第四章


 仁がユキの家にやってきたとき、時計は午後四時になろうとしていた。
「仁、遅かったわね。今までどこにいたの?」
 玄関でユキの顔を見るや、仁はどこかほっとするような安心感が湧き起こった。
「そ、それがさ」
 命からがら逃げてきたような話でもするように、仁は瞳のことから亀を捨ててカネタに脅かされたことまでの一部始終を話し始めた。
 ユキはそれを聞きながら仁をうちに上げ居間まで案内し、そして冷たい麦茶をグラスに入れて、ソファーの前のコーヒーテーブルにそれを差し出した。
 仁は冒険話の小説のように大げさにまだ話し続けている。
 ユキも多少の脚色をおかしげに笑いながら安楽椅子に腰を掛け、仁の話を最後まで聞いた。
「なんか大変だったわね。瞳ちゃんって積極的な子だと思ったけど、おじいさん、おばあさんゆずりだったのね。でもお母さんの花梨さんがまともで助かったね」
 他人事のように笑いながらいうユキに仁はどこか物足りなさを感じてがっかりしてしまった。
 少しは心配してくれてもいいじゃないか。
 いや、それとももっと他の感情があっても──。
 そんな気持ちを口には出せないが、さらにその後のユキの言葉で仁は傷ついてしまう。
「だけど、瞳ちゃんってかわいいし、家もお金持ちだし、逆玉の輿狙えるじゃない」
 カネタにも同じように言われたが、ユキの口からそういう言葉が軽く出るのが気に食わなかった。
「なんだよ、僕はユキのことが好きだっていってるだろ。どうしてそんなこと軽々しく僕に言うんだよ。僕がずっとどういう気持ちでいたかユキには全くわかってないんだ!」
 いつもなら軽く流せたかもしれない。
 しかし、トイラが再び現れて、人間になれる方法があるかもしれないこの時、仁は自分の心に嘘がつけなかった。
 失望したような黒くぼやけている仁の目がユキをはっとさせる。
 ユキにしても、トイラを失ったと思ったときから苦しみ、そして知らずといつも側にいる仁を頼るように過ごしてきた。
 トイラとの想い出を唯一共有できる立場から、仁だけが自分の気持ちを分かち合い、仁といるときが最も安心できて慰められた。
 仁は惜しみない優しさで、いつまでもユキの気持ちを尊重してくれた。
 それが当たり前すぎて、仁が自分に惚れていることを知っていながらそれを利用するように側に居た。
 仁が言った最後の一言はユキの心に突然差し込むように罪悪感を与えた。
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ。つい…… ごめん、仁」
 仁もまたユキの謝罪をどう受け止めていいのかわからない。
 自分が発した言葉は自分に返って来るように自分自身が責められてしまう。
 自分の気持ちを無理に押し付けていたつもりなどなかったが、あの言い方では自分に利益があってもいいような押し付けがましさが虚しく響く。
 仁もまた後悔するが、処理の仕方がわからずに自らの言葉に気持ちを惑わされていた。
 突然静まり返ったとき、手持ちぶたさで目の前のグラスを手にして、仁は勢いで麦茶を飲んだ。
 その勢いが仇となって気管に入り込んで突然むせて咳き込んでしまう。
 体が飛び上がるくらいの咳を吐きながら、仁が苦しみ出してユキもまたびっくりしてしまった。
「仁、大丈夫?」
 心配して咄嗟に立ち上がり、側まで駆け寄って仁の体に触れたときだった。
 突然ユキは頭にずきっとする痛みを感じ、その直後意識が遠くなっていった。
 ユキの体もまたぐらついた。
 苦しそうに咳をしながらも、仁はむせ返りながらユキを支えようと立ち上がるが、仁もまたふらついてしまった。
 二人ともバランスを崩して倒れるという時だった。
「おい、仁しっかりしろ」
 ユキの声だが喋り方が男っぽく、そしてがっしりと体を掴まれた。
 ユキが倒れ掛かった一瞬でトイラが出てきて、仁を支えていた。
「トイラなのか? ユキが倒れそうになるほど突然出てくるなよ」
 まだ咳が残りながらも、なんとか声を絞り出す。
「俺じゃない。ユキが勝手に倒れたんだ。だから慌てて出てきたんだよ。仁が変な行動するからユキは慌てて立ったときに立ちくらみを起こしたんじゃないのか」
「ぼ、僕のせい?」
 トイラは仁をソファーに座らせ、ため息を一つついた。
「お前の気持ちも分からないでもないさ。仁は今までずっとユキを支えてきたもんな。俺もそれはずっと見てきたよ」
 同情するかのように悲しげな目を向けられるが、それがユキの表情を通してなので仁は益々複雑になって目をそむけた。
「ユキの姿をしたトイラに言われても全然慰めにもならないよ。放っておいてくれ。これは僕の問題だ」
