第六章


 ユキが危ない目に遭っているとき、トイラは自分の意識を外に出そうと必死でもがいていた。
 けれどもキイトに掛けられた術のせいで、檻に入れられたように外に出る事ができなかった。
「くそっ、くそっ、こんな大事なときに限ってなんで出られないんだよ」
 ユキが首を絞められ、トイラも一緒になってもがき苦しむ。
「誰か、誰かいないのか」
 一時は楓太が現れたことで助かったと思ったが、それは気休め程度で終わってしまい、再び狂ったように意識を外に向けていた。
 次に仁が現れたが、仁が戦って勝つような相手ではないとトイラはすでに絶望感を抱いてしまった。
「なんとか方法はないのか」
 仁がユキに触れたときだった、トイラはビリリと衝撃を感じ声を聞いた。
「ふたりを助ける方法がある」
 何もない空間でしゃがれた声が響いている。
 トイラは辺りを見回す。
「誰だ」
「私は山神のニシナだ。儂の体を使い外に出て来い」
「そんなことが可能なのか?」
「儂を誰だと思っておる。山神だぞ。この山で一番力を持つもの。その偉大な力をお前に貸してやる。仁がユキの体に触れているうちに強く念じなさい。さあ、早く」
 トイラが外に出たいと念じたときだった。
 体が引っ張られるように勢いつけて宙を舞った。それと同時に力が漲ってくる。かつて自分の森で黒豹として敵を倒したあの気力。再びトイラは手にした感触を得た。そして気がつけば沼の中に立っていた。その姿はトイラそのもの。
 しかし、体を再び得たことに驚いている暇はなかった。
 目の前でユキと仁がやられている。その瞬間トイラは怒り任せに声を荒げて叫んでいた。

「そっちこそ、ふざけたまねすんじゃねぇ!」
 突然怒りの声が響き渡った。
 カネタが声のする方向を見れば、沼の中でトイラが立っていた。
「お前は誰だ」
「俺はトイラだ」
 トイラは機敏な瞬発力でカネタめがけて飛び掛った。
 激昂したトイラは、かつての黒豹のごとく敵を容赦しない。
 ずっと戦ってきた感覚は忘れてはいなかった。
 黒豹には変身できなくとも、身は軽くカネタの動きよりも早かった。
 カネタは顎を蹴られ、腹をつかれ、よろめきつつあった。
 その時、手から尖った爪を出し、トイラを斬りさこうとした。
 トイラは間一髪のところでかわすが、武器をもってない分、動きが慎重になってしまった。
「やはり、お前はただの人間じゃないな。獣の力が備わってる」
 トイラは鋭い目つきでカネタを睨む。
「それがどうだっていうんだよ。悔しければお前も獣の力を使ってみろよ」
 トイラに爪を向けカネタが飛び掛かろうとしたときだった。
 ふたりの間に邪魔をするものが雷が落ちるごとく瞬時に割り込んできた。
「この山で争いごとをする者は許さん!」
 両者の争いを止めるごとく、それは突風を起こして二人を突き放す。
 トイラは手を前に組んで衝撃を和らげようと踏ん張った。
 カネタはバランスを崩して後ろに吹っ飛ばされていた。
 そして顔を上げたとき、カネタは目の前の巫女の姿をした人物に目を見開いて、驚きを隠せないでいた。
「キイト、落ち着け」
 トイラが叫ぶ。
「誰だお前は」
 キイトは目を凝らしトイラを凝視する。
 生意気そうな雰囲気。ワイルドに跳ね上がった黒い髪。そして緑の澄んだ瞳。
 ユキを通して話をしてきた人物――トイラ。
 キイトが状況を飲み込むにはそんなに時間がかからなかった。
「キジバトの緊急信号を受けてきてみれば、なんだか知らないが、トイラが人の姿になってるとは驚いた。カジビの仕業とは思えんが」
「その話は後だ。キイト、目の前に居る奴が、過去にお前を斬った奴だ。そしてこいつが赤石を狙っている悪党だ」
 それを聞いたとたん、キイトの目が炎で燃え上がるほどにぎらついた。
 全く違う人格が現れたように、その表情は憎悪で恐ろしいものに変化していた。
「お前が……キイトを……斬ったのか」
 怒りで声が途切れ途切れとなり、我を忘れそうなくらい感情が爆発しそうになっている。
「自分のことを名前で呼ぶなんて幼稚な奴だな。その分じゃ記憶がないみたいだな。しかしあの傷を受けてよく生きてたもんだ。俺はてっきり死んじまったと思ってた。まあいい。もう一度お前を斬るまでだ」
 カネタが飛び掛ろうとした瞬間、キイトは懐から鏡を取り出し、それをカネタの前に向けた。
 怒りの形相で呪文を唱えると、カネタの動きが封じ込まれ、そしていとも簡単にカネタはぱたりと前に倒れこんだ。
 トイラは違和感を持ちながらそれを見ていた。
「おい、その術は……」
