第三章
9
意識が朦朧としている。
それでも、まだ自分は生きていると思った。
意識を失わないように必死にもがいているとき、全てが歪んだぐにゃっとしたものが渦をまいて、ぐるぐると襲い掛かってきた。
それに飲み込まれたらどこかへ消えてしまいそうに思えた。
苦しさと激痛で気が遠くなりそうになりながらも、キュウジを死なせたくないと、水の中から出てきた魚のように少ない空気を必死に吸っていた。
しかし、次第に力が弱まり、踏ん張りが利かなくなっていく。
混沌とした渦に段々と飲み込まれると、自分が洗い流されるように、何もかもが消えていく。
意識が遠ざかって、自分を含めて全てが無になっていくような感覚だった。
だめ、まだ消えちゃダメ。
そう思いながら、しぶとく踏ん張っていたとき、真っ白な世界だった中にじわじわと黒い靄が集まっては、一つの形に形成されて、次第と濃い影が現れた。
だんだんとはっきりした形になり、最後は人間の姿と変わりない形へと変化を遂げた。
黒い靄や影はずいぶん前から見ていたが、こうもはっきりと人間の形をしているものを見たのは初めてだった。
一体これはなんなのだろうか。
なぜまた私の前に現れたのだろうか。
その影は私の方へと近づいてくる。
そしてその影に目や口が浮き上がるように現れてきた。
それは私を見つめて、何かを伝えようとしている。
でも何も聞き取れない。
だけど、必死になって私に確かに話しかけていた。
突然その影の手が伸びてきては私の体のあちこちを触りだした。
この影はなんなのだろう。
死神? 天使? それとも?
力を持っているのなら、お願いキュウジを死なせないで。
誰か、キュウジを助けて。
黒い影は私の体を通り抜けて去っていった。
その直後、白い光が差し込み、そこへ引き寄せられるように私は飛んでいく。
私が再び目を覚ましたとき、そこは病室の中だった。
看護師が私を見て驚き、その後、医者も入ってきた。
どうやら助かったようだった。
キュウジの体の中に、私は入ったままだけど、キュウジの体が助かったのなら、それでいい。
この後リセに頭突けば、私はそこへ憑依するのだから。
キュウジ、無事でよかった。
「お婆ちゃん、聞こえますか?」
看護師が私を見て語りかけていた。
お婆ちゃん?
一体どういうことだ?
私は今、キュウジの体の中にいるはず。
なんでお婆ちゃんって呼ばれているの?
「あ、ああ」
言葉にならない声が漏れる。
一体どうなっているんだ。
「もう、大丈夫ですよ、お婆ちゃん。気がついてよかったですね」
やっぱり何度とお婆ちゃんと呼ばれている。
どうやら、私はまた婆さんの体に戻ってきたみたいだった。
だったら、キュウジはどこ?
キュウジはどこにいるの?
その後、連絡を受けたリセとジェスとスカイラーがやってきた。
そこにはキュウジの姿がなかった。
「お婆ちゃん、意識が回復してよかった」
リセは一応は喜んでくれるものの、表情が堅く、涙を目に溜め込んでいるけども、それが喜びなのか、悲しみなのかわからない。
どっちにも取れるような、複雑なものだった。
「キュウ……ジ……はどこ?」
搾り出した私の声がキュウジを求めていることが、リセの涙をもっと増やしてしまった。
「婆さん、今は余計なことを考えずに、ゆっくり安静にするんだ」
ジェスが無理に笑みを作ろうとして、口元を上げた。
そんな愛想笑いなんて一度もしたことがないのに、どうして無理に笑う必要があるんだ。
「キュウジのところに連れて行って」
「婆さん、今は婆さんの体の回復の方が先だ。無理に動くのはよくない」
スカイラーがヘラヘラしようとするが、目がどんよりとして笑ってなかった。
質問しても違う答えが返ってきたり、普段見せない変な態度をされたら、余計に心配するではないか。
キュウジが撃たれたことは知ってる。
その事について別にショックは受けないから、キュウジの容態を教えて欲しい。
「まだ安静が必要ですから、面会はここまでにして下さい」
看護師が中に割り込んで、三人を遠ざけてしまった。
三人はそれを待っていたかのように、さっさと去っていく。
ちょっと待った。
なんでそんなにあっさりといってしまうのよ。
キュウジがどうなったのか、まだ訊いてないじゃないの。
私の思いは届かず、誰もキュウジのことを教えてくれなかった。
婆さんの意識が戻っても、暫く絶対安静ということで、その後誰も面会に来てくれなかった。
