第六章


 仁が痛々しい姿で横たわっている。
 仁も救いたい。もちろんトイラも救いたい。
 ユキは何をどうすべきか分からずにおろおろとしていた。
「ユキ、落ち着くんだ。まずは俺たちがしっかりと話し合わねばならない」
 トイラがユキに真剣な目を向けた。
 美しい透き通る緑の目。見つめられるとユキは泣きたくなってくる。
 トイラがいつも真剣に語るときは、ユキにとってあまりいいことではない。
「トイラ、どういうこと? トイラは今人間になっている。このままその姿ではいられないの?」
「ああ、これはニシナ様の体を借りた状態だ。ニシナ様が俺に特別な力を与えてくれてこの姿を保っているんだ。俺がこのままではニシナ様や山の者達が困ってしまう。俺は一刻も早くこの体を返さないといけない」
「また私の中で意識となるの?」
 ユキの声は震えていた。
「いや、もうそれもできない。俺はユキの体から出る事ができたんだ。切り離すことによってその命はお前のものであり、もう俺には関係ないんだ」
「だったら、カジビが手伝ってくれるんでしょ。だってトイラを人間にするって約束してくれたもの」
 希望を失いたくない切羽詰ったユキ。その思いの裏で嫌な予感を感じてしまう。
「そうするにはある準備が必要だ。ユキ、今の俺の姿を見てなんとも思わないか? なぜ俺は人間になれたと思う? よく考えてみてくれ」
 ユキはトイラの言ってることがすぐに飲み込めなかった。
 暫く考えていたが、仁の準備が整ったと言った言葉、そして仁が助かるには仁次第だというカジビの言葉、それからトイラがニシナ様の体を借りて人間になった姿、それらはパズルのピースが組み合わさるようにはっとした。
 トイラが人間になるのを拒むその理由は一つしかない。
 誰かが犠牲にならないといけない──。
 ユキは横たわる仁の姿を見つめて、驚きのあまり声が出なくなった。
「やっと気がついたみたいだね」
「それじゃ仁が準備が整っているといったのは、自分の体を提供して犠牲になるつもりだったってこと?」
「そうだ。仁は最初からそうしなければ俺を助けられないことを知っていたんだ」
「そんな」
「ユキ、今度こそ本当のお別れだ」
「いや、いやよ。またあの苦しい身を切られるような辛さを味わわないといけないの? そんなのいや。山神様やカジビに頼めば、きっと他に方法があるはずよ。お願いもうどこにも行かないで」
 ユキはトイラを無我夢中で抱きしめた。後から後から涙がこぼれてくる。
 トイラも自分の気持ちが込められるだけの力を出し切ってユキを抱きしめ返す。
 そしてカジビに視線を向けて、準備ができていると知らせた。
 カジビが再び近づいてくると、まず仁の様子を窺った。
 仁の額に出ていた文字がどんどん消えかかっていた。
 それはかつてキイトからキスをされたときにつけられたお印だった。
 仁の切ない思いを受け取り、助けたいやりたいと気持ちを動かされ、キイトのフリをしていたカジビが仁のために力を与えていた。
 本来の力以上に発揮できる源として、何かの役に立てばという気持ちからだった。
 それが今の仁の生命を維持する力となっている。
 だがその威力が次第に弱くなってきていた。
「仁の意識が離れようとしている。このままでは仁は助からないかもしれない」
「なんだって!? カジビ、なんとかしてくれ」
 トイラは大切な友として仁を見つめる。
 自分を犠牲にしようとしてまでトイラを助けようとした仁。
 ぐっと腹にやるせない感情が込みあがってくる。
「トイラ、君なら助けられるかもしれない。すぐ仁を引き戻してくるんだ」
 カジビは赤石に触れろとトイラに差し出す。
 トイラは迷うことなくそれに触れた。
「あっ、トイラ」
 ユキは涙の中でぼやけるトイラの姿を見つめていた。
