遠星のささやき

第十章

2 

 三岡君は離婚のことで美幸と揉めていた。
 揉めないで離婚できる方が稀というもの。
 一時は憎かった存在だけど、この時は却って同情してしまう。
 愛人という立場にそんな風に思われてると思ったら激怒に値するだろうが、苦しんできたのは私も同じこと。
 立場が逆になっただけ。
 きっと向こうもかつては私を哀れんでいたのかもしれない。
 それとも意地悪くほくそえんでは勝利を喜んでいたのかもしれない。
 だけどそんな風に考える自分の方がさもしかった。
 美幸にとって三岡君から別れを告げられたのはこれで二度目。
 一度目は子供ができたことで繋ぎとめられたが、今度はそれも役に立たないほど三岡君の心は私に傾きすぎている。
 美幸は地獄に落ちるような思いで苦しんでいるはず。
 そして子供を抱きしめて泣いている様子が漠然としたイメージとなって目に浮かんだ。
 世間では現在の妻の味方をして、私は悪者になってしまうんだろう。
 不倫というのはどんな理由があってもそういうものだから仕方がない。
 でも私も充分苦しんできた。
 目の前に差し出された手を掴むことはそれでも許されないのだろうか。
 私はどんな覚悟も出来ていると、この時は自分の幸せを掴もうと必死になっていた。
 美幸からの攻撃も、世間の冷ややかな目も何もかも受けて立とうという女としての意地と醜い部分を持っていた。
 でもその必死の攻防の構えですら、後に浅はかだったと気づかされるとはこの時まだ事態の重みなど何も感じてないに等しかった。
 
 美幸との離婚の話は進まないまま年が明けてしまう。
 三岡君は私と過ごす時間を見つけるように、できるだけ私のマンションに顔を出すような感じだった。
 美幸はもちろん気がついているが、敢えて口を出さずに穏やかだという話を三岡君の口から聞いた。
 私には考えられなかった。
 夫が愛人に会いに行くことを冷静に対処できる人など絶対に居ないと思っていた。
 でも美幸の場合、あくまでも穏やかに落ち着いて離婚の話し合いには応じるらしい。
 ただ、彼女の中では絶対に離婚はありえないと、まるでその話がなかったことのように振舞い、いつも話は振り出しに戻るのだそうだ。
 現実を受け入れずに妄想の中で夫婦として、または子供を挟んで家族として振舞う。
 夫はまるで不倫などしてないと真実を受け入れない。
 三岡君は、離婚できないもどかしさと、子供を前に押し出される良心の呵責の狭間に置かれ、私への思いがそこに入ると自分が何をしているのか分からなく なっていくと言っていた。
 白黒はっきりさせずにはいられない真面目な三岡君にとって、曖昧な宙ぶらりんのままの状況は神経をどんどんすり減らしていく。
 それを今度は私が傍から見ると、私も自分がしていることに精神が不安定になっていく。
 充分悪女だと思っていたが、結局は常識という世間の感覚に押し流されていきそうだった。
  ──不倫が悪い。
  ──手を引け。
  ──あきらめろ。
 それらが頭の中でぐるぐるし出してきた。

「もうすぐ、誕生日だな」
 私が小さな台所でつまみ程度のものを作ってるとき、三岡君がコタツに入ってテレビを観ながら言ってきた。
 2月10日、私の誕生日。
 三岡君はちゃんと覚えていてくれた。
「なんか欲しいものあるか?」
 三岡君は無造作にチャンネルを変えて、軽く聞いてきた。
 私は菜箸を片手に、覗き込むように顔だけ部屋に向けた。
「それじゃ、あの時みたいに熱いキスをここに」
 あいている手で額を指差した。
 三岡君は笑っていた。
「今度、町へ一緒にでようか。その時食事でもしよう」
「うん」
 私はそれで満足だった。

 でも一緒に出かけたその時、三岡君は私の腕を取ってジュエリーショップへと無理やり引っ張っていった。
「三岡君、どうしたの」
 にっこりと恥ずかしそうに笑うあの時の三岡君の顔は忘れられない。
 かっこつけようと無理をしているような雰囲気だった。
「何か見えるもので俺の愛を身につけて欲しくてさ。でもリサはジュエリーとかうるさそうだから、自分で選べ」
「ちょっと、うるさそうって何よ」
 私は気分を悪くしたように言ったが、本当は少し歯の浮くような台詞がこそば痒くて、嬉しいのにそれを誤魔化すように少しだけ意地を張った。

 私は宝石とかあまり身につけるタイプではないし、宝石に興味を持ったことはなかった。
 店の中はどこも計算されたように照明がついていて、明るく眩しいくらいで、辺りは宝石や貴金属だらけでどこをみても星を散りばめた様に煌いて見えた。
 色々ガラスケースを見て回ったが、本当に欲しいものが分からなかっただけなのに、三岡君は私がお金のことを心配していると思ったのか、少しプライドを傷 つけられたようながっかりした顔になっていた。
「それじゃ三岡君が気に入ったものはどれなの? 私はそれが欲しい」
 三岡君はそれならと、プラチナと金が混じった縦に長い飴細工のようなメッシュの指輪を指差した。
「これがなんかお前らしい」
 それは金の糸が繊細に絡み合うようにキラキラしていた。
 三岡君と私が一緒に解けていつまでも離れないように抱合っているようなイメージだった。
 結構な額にびっくりしたけど、威厳ある美しさで私もすぐに気に入った。
 指にはめると一層光り輝いて見える。
 それを目を細めて見る。
 三岡君の愛が私の指に絡まった気になった。
 私も素直にそれを買ってもらうことにした。
 そして私がこれを身につけると誰もが目に付く程その存在感は強く、いつもこの指輪のことを言われる程だった。

「あと、もう少し、もう少しだけ待って欲しい。必ず離婚するから」
 白く息を吐くような寒さの中、灰色の空の下でジャケットのポケットに手を突っ込みながら三岡君は言った。
 人が行き交う、ショッピング街の中では私達は普通の恋人同志となんら変わらないものだった。
 でもこうやって二人で外を出歩いていることが後ろめたいことだとこの言葉で気づかされた。
 私は「うん」と首を縦に振っただけだった。
 そして三岡君の腕に手を回して強く頼るように自分の体に寄せた。
 寒空の下、心の中も北風が隙間から入ってきたような気がした。
 
 それから暫くしたある日のことだった。
 仕事場に私を訪ねて女性がやってきた。
 その人とは会ったこともない、初めて見る顔だった。
 相手も私の名前を知っているのに、目の前にいるとは気づかず、私だと知ったとき、はっとして驚きながら食い入るように私を見つめた。
 彼女の側では3、4歳くらいの男の子が、あどけない表情でその女性と手をつないで一緒に私を見ていた。
 これが誰であるかくらいすぐにわかった。

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