 トイラも仁のそんな様子にどうしていいのか分からず、一度大きくため息を吐き出す。
「それなら自分が納得いくまでユキと話をするしかないな」
「何を納得するまで話せばいいんだよ。話すことなんて何もないんだ。この一年、ユキとずっと一緒にいてもユキは僕のことなんて空気のようにしか思ってな かった。それでも僕はバカだからいつか報われるってそう信じてたところがあった。でもやっと気がついたよ。僕はユキの心には絶対入り込めない」
「バカ野郎! この先もユキの側にいてやることができるのは、仁、お前だろ」
「なんで僕なんだよ。トイラだってユキのこと好きなくせに。今更お情けかよ。だったらそんな見えすぎた慰めなんていらないよ。それにカジビを探せば、ユキ はやっとトイラと結ばれることができるじゃないか。僕は絶対にカジビを探してトイラを人間にしてやるから。そしたら僕もこれでやっと諦められるし……」
「何寝ぼけたこと言ってるんだ。いい加減にしろ!」
 トイラは腹が立つと同時に仁の胸倉を掴んで持ち上げ、勢い余って殴りつけてしまった。
 その拍子に仁はわき腹を下にして倒れこんだ。
 その時胸の中に入れていた瞳から貰った石が飛び出して、床を軽く滑っていく。
 仁はそれに気がつかず、トイラに刃向かうつもりですぐさま立ち上がった。
 口を一文字にきゅっと結んでいるユキの表情を見つめるが、この時はトイラの意識であると分かっていても、ユキが怒っているようにしか見えなかったために、怒りが水をかけたように静まっていった。
 冷静になると、トイラを説き伏せるかのように疑問をぶつけた。
「寝ぼけたことを言ってるのはトイラの方だろう。トイラは人間になりたくないのか?」
 今度は仁の方が哀れんだ眼差しでトイラを見つめる。
 仁の落ち着きを払った態度が、押し込んでいた気持ちにストレートに届き、余計にトイラを苦しめてしまった。
「俺は、俺は……」
 トイラは「なりたくない」と嘘でも言ってしまいたかったのに、不意に自分の姿を映す目の前の窓のガラスをみてしまい、そこに映し出されたユキ見つめて言葉につまってしまった。
 トイラもまた苦しくて仕方がない。
「トイラ、どうして素直に人間になりたいと思わないんだ? その方法が本当にあるじゃないか。今度こそユキと一緒になれるんだぞ」
「仁、キイトから直接その方法について聞いたそうだな。それは全てを聞いたということか?」
 仁は力強く頷いた。
「そっか、だったら分かるはずだ。俺が拒む理由が。俺はもうとっくにリスクを伴うことに気がついてるんだよ。仁はそのことについては何も感じないのか?」
 仁はぐっと息を噛み締めるように口を閉じた。そして静かに目を閉じ呼吸を整える。
 キイトから方法を全て聞いたが、ユキには肝心なある部分を隠して伝えただけだった。
 トイラがそのことに気がついていることに仁はうろたえてしまう。
 再び目を開けたとき、力強い瞳を向けた。
「なんだ、そんなことか。本当ならこのことは実行するまでずっと黙っていたかったんだけど。さすがトイラだな。でも心配するなよ。いざとなったら僕が協力するさ」
「お前…… それがどういう意味かわかって言ってるのか?」
「そんなこともういいよ」
「いい訳ないだろ!」
 トイラの怒りがユキの全身を通じて震えている。
 ユキに責められているようにも見えるため、反発するように体に力を込め踏ん張った。
 仁もここまで言い切った以上、後には引けないと強気で姿勢を構える。
「こんなこといい合っても、いずれはトイラはユキを飲み込んでしまう。今一番しなければならないことはカジビを探す事が先決だろ。それしかどっちにしても 解決策がないんだから。とにかく早く見つけないと何もかも手遅れになってしまう。いいか、このことはまだユキには知らせないで欲しい。ユキが知ってしまえば、悩みを増やしてしまうだけだ」
 もちろんそんなことはトイラもユキには話せない。選択の余地がないまま、トイラは黙り込んでしまった。
「そろそろユキと話をさせてくれないか。さっきのことも謝りたいし」
「ああ、わかった」
 トイラがそう呟くと、ユキは突然足元から崩れ落ち、まだ気を失ったままの状態だった。
 仁は慌てて手を伸ばしユキを支えこもうとしたが、ユキの体に手は届いたものの慌てて行動したために抱え込んだまま一緒に床に倒れこんでしまった。
 二人は折り重なって床に寝転がっていた。
「ユキ、しっかりしろ。大丈夫か?」
 仁が体制を整え、身を起こしてもユキはまだ気がつかなかった。
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