 石に触れたトイラはすーっと空気に溶けていくように姿を消し、代わりに足元に亀だけが残っていた。
「トイラはどうしたの? 仁はどうなっちゃうの?」
 ユキがおどおどとしていると、亀が痩せこけた初老の姿と変わり、優しい眼差しでユキを見つめていた。
「ニシナ様、お怪我はございませんか」
 キイトの姿のままでカジビは頭を下げた。
「おお、カジビ。私は大丈夫だ。とにかくこのお嬢さんに説明してやりなさい」
「はい」
 ユキは落ち着きなく慌てていると、カジビはユキの手をとってそこに赤石をのせてやった。
 そのとたん目の前にトイラが走っている姿が映った。
「トイラ!」
「ユキ、今君はトイラと仁がいる世界を覗いているんだ」
 カジビの声が耳元で聞こえる。
「彼らには君が見えないが、ユキはふたりの姿を見ているんだ」
 
 トイラは霧が立ち込めた視界が悪い空間を闇雲に走っていた。
 時折「仁!」と叫んでいる。
 暫くして、光が漏れるように霧が晴れてくると、黒い影が揺れ動いているのが見えてきた。
 トイラがそれに近づくと、それは屍になったようにふらふらと歩いている仁だった。
 トイラは尽かさず仁の肩を掴み、振り返らせた。
「仁、こんなところで何してるんだ。早く自分の体に戻れ」
「あっ、トイラこそ、ここで何してるんだ。君こそ僕の体に行け」
「何を言ってる、お前を犠牲にしてまでそんな事ができるか」
「だけど、ユキはトイラを愛している。僕には入り込める隙間などどこにもない。だったら、ユキの願うことをしてやりたい。僕の体が役に立つのなら本望さ」
 仁はへらへらといかれた様に笑っている。
「仁! ユキはお前のことも大切なんだ。お前を失くしたくないと思っている」
「トイラの事の方がそれ以上の気持ちだと思うんだけど。それじゃユキに訊いてみたらいい。どちらの意識を引っ張り出すのがいいのか。それが一番いい方法だ」
 トイラは絶句した。
 ユキは一部始終を見ていたが、自分がこの状況を納得してみていられる訳がない。
「カジビ、助けて。ふたりを連れ戻せないの」
 必死に懇願した。
「だめだ。体が一つしかない。どちらか一方しか助けられない」
 その時、仁が辺りをキョロキョロとし出した。
「ユキ、どこかで君は見ているんだろう。さあ、早くトイラの意識を僕の体に」
 仁はふわふわとしていて、薄笑いを顔に浮かべていた。
 どんどん仁らしさが損なわれて消えていきそうだった。
 トイラは覚悟した。
「ユキ、聞こえるか? これからいう事をよく聞いてくれ。俺はお前を愛している。それはよくわかっているだろう。そしてユキも俺の事同じように愛して欲しい。俺のことを強く思ってくれ。俺の俺の気持ちだけを考えてくれ」
「そうだよ、ユキ。トイラの言う通りだよ。何も迷うことはないさ。僕はそれでいいって言ってるんだから。それに僕の体がトイラになるんだったら、トイラも僕になるってことだろ。そうだ結局は僕がトイラになるんだ」
 仁は気がふれてしまっている。何を言っても聞く耳をもたない。
 ユキは黙っていた。
 トイラを愛する。トイラのことを考える。
 そしてユキは手にした赤石を仁の掌に握らせた。
 赤石は火のように激しく光を放ち、仁の体も赤い炎につつまれたような錯覚を覚えた。
「ユキ、ありがとう」
 最後にトイラの声が聞こえた。
 そして光が収まったとき、横たわっていた仁の目が開き起き上がった。
 ユキはにこりと笑みを向けた。
「お帰り。戻ってきてくれてありがとう」
 ユキはあらん限りの力を込めて思いっきり抱きしめた。
「ユキ、どうしてどうして僕を選んだんだ」
 仁は信じられないと目を見張っていた。
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