遠星のささやき

第十章

3 

 茶髪のセミロングで、少しやせ細って生活に疲れた表情をしている。
 まだ20代だというのに若さが抜け落ちてるように見えた。
 その代わり子供を守ろうとする母親としての強さがにじみ出ていた。
 きつい感じの目つきで気が強そうに見えたが、それは私を睨んでたからそう見えただけだったかもしれない。
 鋭く観察するようなピリピリする目線。
 それでいて落ち着きを払い、威厳を見せ付けて私に威圧をかけていた。
 その時、子供の手を軽く引っ張るようにしっかりと握りなおした。
 それはまるで戦闘開始の合図に見えた。

「少しお時間いいですか」
 初対面だと言うのに自己紹介もせず、すでに何者であるか私が知っているという前提で事を運ぼうとする。
 私も挑むように受けてたった。
 この女が美幸、三岡君の妻──。

 ここでは話せない内容になるので、私は店長から少し時間を貰い、そんなに長くは話せないと念を押してから彼女と近くの喫茶店に入った。
 仕事場のスタッフや私が休憩でよく来る行きつけの店。
 入り口が狭く、さらに狭い土地柄、長方形に縦に伸びたようなスペースだが、店内は明るく落ち着ける。
 適当に開いている席を見つけ、私は美幸に先に座れとテーブルの隣に無言で立っていた。
 彼女は先に息子を座らせ、そして自分も座る。
 私も聞こえない程度に息を吐いてから座った。
 美幸は、足をばたつかせている息子の様子を伺い、少し大人しくしていてと息子の顔に近づけて愛しそうに笑みを浮かべていた。
 私は咄嗟に目を逸らしてしまった。
 この子が三岡君の子供。
 あの時、別れる原因となった理由が目の前で無邪気に存在している。
 できるだけ見ないように美幸に視線を向けていた。
 ウエイトレスが注文を聞きに来る。
 各々の飲み物を頼むと、暫く言葉なくお互いを見てしまった。
 私も覚悟はしていたが、彼女も相当覚悟をしていたのだろう。
 体が硬直しているように見えた。
 そして美幸の口が開いた。
「あなたには初めて会うけど、ずっと前からその存在は知ってました。ここにいることを知ったのも、主人が包み隠さず話してくれたからです。あの人は嘘をつ けない人だから」
 三岡君の事を主人と呼んだ。
 私はびくっと体が動いてしまった。
 そう、これが妻という存在なんだとその言葉の響きに思い知らされた。
「お願いです、どうか主人と別れて下さい」
 お決まりの台詞。
 私は言い返す言葉を色々頭でシミュレーションする。
「嫌です」「できません」「そっちこそ別れて下さい」
 しかし、何一つ口からは出てこなかった。
 その時、子供がテーブルの上にあったシュガーポットを触ろうとした。
 美幸は慌ててそれはダメと教えていた。
 機嫌が悪くなり、一揉めありそうな状況となると、それをなだめるように暫く美幸は息子にかかりっきりになった。
 私が側に居ることを知りながら全くのお構いなし。
 まるでこの状況を見せ付けるように子供の存在をアピールしているように見えた。
 私の顔は穏やかではなかったと思う。
 自分でも表情が歪んでいく。
 そして確信した。
 美幸は子供の存在を私に知らしめるためにここへやってきた、と。
 これが美幸の作戦。

 ちょうどその時それぞれの注文がテーブルに届けられた。
 オレンジジュースが運ばれてきたのが嬉しいのか、さっきまで不機嫌だったのがさっと吹っ飛び、子供は目をキラキラさせていた。
 美幸がストローの袋を破りグラスにさすと、子供は餌を見つけた魚のようにそれに吸い付いた。
 一口飲むと美味しいとばかりに、美幸の顔をみて笑顔でそれを知らせていた。
 一緒になって笑う美幸。
 私はこの状況に飲み込まれたくないと、運ばれてきた紅茶のカップを手に取り一口飲んだ。
 紅茶は喉を痙攣させるように締め付ける。
 耐えられず、すぐにカップをソーサーに置くと、強くカチャッと音を立てた。
 それとは対照的に美幸はコーヒーに砂糖を入れ、優雅にスプーンでかき回してからクリームを垂らす。
 コーヒーに浮かぶ白い渦を見ながら美幸がまた話しかけてきた。

