第一章


 辺りが暮れかけてきた時、私はリセのアパートの前まで来ていた。
 一度立ち止まり建物を見上げ、不安な気持ちを押さえ込むようにリセの部屋の階を確かめてから気持ちを整え、中へ入っていった。
 リセがキュウジの事をどう思っているのか気になるから、ジェスから貰ったマーマレードを手渡すことを理由にして探りを入れるつもりだった。
 エレベーターに乗れば、息苦しく、またその箱の狭さに押しつぶされそうに、恐々と移り変わる階数を見ていた。
 ドアが開いたとき、ため息が一つ無意識に吐き出された。
 リセの部屋のドアの前まで来て、私は強く願ってしまう。
 あの後、奇跡が起こってリセがキュウジに惚れてくれたら、そこまでまだ早いのなら、せめて少しでもいい印象を持っていてくれたらそれでいい。
 あれだけ派手に言い争いをしてるだけに、リセがキュウジに悪い印象を持ってしまうことだけは避けたい。
 もしこれがノートの上のことであれば、書きなおせたり、なんでもなかったと後日談が作れるのに、実際に起こっていることはどうやっても過去は戻せない。
 毎回、妄想するときは自分の好きなように話が進んでいくのに、上手く事が運んでくれないことで、私はこの世界を創り上げた創造主でも自信がなくなってきた。
 自分の創ったキャラクター達が、自分の意のままには動かないことがあるなんて考えてもみなかった。
 ここは一体どういう世界なのだろうか。
 自分の知っている人や事柄は存在しつつも、どんどんと違った世界になってしまう。
 そう思うと、もう修正できないくらいに軌道がずれているのではと、急に寒いものが背中を走った。
 弱気になってはいけない。
 そう思いながら、私は力強く呼び鈴を押した。
 暫くして、そっとドアが開くと、中から用心深そうにミッシーが覗き込んでいた。
 その直後、私の姿を確認したとたん、勢いよくドアが開いて笑顔を見せてくれた。
「婆さんじゃないか。さあ、入って」
 すっかりミッシーは私を友達扱いしてくれている。
 部屋の奥にいたリセを大声で呼ぶと、リセもすばやく駆け寄って、いきなり抱きついてきた。
「お婆ちゃん。心配してたのよ。あの後大丈夫だった?」
 さすが優しいリセである。
「心配かけてすまないね。ごめんよ。長居はしない。ただマーマレードを持ってきただけなんだ。三つくれたということは、皆に一つずつってことだから」
 私はポケットから瓶を二つ取り出して、それをリセに渡した。
「ありがとう」
 リセは私に座れと椅子を勧めるが、私は断った。
「リセ、正直に答えて欲しい。キュウジのことは本当にどう思う?」
 リセはどう答えていいものか思案しているとき、横からミッシーが助け舟をだした。
「悪い奴じゃなさそうだ。婆さんが泣きじゃくってる時さ、しっかり受け止めてたし、あいつも本気で心配している目をしていた。あれで私達も目が覚めたというのか、反省したんだよな、リセ」
 リセは手にしていたマーマレードの瓶を優しくテーブルに置きながら「うん」とまず返事した。
「あれは、お互い誤解したというのか、自分の考えてることを上手く表現できずにいたというのか、言葉の選び方が悪かっただけ。初対面だったから、知らない 部分があって、それで過度に自分を守ってしまったんだと思う。もし仲いい友達だったら、あんなこと笑って吹き飛ばせるような事だと思うの。ミッシーはいつ もズケズケとものを言うけど、私はミッシーのことよくわかってるから全然不快にならないもん」
「そうそう、そういうもんだよね。少し先走り過ぎたかもしれない。まあ、私も結局は悪かったって事だから、婆さん、本当にごめんね」
 ミッシーが気を遣っているのは珍しい。
 あの後、かなり軟化してキュウジと親睦を深めたことが想像できる。
 そうじゃなければ、ミッシーは今頃、キュウジの悪口を言っててもおかしくないくらいだった。
「お婆ちゃん、私も本当にごめんなさい。お婆ちゃんの知り合いだったら悪い人なんていないもの。もっとよく考えて言葉を選ぶべきだったわ」
