃げよう」
「あなた様と私がですか?」
「そうだ。嫌か?」
「いいえ、嫌だなんて。勿体のうございます」
「それでだが、逃げおおせた時は、私の妻となることを約束してくれないか」
唐突にプロポーズなど、この場合早すぎるどころが、全く無謀な提案だった。
それでも二人の間にすでに芽生えている仄かな炎はすでに大きくなりつつある。
「私があなた様の妻に……」
その後の返事につまったが、この時女は言葉を選んでいた。
「はい。お受けいたします」
はにかみながらも、まっすぐ前を見据えて女は承諾した。
全く予想しなかったことだが、男はこの女の度胸に心を鷲掴みにされ、その容姿もさることながら恋に落ちるには申し分ない女だと本能が感じ取った。
女もまた断る必要もなく、この男を見たときから運命的なものを感じ、その上で自分でも理解しがたい行動が起こせたにすぎない。
この男に感じたもの、それは希望だった。
明るい未来とでも言うべき光が心を照らした。
国同士のいがみ合いが突然バカらしく、無駄な命を奪う行為がどれほど無意味で不必要であるか、それよりも心を満たし幸せな日々を送りたい。
この世に生を受けたなら、誰しも幸せになる権利をもっている。
そんな当たり前の事ができないことの方が間違っている。
男にしても女にしても自分の未来を決めることに逡巡しなかった。
寧ろ、立ち向かいたい反発が、お互いを伴侶にしてもいいという決断力となった。
敵国のもの同士でも愛し合うことができると戒めるように。
男は自分の手を差し出し、女はその手を躊躇いなく取った。
その後、男は女を引き寄せ、優しく抱きしめた。
重なった二人のぬくもりは、心の中にも浸透していく。
知り合って間もなく、お互いを知らぬというのに、この支えあう温かみだけで全てを知った気持ちになった。
「そういえばまだ名前を聞いてなかった」
お互い名前も知らずに結婚を決めてしまったことが、二人にはおかしく思えるのだった。