第四章


 風が吹くたび木漏れ日が揺らぎ、きらめく光と影の幻想の中、その男は鍬を宙に掲げたまま近寄ってくる。
 戦慄が走り、仁は恐怖で体が固まり身動きできない。ただ目を見開いてその男を凝視していた。
「ここで何をしている?」
 男が尋ねると、仁はごくりと唾を飲み込んで震えだす。
「ぼ、僕、何もしていません」
 極度の緊張が体を強張らせ、心拍数がどんどん上がっていく。――殺されるのか。
「ここは八十鳩さんちの土地だぞ。勝手に入ったらだめじゃないか」
「えっ、瞳ちゃんちの土地?」
「なんだ、あそこのお嬢さんを知ってるのか?」
 知ってる名前が出てきたことで、男は少し警戒を緩め、持っていた鍬を下ろした。
 仁はそれでほっとした。
「ご、ごめんなさい。昔はこの辺子供の遊び場だったからつい勝手に入って」
「昔は大目に見られてたかもしれないが、最近はゴミを捨てに来る奴が居て困るんだ。お前もそこでゴミを捨てていただろう」
「いえ、ゴミじゃないんです。あの、その、亀を自然に戻しに来ただけで……」
「はっ? 亀? まさか外国産のカミツキガメじゃないだろうな。飼えなくなったから捨てにきたとか」
「いえ、それでもないです。極一般のこの辺りの土地に生息しているクサガメです」
 男は怖がっている仁の目を見つめその真偽をさぐる。
 直感も働き、嘘をついているようには見えず警戒心を解いた。
「とにかくだ、さっさとここから出て行くんだ」
「す、すみませんでした」
 仁が頭を下げたときだった、極度の緊張のせいか、また急に額が疼いて頭痛に襲われた。あっと、仁が思ったときには、ふらっとしてして倒れこんでしまった。
 目の前で倒れられ、男もまたびっくりしてしまう。
「おい、ちょっと、あんた、大丈夫か?」
 男はいきなりバタンと倒れこんだ仁に気が動転してしまい、鍬を放り投げて駆け込んだ。
「参ったな。ちょっと鍬で脅しすぎたか……」
 仕方がないと、仁を担いで森から出て行った。

 仁が気がつくと木の枝の緑の葉っぱがさやさやと揺れている光景が目に入った。仁は畑のすぐ側の木陰で寝かされていた。
 むくりと起き上がり、前方を見れば、さっきの男が目の前で畑仕事をしていた。
「おっ、気がついたか。大したことなくてよかった。心臓発作で死んだらどうしようかと思ったぞ」
 首に掛けていた手ぬぐいで汗をふき取りながら、男は仁のところへ近づいてきた。
「ほら、ぬるくなってるけど、水分補給だ。飲め」
 ペットボトルに入った水を手渡され、仁は夢見心地ながらそれを手に取った。
「あ、あの、さっきはどうもすみません」
「もういいって。俺は八十鳩さんとこで雇われてるカネタっていうもんだ。この辺りの畑を任されてるから、あんたが森の中に入っていくところみて不審に思ってちょっと脅かしただけなんだよ。よほど怖かったみたいだな」
 外で働いてるだけあって肌は日焼けして黒く、体も筋肉質で締まっていた。
 年はおじさんと呼べるほど老けてもないが、仁の目からみれば、三十前後に見える。
 目がやや細いのできつい感じだが、ニカッと笑った笑顔を見せたので悪い人じゃないんだと仁はほっとした。
 ペットボトルの蓋をとり、水を喉に流し込む。水が体に浸透して喉の渇きは癒されても、頭のズキズキ感は拭えなかった。
 血液が運びこまれるごとく、それにそってどくんどくんと少し痛む。
 我慢できないほどでもなかったので、何もない様子でカネタに笑顔を見せた。
「何から何までご迷惑お掛けしてすみません」
「八十鳩のお嬢さんの知り合いだし、まあ、いいって。俺も過度になりすぎただけだ。悪かった」
 カネタの素直な謝罪で仁は益々打ち解けていくようだった。
「ところで、あんた名前は?」
「僕は新田仁です」
「ふーん、ジンか。いい名前だな。もしかしてお嬢さんの彼氏か?」
「えっ、いえ、その、ち、違います!」
 婿にされそうになったことを思い出すとつい力んで否定してしまう。
 それを見てカネタは冷やかすような目つきで笑っていた。
「隠さなくてもいいって。あの家は結構金持ちだ。このあたりの地主みたいなもんだ。取り入ったら逆玉の輿だな」
「だ、だから、本当に違うんですってば。逆玉の輿とか全然興味ありません。それに僕、ちゃんと好きな人が居るんです」
「ふーん。まあ俺の知ったことじゃないから別にどうでもいいけど、でも八十鳩家は金や力を持ってるってのは事実だ。そのうちあんたも気が変わることもあるかもな」
「ですから、僕はそういうの一切興味ないんですって。僕はある女の子一筋ですから」
「へえ、よほどその女の子が好きなのか。最近のガキはませてるんだな。そしたらあっちの方もお盛んか?」
 仁は急に息が詰まって喘ぐように慌てた。
「あ、あの、その。そういう話はその……」
 その様子を見てカネタは退屈しのぎができたと大いに笑っていた。
 そして慌てる仁を放っておいて、また畑仕事に戻っていった。
 結局はからかわれていたにすぎなかった。青空を見上げ、仁は一息つくと、ゆっくりと腰を上げて立ち上がった。
「カネタさん、ほんとうに色々とすみませんでした」
 背中を向けているカネタに仁は少し大きな声で叫んだ。
 カネタが振り向くと仁は頭を下げる。
「気にすんな。気をつけて帰れよ。この辺りには人を化かす狸や狐が一杯いるからな」
 冗談のつもりということは分かったが、仁には実際そういうものと付き合ってるので笑うに笑えなかった。
 愛想笑い程度に口元を上げたが、ふいにまた頭痛がぶり返してきてしまい、少し顔が引き攣ったようになっていた。
 畦道を歩き、自転車を手にしてそしてその場を後にする。
 カネタは細い目を益々細くして仁のその様子をじっとみていた。
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