「何言ってるんだい。一番悪いのは私さ。自分の思い通りにしようと無理やり引っ張っていったんだから。あんた達は何も悪くないさ。申し訳なかったよ」
 素直に二人に謝られるとは思ってなかった。
 こんなにもいいキャラクターだったなんて、自分で創っておいてびっくりする。
 とりあえずは、キュウジを嫌ってないってことだ。
 まだまだ名誉挽回できるのかもしれない。
「これに懲りずに、皆で仲良くやってくれたら私は嬉しいよ。キュウジも今度皆でパーティしようって言ってた」
「それ、本当? パーティはいいね。もちろん参加したい、なっ、リセ」
「そうね。またその時もっとよく分かり合えるかもしれないし」
 あー、よかった。
 まだチャンスがある。
 私は一気に気持ちが楽になった。
 でも、これからはもっと慎重にやり方を変えないと、また同じ轍を踏んでしまうとも限らない。
 私に優しい笑顔を向けてくれるリセを眺めつつ、どうやってキュウジとくっつけてよいものか思案していた。
 その時、かすかに音楽が聞こえ、ミッシーがはっと気がついてその音の元へと掛けていった。
 私が目で追っていると、リセが「ミッシーの電話」とそっと言った。
「それじゃ、そろそろ失礼するよ」
「お婆ちゃん、一人で大丈夫? 送っていこうか」
「その後、一人で帰るリセの方が危ないじゃないか。大丈夫だよ」
 どこか名残惜しそうにしてくれるリセがかわいらしい。
 こんな女性をキュウジが好きにならないはずがない。
 自分を満足させてくれる、もう一人の自分の分身を私は愛しく見ていた。
 リセはにこっと笑って、私の気持ちに答えてくれるようだった。
「また遊びに来てね」
「ああ、ありがとう」
 私が、去ろうとしたとき、ミッシーが奥から慌てて出てきた。
「あれ、婆さん、もう帰るのかい?」
「ああ、色々と世話になったね」
「私も今から仕事場に戻るところなんだ。そこまで一緒に行こう」
 椅子の背にかけてあったジャケットを取り、袖を通しながらミッシーが言った。
「今から仕事なの?」
 リセは目をぱちくりさせている。
「そうなんだよ。なんでも掘り出し物が見つかったとかいって、ボスが興奮していて、今すぐ鑑定に来てくれとかいうから仕方ない。ちゃんと特別手当払ってくれるっていうから、ちょっと行ってくる」
「気をつけてよ」
「大丈夫大丈夫。帰りはボスに車で送ってもらうから」
 ミッシーの話を聞いていて、私ははっとした。
 掘り出し物は古代エジプトの美術品に違いない。
 アレは確か、バッフルが絡んでいて、あれが原因で美術商がピンチに落ちいるはずである。
 それを救うためにピッチフォークが手助けして、そこでキュウジ達の正体がこの二人にばれてしまうというエピソードだった。
 事件も全てを解決できないが、バッフルへの憎悪が膨れ上がるという重要な要素であり、美術商のボスも周りの者と一致団結してピッチフォーク を応援しようと働きかける展開である。
 急にシリアスに持ってきて、ピッチフォークとバッフルの戦いの場面を入れてみたのだが、リセとキュウジの出会いが違ったものになってるだけに、この先が私のシナリオ通りに動くことが信用ならない。
 それにこのシーンは結構辛いものが絡んでくる。
 ここはとりあえず様子を見た方がいいのかもと迷うが、キャラクター達にとって試練の場面でもあるのでなんだか心配でたまらなくなってきた。

 ミッシーはジャケットを着ると玄関に向かい、私も後をついていった。
 リセも一緒についてきては建物の外まで見送りに来て、手を振ってくれていた。
 その後、私はミッシーと肩を並べて一緒に歩き出す。
「婆さんはどこに住んでるんだ」
 ミッシーからその質問をされるまで、この婆さんの自宅のことなど何も設定してなかったことに気がついた。
 名前もつけてなかったくらいだから、家のことまで考えている暇などなかった。
 婆さんは必要なときにキオスクに座って、やってきたキュウジたちが新聞や物を買ってくれた際に、メモを手渡ししたりする。
 時々会話は普通にするけども、プライベートのことまでは係わらず、だけど物語には欠かせない脇役だった。
 婆さんは一体どこに住んでる?
