第二章


 どこでキイトと別れたのか、仁は覚えていない。気がつけば一人で暗い夜道を歩いていた。
 一体何があったのか。
 キイトの話を聞いた後は放心状態に陥り、仁は何も考えられなかった。
 そんな仁を見たキイトは酷く同情し、仁を応援してやりたくなった。
「仁、気をしっかり持て」
 キイトは仁の額に優しくキスをする。
 それはおまじないのようであり、キイトの唇が触れた場所は不思議な光を放ちそれが仁の中へと沁みこんでいった。
 仁はそっと自分の額に触れる。少し熱を帯びているようだ。
「力を少し分けてやった」
 キイトはそんなことを言っていた。
 でも仁はキイトから聞いた話に気を取られすぎて、キスをされても驚かなかった。なんだかよくわからないままに何かが触れたくらいにか感じなかった。
 それからぼーっとして、気がつけば住宅街で一人暗闇の中自転車を押していた。
 すぐに家に帰る気力がなく、自転車を押して歩きながら、何度もため息をついてはこの先のことを考えていた。
 トイラを人間にできるかもしれない。
 本当にそれでいいのだろうか。
 ユキを思ってトイラを救いたいのなら、仁は覚悟してかからなければならない。
 果たして自分は快くトイラを人の姿に変えていいものか。
 仁は今になって怖じ気ついてしまう。
「ユキ、僕は一体どうしたら……」
 仁はユキの気持ちを第一に考えると辛くなってしまった。
 気持ちがすぐれないまま、家の玄関のドアを開けた。
「ただいま」
 パタパタと母親が廊下を小走りするスリッパの音が近づいてくる。
「あら、遅かったわね。夏休みだからって遊び惚けてちゃだめよ。受験があるんだから」
「分かってるよ。腹減った。ごはん」
「はいはい」 
 母親は台所に立ち、出来上がっていた夕飯を温めなおした。
「あっ、そういえば、良子から電話があったわよ。アシスタントが夏休み取るから、仁に手伝って欲しいって」
 良子は母親の妹であり、獣医で動物病院を経営している。忙しいときは頼みやすいとあって、仁はよく仕事を手伝わされていた。
「わかった。後で連絡しておく」
「やっぱり仁も獣医目指して受験するつもりなの?」
 おかずとご飯をテーブルに置きながら母親が言った。
「うん」
 仁は軽く返事してからお箸を手に取り「頂きます」と呟いた。
「なんか仁に動物任せて大丈夫かしら。動物っていっても犬や猫だけじゃないのよ。結構ビビリなところあるのに、ライオンやトラとか診察することになったら怖いわよ」
 母親は脅かそうと冗談を言ったつもりだった。
「大丈夫だよ。黒豹と狼を相手にしたことあったから」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
 仁はご飯を口に入れ咀嚼していた。
「とにかくまずは大学入らないとね。そういえばユキちゃんはどこ目指してるんだろう。やっぱりアメリカいっちゃうのかな。仁と遠く離れちゃうとそのまま疎遠になっちゃいそうで怖いな。義理の娘にするならやっぱりユキちゃんがいいし」
 味噌汁をすすっていた仁がむせていた。
「気が早いんだよ」
「だってさ」
「それにユキは僕なんて選ぶわけがないだろ……」
 それをいいかけたとき、玄関のドアが開く音が聞こえ仁の父親が帰ってきた。
 母親はそっちに気を取られて玄関まで迎えに行った。
 仁は無表情でご飯を食べ続ける。虚しさがこみ上げて味などよくわからなかった。
 そして食事が終わると、良子に電話を入れた。
 早速翌朝に来いと言われるが、文句も言わずに素直にそれを受けるところは、自分でもお人よしだと思わずにはいられなかった。

 その翌日。
 仁は眠い目を擦って大きな欠伸を出しながら、まだ人通りもない道を自転車で駆けていた。
 朝の空気はひんやりとしていて気持ちがいい。
 少しは頭もすっきりするかと、更にスピードを出して冷たい空気の流れを味わっていた。
 動物病院に着くと、白衣を着た良子が眠たそうな顔をして迎えてくれた。
 早速、檻に入っていた動物の世話を命じられ、大きな欠伸を一つしながら、仁は仕事に取り掛かかった。
