第三章


 気休め程度ながら、昨晩は遅くまで勉強したために、朝、犬猫に餌を与えながら、仁は大きな欠伸をしていた。
「かなり眠たそうだな」
 檻の中から楓太に指摘されて、仁はもう一度出そうになった欠伸を無理にかみ殺し、目尻に涙をにじませながら苦笑いしてしまった。
「まあね。楓太はよく眠れたかい?」
「そうだな、悪くはなかった」
「でも、そんなところで寝るのは窮屈だろう。家に帰ったらもっとゆっくり寝られるさ。ちゃんと可愛がってもらってるんだろ」
 仁はまた欠伸が出そうになっていたのを飲み込む。
「ああ、中々居心地はいいと思うし、いい関係を保っている方だ」
「まさか、家では飼い主と言葉交わしてるのか?」
「拙者が話せることは秘密になってる」
「それじゃ、なぜ僕には話しかけたんだい?」
「昨年の騒ぎで、この辺の犬や猫は大きな黒猫と狼を目の当たりにした。奴らは特殊な信号を発して拙者たちに助けを求めてきた。拙者もニシナ様の命令で、様子を見るために奴らに加担しろと言われたのさ。それでその時、お前さんのことも知ったって訳だ」
 仁は「あっ」と納得するように声を出した。
 トイラとキースは犬や猫を操り、ユキを守るためにジークと戦った。その時に楓太も参加し、そして自分もそこに居たところを見られていた。
 それなら今更隠す必要もないはずである。
「そっか、なんか世間は狭いね」
 犬相手にそんなことを言っても仕方がない。仁はなんだかおかしくなって笑っていた。
 楓太は仁をじっと見ていた。
「狭いと言えば、狭いのかもな。だがそれが必ずしもいい意味ではないのが残念だ」
「えっ?」
 意味深な楓太の言葉を耳にして、仁の笑いは消えた。
 楓太は笑うことの知らぬ犬の顔で仁から視線を外し、焦点も合わせずに前を見据える。
「楓太、なんか都合の悪いことでもあるのか?」
 楓太はそれ以上何も言わず、檻にもたれかかるように体を横たわらせた。
 肝心なことを聞きたい時に限って話が続かないことに、仁は消化不良を起こしてヤキモキする。
 そこに良子が現れたことによって、新たな用事を頼まれ、仁はそれ以上深く追求することを止めた。

 何人かが自分のペットを連れて病院に現れたが、さほど忙しくもなく、良子の邪魔にならぬ程度に、仁は預かってる動物達の相手をしながら瞳を待つ。
 楓太は朝言葉を交わしてから一言も話さなくなり、どこから見てもただの犬にしか見えなかった。
 時折気になりながら、仁が話したそうに視線を投げかけるが、まるで言葉が通じないかのように目の当たりに無視をされると、言葉を交わした事が嘘のように思えてくる。
 仁はもう一度楓太に声を掛けようと名前を呼びかけたときだった。
 檻の中で楓太は突然立ち上がり、そして前を見て尻尾を振りだした。仁が振り返ると、良子に案内されて瞳が近づいてきた。
 仁が居たことに気がついて、瞳はびっくりして一瞬体を強張らせたが、その後はニコッと笑みを浮かべた。
「こんにちは!」 
 元気よく声を掛け、ペコリと頭を下げると、ポニーテイルにしていた瞳の髪が左右に揺れた。
 仁も慌てて頭を下げて挨拶するが、いきなりだったので声の方が伴わなかった。
「楓太を新田先輩がお世話してくれたんですね。どうもありがとうございました。楓太、言うことちゃんと聞きましたか?」
「ああ、それは全く問題なかった。とてもよく懐いてくれたよ」
 それを聞いて瞳は嬉しそうに笑っていた。
 良子が楓太を檻から出し、怪我の具合を確かめてから瞳の前に差し出した。
 楓太は大人しくちょこんと座って瞳を見つめながら尻尾を振る。
 その様子は仁の目から見るとわざと演技しているようにしか見えなかった。
 それでも瞳は飼い主として慕われて当然だというように、楓太の頭を撫ぜて高い声を出して「いい子いい子」と連発していた。
「楓太っていつもこんな風に従順なの?」
 怪しむように仁は聞いてしまった。
「はい。楓太はとてもかしこいんです。まるで私の言葉がわかるかのように応えてくれるんです。ねぇ、楓太」
 楓太はここで「ワン」と返事して、仁の方をさりげなく振り向くと目を細めた。
 余計なことは話すなよと牽制されているようで、犬からの圧力に仁は困惑して苦笑いしてしまう。
 受付で瞳は支払いを済ませ、用がなくなった後も、何やらもじもじして中々その場を去ろうとしない。
 もう少し仁と話したいムズムズした感情がぎこちない瞳の動きで伝わってくる。
 いつもなら仁はそれを無視しただろうが、楓太のアドバイスを思い出し、自ら瞳に声を掛けた。
「僕も帰るところだったんだ、途中まで一緒に歩こうか」
 瞳は目をキラキラ輝かせて「はい」と答えると、ふたり一緒に病院を後にした。
 楓太はリードに繋がれて瞳より少し前を歩く。
 楓太の後姿を見ながらふたりは肩を並べて歩いていた。
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