 自分でも全くわからなかった。
 しかし質問してきたミッシーにわからないとも言えない。
 適当に答えておくしかなかった。
「ミッシーの仕事先の近くだ」
「へぇ、そうなんだ。あの変は街の中心部だから、結構家賃も高いんじゃないの? そんなに儲かるの、キオスクって?」
 あの小さくて粗末なキオスクを見たら、誰もがそう思って当たり前だと思う。
 私は適当に返事をして、そこはごまかした。
 ミッシーはそれ以上突っ込んだ話はしてこなかったのは、さすがにお金の話はあまりしてはいけないと思っている。
 そこまでミッシーは下品じゃないから、私もそんな話は創らない。
 しかし、婆さんはどうやって生計をたてているんだろう。
 私も考えたことがなかった。
 あんなご都合主義の物語に、脇役の細かい設定って普通するもんだろうか。
 うーん、とここで小説の書き方について考え込んでしまった。
 どこまでキャラクターの設定を創り上げておくべきか。
 でも今はそれを考えている場合じゃない。
 この後、ミッシーは一騒動に巻き込まれ、それが大々的なニュースとなって美術商がピンチに陥る。
 掘り出しものと言われている美術品の中にはやばい物が隠されていて、それが公になって、ミッシーのボスが捕まることになってしまうのだ。
 ミッシーも多少の怪我はするし、店も荒らされて被害を受けたりと、自分で創っておいて、いた堪れなくなってくる。
 そのシーンは本当に必要だろうか。
 あれこれ、考えているうちにミッシーの職場に着いてしまった。
 通りに面したビルの一階にその店はあった。
 すでに営業時間は終わってるので、お客は一切いないが、ショーウインドウだけは電気がついて、絵画などが展示されているのが伺えた。
 周りのビル全てに明りが点灯してるので、その当たり一体はまだ賑やかさが漂っている。
 宵のうちで人通りもあるし、車も騒がしく行き交って活気に溢れていた。
 ミッシーが店に入っていこうとしたとき、いく当てもないだけに私はお願いしてみた。
「ミッシー、邪魔はしないから、その掘り出し物とやらを私も見せてもらえないかな。私も結構そういうの詳しいところがあるんだ」
 ただのでまかせだった。
「えっ、婆さんも鑑定できるのかい。そういうんだったら、別にいいよ。ボスもそういう人と会うのは好きだから問題ないし。入りなよ」
 あっさりと入れてくれることになった。
 すでにシャッターがしまっていた正面玄関のその端に別に出入りできるドアがあり、ミッシーは持っていた鍵を用いてドアを開けると、あごを一振りして私に入れと示唆した。
 中に入れば、色んな絵画が壁に飾られ、美術館のように色々な芸術品が展示されていた。
 元は自分の表現力からこの店ができてるだけに、中々おしゃれに設定しているもんだと、感心していた。
 多分、博物館や絵画展を見たときのイメージでできあがっているのだろう。
 こういう部分は適当に設定。
 そして、店の奥からスーツを着た男が出てきた。
 ミッシーはボスと呼んでいるが、この男もその場限りの必要な役柄なので、名前すらない。
 顔も適当であまり特徴ない風貌をしている。
 なんだかへのへのもへじにも見えなくはないが、それだけあまり詳細を設定してないすっきりした顔だった。
 自分の想像力がここまでと言うことなのだろう。
 そんなことはさておき、ミッシーはボスに私を紹介してくれた。
 嫌な顔せず、とにかく私を温かく迎えてくれた。
 その後、ミッシーと顔を合わせると、鼻の穴を膨らまして、かなりの掘り出し物だと興奮気味に説明していた。
「で、その掘り出し物はどこ?」
「今からここへ持ってくるそうだ。それがまだ来てないんだ」
「まだその掘り出し物を見てないのに、すでにそれがすごいものだと思ってるわけなの? その持ってくる奴って本当に信頼できるの?」
 ボスであってもミッシーは自分のスタイルを変えない。
 仕事の腕は確かなので、ボスもミッシーが友達みたにしゃべろうがお構いなしだった。
 ミッシーの目利きが信用置けるので、ここの商売も成り立っているから、ボスであれどもミッシーには頭が上がらない。
 全ては私がそういう風に創ったのだけども。
 基本的に人物がいがみ合ったり、嫌な関係になったりというものは創りにくい、思い入れのあったりするキャラクターは特に。
「ああ、それは大丈夫。うちが信用置ける店だから引き取って欲しいんだと。なんでも古代エジプトで見つかった猫の置物らしいんだけど、持ち主が亡くなって処分に困ってもってくるらしいんだ」
「ちょっと、持ち主亡くなってるって、それって呪われてるんじゃないの」
「だから持ち主は寿命でだって」
 脇役同士の絡みも見ていて中々楽しいものがあった。
 普段、キュウジとリセを中心とした場面しか話を創ってなかったから、その裏でこんなやり取りがあるとは思わなかった。
 しかし、和やかになってる暇もない。
 この後は確実に大騒動となる。
 そしてドアがノックされる音が耳に入ると、私はこれから始まる出来事の行く末を案じた。
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