私は真っ白い病室の天井を眺め、今までのことを振り返る。
色々と憑依してきたが、また元に戻るなんてなんだか反則を食らったようで納得がいかなかった。
憑依する度に思ったが、いつも最悪の結果になっては、どれも全然嬉しくない憑依の仕方だった。
結局はこの婆さんが一番ましで、しっくりとくるのかもしれない。
ここに戻ってきたことで、もう誰にも憑依できなくなった、玉止めみたいに思えてならない。
キュウジは一体どうしているのか。
不安だけが募ってしまう。
その時、ふと自分の枕元に一枚の紙が折りたたんで置かれていることに気がついた。
何だろうと思って、それを手に取り、開けてみれば、なんとそれはキュウジからの手紙だった。
親愛なるハナ
この手紙が必ずそこへたどり着くと思って書いている。
俺は大丈夫だから、心配するな。
また必ず会えるさ。
色々と募る話もあるけれど、それは今度会ったときにゆっくり話そう。
ハナとまたすぐに会えますように。
俺はただそれだけを願っている。
愛をこめて
キュウジ
えっ、やだ、キュウジったら。
私を励まそうと、こんな演出をしてからに。
それで皆にわざとあんな思わせぶりな態度を取らせたの。
そんな演出なんてしなくていいのに。
こんな婆さんでも喜ばしてくれるなんて、キュウジ大好きだよ。
こうなったらすぐにでも身を起こして会いに行きたい。
待ちきれないじゃないの。
私の不安はこれで一気に吹き飛んだ。
そしてやっと体も起こせて立ち上がれるというところまできたときだった。
看護師も私の健康状態が非常にいいと、太鼓判を押し、そろそろ退院も近いといってくれた。
その頃を見計らったようにリセが花束を抱えてミッシーとやってきた。
「お婆ちゃん、顔色もよくなって、とっても元気になってよかった」
リセがうっすらと涙を浮かべて喜んでくれていた。
「婆さん、あの時は本当にすまなかった。私の身代わりになってくれてありがとう」
ミッシーもあれから元気になったみたいだった。
「随分と心配をかけてしまったね。本当にありがとうね」
本当は皆に憑依して色々と引っ掻き回してしまったから、心配してもらう資格はないのだけれども、また婆さんに戻った以上、この役を演じるしかなかった。
「ところで、キュウジ達はどうしてる?」
リセとミッシーの顔色が変わった。
もう隠さなくてもいいって。
全てを知ってるんだといいたくなったが、リセの口元が震え、今にも泣き崩れそうになっていた。
その隣でミッシーが辛そうに口元を震わせながら言った。
「婆さん、実は、色々とあって、リセが一度バッフルに誘拐されたんだ」
そんなことは知っているって、私もホッパーに憑依してそこにいたから。
「それで、キュウジたちが助けようとして、なんとか救出することができたんだ。でも……」
勿体ぶって話しすぎ。
そこで、リセがミッシーの代わりにそこから話し出した。
「キュウジは私を助ける際に、撃たれてしまったの」
私はあまり驚かず聞いていたが、ここは驚かなければならなかったのかもしれない。
でもその時、自分がキュウジだったから知っていただけに、驚けなかった。
その先を語ってくれると思っていたら、二人は同時に黙り込んでしまった。
えっ、それで終わり?
「ちょっと、それからキュウジはどうなったんだい?」
「お婆ちゃん、キュウジは助からなかったの」
「えっ?」
「お婆ちゃん、ごめんなさい。私を助けようとしたために、キュウジは、キュウジは……」
ちょっと待ってよ。
それって、キュウジが死んだって事になってしまうじゃないの。
キュウジは生きてるよ。
だって私が寝てる間に枕元に手紙を置いていったくらいなんだから。
ここで私を騙して脅かそうとしてもダメなんだから。
その後、リセは泣きじゃくり、ミッシーはそれをなだめながらも、一緒に泣いていた。
私はどうなっているのかわからなくなった。
もしかしたら、あの手紙は私を心配させたくなくて、誰かが成りすまして書いたのだろうか。
私の意識が回復しても安静が必要だったから、元気つけようとあんな手紙をわざと書いて置いておいた?
そっちの方が残酷じゃないか。
やだ、嘘、キュウジは本当に死んじゃったの?
突然のショックに、私は胸が苦しくなり、発作を起こしてしまった。
それから、また一騒動となり、病室は慌しく医者や看護師が出入りしては大変な騒ぎを起こしていた。