 トイラが言い掛けたが、キイトは黙ったままさっきまでの怒りを捨てたように、持っていた鏡を静かに覗き込む。中では閉じ込められたカネタの姿が蠢き必死にキイトに助けを乞うていた。
 暫くカネタの歪んだ慌てふためいた姿を無表情で見ていたが、覚悟を決めるように再び体に力を入れた。
「キイトの仇! 問答無用」
 拳で鏡を割り、そしてそれを抜け殻となったカネタの体に投げつけた。
 ヒビが入った鏡はピリピリと稲妻のようにスパークし、カネタの体は青白い炎に包まれて燃えていく。
 そして容赦なく全てが燃え尽きた。火が消えた跡にはかわいらしいアライグマがポツンと座っていた。
「もうこれで悪さはできぬ」
 アライグマとなったカネタ――いや、カネタはアライグマの力を持つものだった。この山には生息しない外来種。ということはどこかの国から紛れこんだ特別な力を持った輩だった。
 キイトはそれを分離し、人の姿の方をこの世から抹消した。これでカネタはただのアライグマとなってしまった。
 そうして怖がるようにそそくさと山の中へと消えていった。
 全てが済んだとキイトは懐から赤石を取り出し、それを愛おしく抱いていた。
 全てを見ていたトイラは疑問をキイトにぶつける。
「おい、あの術は確かカジビしか使えなかったはずだが、お前もしかして、カジビなのか?」
 キイトはトイラに振り返り、ニコッとしていた。
「ああ、そうだ。ずっとキイトのフリをしていた」
「それじゃ、キイトはアイツにすでに殺されていたのか」
 目の前の巫女は悲しく首を一振りしていた。
「詳しい私の説明は後だ。それよりも仁とユキの手当てが先だ」
「あっ、その通りだ」
 トイラはユキの下へ駆け寄った。
「ユキ、しっかりするんだ」
 ユキを抱き起こす。再びこの手で触れられたことにトイラは愛おしくユキを抱きしめた。
「気を失っているだけだろう」
 カジビは葉っぱを手にしてそれを指でもみ合わせユキにかがせた。
 ユキはその刺激で意識を取り戻し目覚める。
「ユキ……」
 トイラは安堵とそして再び触れられた喜びとで涙声になっていた。
「トイラ……もしかしてまた意識同士で触れ合ってるの?」
「いいや、どうもそうじゃないみたいだ」
 ぼんやりとしていたユキの意識は一度に晴れ上がり、ありったけの力を込めてトイラにしがみついた。
「えっ、うそ。それって人間になれたってことなの」
 喜びに満ちたユキの声だったが、それに対してトイラは何も答えなかった。
 トイラとユキが抱き合っているその側でカジビは沼に倒れていた楓太と、仁の意識を取り戻そうと手当てをしていた。
 楓太は、あっさりと息を吹き返したが、仁はなかなか目を開けなかった。
 カジビの顔が強張った。
「ふたりの邪魔をして申し訳ないのだが、仁の意識が戻らない。かなりダメージを受けたのかもしれない」
 ユキはここに仁が居たことを知らなかった。
 側で汚れて倒れている満身創痍の仁を見つめ顔を青ざめた。
「仁の奴、カネタからユキを守ろうと必死だったんだ」
 トイラがやるせなく呟いた。
「仁……仁!」
 ユキは仁が死んでしまうのではと恐ろしく怯えた。
 楓太も何とかしたくて仁の頬を舐めていた。
 その時、仁のパンツのポケットが光を帯びたと同時に、仁の額に記号のような文字が浮かび上がった。
 カジビがはっとしてポケットに手を入れて石を取り出した。
 白だと思っていた石が、今では赤みをさしていた部分が益々赤く広がり、殆ど赤い石になりつつあった。
「仁がもってたのか」
 カジビの声が震えていた。
「おいっ、どういうことなんだ? カジビ、説明してくれ。仁は危ない状態なのか?」
「えっ、キイトがカジビ?」
 ユキはこんがらがっていた。
 カジビは説明しようと落ち着いて話し出した。
「ああ、仁の命は今かろうじてこの石が繋ぎとめている。これが本当の赤石だ」
 ユキもトイラもカジビの掌にのっていた石を見て目を見張った。
「じゃあ、そっちの赤いルビーみたいな石が偽物なのか」
 トイラはもう一つの赤石を見ていた。そっちの方がルビーらしく見えていた。
「これは偽物というより、キイトの命の結晶だ」
 カジビは過去にあった本当の話を語る。
「あのカネタという余所者は正体を隠して人間に成りすまし、この町へと入り込んだ。いわゆるトイラと同じ立場の外国人ってことさ。キイトだけが余所者の正体をいち早く 見破り、そして私たちと同じ力を持つ種族だと気がついたんだ。赤石の存在は山のものは知っていても、誰一人それを見たものはいない。知っているのはニシナ様 と巫女であるキイトだけだった。赤石がある場所も極秘だったが、危機を感じたキイトは万が一に備えてそれをもっと安全なところへ隠そうとした。ところが、 カネタはキイトに早くから目をつけ行動を監視していた。その時、運悪くキイトはカネタに襲われてしまった」
