「後悔はしてないか」
 誰にも見つからず、森の奥へと逃げ込み緊迫した状態から少しだけ余裕が出てきたとき、男は女に問いかけた。
「いいえ。あなたの方こそ後悔してませんか。今ならまだ引き返せます」
 女もまた同じように問いかけた。
 男は女に笑顔を向ける。
「引き返したくないほどに、今は先を急ぎたい。私は後悔よりも夢をみたい。素晴らしい未来の夢を」
「私もです」
 木漏れ日が揺れ動くその光のシャワーを浴びて、それと同じように未来も明るく輝いていると信じてやまなかった。
 足元には枝や石が転がっている。
 それらが歩く邪魔をしていても、負けずと踏み越えてその先が待つ新しい道へと進んでいく。
「疲れてはいないか」
「大丈夫です」
 段差が激しい場所では男は先に進んで、女の手を取り補助をする。
 時には抱きかかえて急な斜面を降り、そして不安定な足場で少しバランスを崩してはヒヤッとしたが、持ちこたえられたあとは、二人顔を見合わせて笑顔になった。
 追っ手を気にして回りに注意を払い、緊張感が絶えない。
 動物が茂みでがさごそと音を立てるだけで、冷やりとするが、鹿や鳥の姿を見た後はほっとして安らいだ。
 それの繰り返しだった。
 ようやく流れる水の音がきこえたところで、少し緊張が解けた。
 川が近い。
 ここまで来れたことに、一つの難関をクリアしたように思えた。
「少し休憩をしよう」
 喉の渇きを癒すちょうどいい機会だった。
 せせらぐ水面がキラキラと光を反射し、また清涼感一杯に透き通っていた。
 この川の先は海へと続き、そこには港がある。
 まだ具体的にどこへ行くべきか決めてはないが、海を渡る船に乗り込めたならなんとかなると思っていた。
 遠い見知らぬ国、平和な場所に辿り着きたい。
 男は屈んで川の水を掬い取り、願うように口に含んだ。
 男の側に女も並び、しゃがんでは手を水に浸した。
 冷たく清くせせらいでいる水の流れが指先にぶつかってくるのが心地よかった。
 澄んだ美しい水は、男の瞳に似たものがあった。
 見つめるだけで心が安らぎ、それに身を任して流れていく自分を想像すると、心が清らかに落ち着いていく。
 ふと岸辺を見れば黄色い花が咲いていた。
 取りとめもない雑草ではあるが、素朴なかわいらしさがあった。
 誰も知らないところでひっそりと咲いた花。
 小さくて弱々しいのに、葉っぱはそれを守るようにぎざぎざとして凛々しかった。
「何を見ているんだ」
 男が優しく問いかけた。
「あの黄色い花」
「あれか。あれはダンドリオンだな」
「ダンドリオン」
「あれは逞しい花だ。強く大地に根をはり、踏まれてもびくともせずに、ひたすら花を咲かせては最後は綿毛となって次の場所を求めて空を飛んでいく」
「立派ですのね。私達も見習わなくては」
「そうだ負けられないな」
 男は立ち上がり、黄色い花が咲いている場所に足を向けた。
 点々と黄色い花が散らばって咲いている近くに、丸くふわふわとした綿毛を見つけた。
 茎の部分をそっと持ち、それを優しく摘んだ。
 女のところへそれを持っていって目の前に差し出した。
 女はそれを譲り受け、暫く見つめていると、男が優しく女の手に自分の手を重ね、二人で一緒に持っている形となった。
「一緒にこれを吹き飛ばそう。新たな土地へ種が届くように手助けしてやろう」
 女の目を見つめ合図をすると、二人は同時に息を吹きかけた。
 綿毛はふわりと宙に舞い、そして各々の方向へと飛んで行った。
「できるだけ沢山の花を咲かせて欲しい。そしてまた新たな種を作ってさらに遠くに飛ばして欲しい。ずっとずっと永遠に。私はそれをきっと未来で見ることができる」
 女は自分の吹き飛ばした種が時を越えて、受け継がれていくのを切に願った。
「必ずそうなるさ」
 男は優しく女の肩を抱いた。
 風に乗った綿毛はふわふわと飛び続けていた。
 それを見つめつつ、この女とこの先を共にする決意を新たに強める。
 男はその証とでもいうように、顔を女に寄せては優しく唇を重ねた。
 女は素直にそれを受け入れ、目を閉じた。
 流れる川の水の音を聞きながら、暫し甘い時間が流れた。
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