「元気そうな犬や猫なのに、なんでこんなに居るんだよ」
 仁が水を取り替えながら良子に聞いた。
「ほら、夏休みでしょ。旅行で家を留守するから預けていく人が多いのよ。ここは動物病院だから、もし何かあっても安心でしょ。こっちも稼ぎ時稼ぎ時」
「ふーん」
 仁は檻の中で大人しく寝ている猫を撫ぜていた。昔は猫アレルギーで触ることもできなかっただけに、こうやって堂々と猫に触れられることが嬉しい。
 これも太陽の玉に吸い込まれるジークを助けたときに、何らかの力が自分にも作用したお陰だと思っている。
 獣医になりたいと思ったのは、目の前に獣医の良子がいることも影響しているが、一番の動機はトイラやキースのような動物たちにまたどこかで会えるかもしれないと思ったのがきっかけだった。
 動物を見ると、つい人間の言葉を話すのではと期待するようになってしまった。
 猫の世話が終わると、今度は犬の檻の前に立った。
「あれ、こいつ楓太じゃないか。なんでこんなに怪我してるんだ」
 目の前には柴犬が、あちこち包帯を巻かれた姿で寝そべっていた。
「瞳ちゃんが言うには、家を飛び出したかと思うと、派手な喧嘩して帰って来たらしいの。家にいると、まだ怪我も治ってないのに隙を見てすぐ飛び出しちゃうんだって。それで暫く入院させてるの。そういえば瞳ちゃん、仁によろしくっていってたわよ。なんか仁もててるみたいね」
 楓太は八十鳩瞳が飼っている犬だった。
「そんなんじゃないって。良子さんのお得意のお客さんみたいなものだろ。だから愛想良くするしかないじゃないか」
「まあね、私も時々愛想良くしすぎておじさんたちを勘違いさせるときあるわ。一緒に食事いかがですかとか言われた」
「まさか、真に受けてないだろうな。柴山さんに知られたら、大変だぞ」
「大丈夫大丈夫、そんな誘いに乗らないって。私は高校生のときから圭太一筋よ」
 囚われたトイラたちを助けに行くときに、火事まで引き起こしたあの大騒動だったが、そのことは一切覚えておらず、良子と柴山圭太は寄りだけは戻していた。
 その柴山だが、只今ピューリッツアー賞を目指す勢いで写真を撮りまくっているらしい。
 お互いいい年なのに、いつ結婚するのか未定だが、二人が言うにはこの時一番いい関係を保っているらしい。
 高校生の時から、お互いこの人しか居ないと思った気持ちは、今も続いているところが仁には羨ましかった。
「あっ、仁、楓太に餌やるとき気をつけて。閉じ込められて気が立ってるから噛み付くかもよ〜」
 良子は冗談交じりに仁をからかう。
「ええ、そんなの嫌だ」
「何行ってるの、将来獣医になりたいんでしょ。嫌がってどうすんの。犬の気持ちを考えて接しなさい」
「ハイハイ」
 仁は適当に返事する。
 その時、良子は掛かってきた電話に反応して、慌てて受付へと走っていった。
 仁は楓太をチラリとみてから、ドッグフードを準備すると、それを持って檻の柵をはさんで対峙した。
「おい、楓太、くれぐれも噛まないでくれよ」
「安心しな、お前さんのことは噛まないから」
「お前喋れるのか?」
「お前さんは、拙者が話してもあまり驚かないみたいだな」
 犬が喋っても慣れきってしまい、落ち着いて檻のドアを開け、仁は餌を楓太の前に差し出した。
 楓太はゆっくりと立ち上がり、匂いを嗅いでから食べ出した。
「もしかして、人の姿になれるとか」
 仁は楓太の食べている様子をじっと眺めながら質問する。
 楓太は顔を上げて、口の周りを舌で嘗め回してからまた喋った。
「拙者は話せる力をニシナ様に与えられただけだ」
「お前、ニシナ様のことを知ってるのか?」
「なんだ、お前もニシナ様のことを知ってるのか? お前は動物の姿に変われるのか?」
「いや、僕は普通の人間だ」
「ふーん。だけどなぜお印がついてるんだ」
「お印?」
 楓太が自分の額を前足で何度も触って場所を知らせた。
 仁もそれに合わせて自分の額に触れる。
 そして、キイトがここにキスしたことをおぼろげに思い出した。
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