 ユキが見た映像はこれだった。
 真相を知れば全ての辻褄があった。
 カジビは更に話を続ける。
「赤石は見た目は白い石だ。だが、山の者が抱く、愛や絆といったものに反応したとき、赤く熱を帯びて光り出す。赤石とは、この山に住むものの全ての絆の象 徴。一人がもったところで何も力はない。山神が山の者の幸せを願い、皆の心を一つにさせることで山の力を最大限に引き出せるものだ」
 ハート型の石は赤く染まり、輝きを増した。そしてキイトの命の結晶と呼ばれた赤石も同調して同じように輝いていた。
「キイトが発した信号を感じて、私が駆けつけたときにはすでに彼女は虫の息だった。体が弱いキイトには助かる見込みはなかった。それでも最後の力を振り絞 り、キイトは私にキイト自身に成りすますことを指示した。盗まれた赤石を取り戻すため、あれが偽物であるということを思わせるために残り少ない命を結晶に 変えて自ら赤石のふりをしたんだ。そして私は、キイトを襲った犯人を油断させるため、自ら自分が悪者になるように噂を流し、キイトの命の結晶を赤石として ニシナ様の祠に祭った。この話を知っているのは私とニシナ様のふたりだけだった」
 その時楓太が「拙者も数に入れておいてくれ」と口を挟んだ。
「ああ、そうだった。お前はニシナ様に選ばれた犬だったな。そして私の正体にも気がついていたんだな。今回は大変な役目だった。お前もよく頑張った」
 楓太にしてみれば、ご主人さまはふたりいたということだった。
 ニシナ様とそして八十鳩家の花梨。
 ニシナ様から花梨が赤石を盗んだとき、楓太はどちらか一方を立てる事ができなかった。
 告げ口をすれば花梨を裏切る。かといって花梨を匿えばニシナ様を裏切る。
 誰にも言えないことが楓太の立場を辛くしていたということだった。
 そしてヒントを仁やユキに与えることでなんとか第三者の手を使って穏便に解決しようとしていたという訳だった。
 カジビの説明で徐々に謎が解けて大体のことが分かってきた。
「そうやって、本物の赤石を取り返して、そして犯人を見つけようとしていたんだな」
 トイラが言った。
「ああ、そうだ。一度赤石が狙われていると噂が流れると山の者たちはひと一倍警戒して、ニシナ様をお守りした。そして本物を盗んだカネタはまんまと騙され て、手にしていたものを偽物と思い、それを捨ててしまったのさ。それからもう一度チャンスを窺いキイトの命の結晶の赤石を狙っていたというわけだ。そこに セキ爺と花梨の出来事が加わってややこしくなってしまったが、これで赤石のことは全て解決した」
 カジビはキイトの命の結晶にキスをした。
 そこにはどんな思いがこめられていたのだろうか。
 カジビの瞳が薄っすらと潤んでいる。
「さあ、キイト。お前はもう自由だ。好きなところに行くがいい」
 カジビがそう呟くと、命の結晶はまばゆい光を放ちて宙に浮いた。
 そして全てが光となって徐々に形が消えていく。
 最後に目に幻影だけが焼きついていた。
「あれでよかったの? カジビはキイトの事が好きだったんでしょ。形は違えどそんな簡単に彼女を手放せるものなの」
 ユキは自分とトイラを重ね合わせていた。
「私はキイトを束縛できない。彼女が望めばそれに従うしかないのさ。私もキイトを愛しているからね」
 本物の赤石がまた強く光り輝き出した。
「さて、後は、お前達の問題が残ると言うわけだ」
「それであの、仁は助けてもらえるんですか?」
 恐々とユキが聞いた。
「それは仁次第になるが」
「どういうことですか?」
「私がトイラを人間に変えられる話は知っていると思うが、それをするにはある準備が必要なんだ。そのことをユキは全て知っているのかい?」
「いいえ。すべて仁が準備を整えたって言ってたのを知ってるだけです」
 カジビは今度はトイラの方に問いかけた。
「トイラ、君はそのことに納得しているのかい?」
「もちろんそんなこと納得できるわけがないだろう」
 トイラは気持ちをぶつけるように叫んでいた。
「一体何を話しているの?」
 ユキには話の内容が見えなかった。
 カジビは自分の口からは何も答えられないと首を横に振った。
「暫く、話し合う時間が必要だな。ニシナ様もそうすべきだと、もう少しトイラにその体を与えているみたいだから」
 カジビは楓太を連れて離れていった。
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