「息子が側にいると落ち着いて話もできなくてごめんなさい。でもこの子いい子なんですよ」
 また息子のことを前に出す。
 まるで盾。
 それとも武器?
 いい子と言われてその気になっているのか、母親の言葉どおり子供は演じようとしているように見えた。
 もう子供の話など聞きたくないと、私は自分から話を切り出した。
「さっきの続きですが、私がはいそうですかといっても、三岡君がそれで納得するんでしょうか。私達がずっと愛し合ってたこと、美幸さんもご存知だったはず じゃないですか」
 美幸の反応が気になる。
 ここで私の言葉に怒りを露にするのだろうか。
 しかし彼女は不思議と落ち着いていた。
 普通なら取り乱して罵声でも浴びせるくらいのシチュエーションなのに、この美幸と言う女性は感情を顔にも表すことなく平然と私に言ってきた。
「しかし、妻は私です。主人は私を選んで結婚したんですよ」
 私もとうとう乗せられてしまった。
 言い返す。
「それは子供ができたから仕方なくそう選ばざるを得なかった……」
 だが最後を力強く言い切れなかった。
 子供の前でこんなことを言うのが嫌で仕方がない。
 この子はどれぐらいの言葉を理解しているのだろう。
 無邪気にグラスに手を添えて、ストローの位置が高いのか、背筋を伸ばし顎をあげ一生懸命ジュースにありつこうと飲んでいる。
 そんな姿を見せられたら私が悪者にしか見えない。
 こんなときにまで子供を出汁にしてくるなんて、私はまた苦しめられた。
「でも、理由はなんであれ、私を選んだことには変わりありません。もう私達を苦しめないで下さい」
 苦しめる? 誰が一番苦しめたと思ってるのよ。
 気をつけていたはずなのに私の方が取り乱しそうになった。
 しかし、どうしてこの人はここまで冷静になって話せるのだろう。
 私という憎き存在を目の前にしても、この落ち着きは計算されたもので無理に我慢しているんだろうか。
 不倫相手を前にここまで落ち着いて淡々と語れるのが私には理解できなかった。

「今、ここでこんな風に言われても私は何を言っていいかわかりません」
「そうですか…… だけど私は絶対別れませんから」
 そう言って静かにカップをもってコーヒーをすすっていた。
 感情を全く出さない落ち着いたこの態度に私は恐怖心を植えつけられた。
 私の方が動揺して必死に感情を抑え、目の前の飲み物など喉を通らない状態だというのに、美幸は絶対的な揺ぎ無い精神で挑んでいる。
 私はもう耐えられなくなった。
 目の前の請求書を掴んで、席を立ち、そしてお金を全て払って喫茶店のドアを開け出て行こうとした。
 もう一度最後に振り向いて美幸を見ると、子供に笑いかけて接している。
 あそこまで強くなれる理由はなんだろう、やはり子供が居るという強みがあるからなんだろうか。
 三岡君はきっと子煩悩で子供を大切にしているのだろう。
 そう思うと、やっぱり最後は子供のために元の鞘に戻りそうに思ってしまった。
 やっぱり子供には勝てない──。
 これほど悔しかったことはなかった。

 その晩、三岡君が私の部屋にやってきた。
 私は全てのことを話すと、三岡君は顔を歪ませてただ一言『すまない』と呟いた。
「三岡君、やっぱり私達間違ってるんだよ。三岡君の子供には勝てない。あの子がいる限り、三岡君も最後は離婚なんてできないって思うよ」
 三岡君は黙っていた。
 何も言えないところを見ると、やはり自分の息子が気がかりで仕方ないのがよく判った。
 雰囲気が重くなったので私は話題を変えた。
「三岡君、また春が来るね。覚えてる? お祭りで出会ったこと」
「忘れるわけないだろ」
「今度そこへ行かない? もう一度あの頃のことを一緒に思い出そう」
「そうだな」
 私は三岡君の肩にもたれかけた。
 狭いワンルームの部屋の中で私達は暫く寄り添って座っていた。
 もうこれで充分だった。
 今度あのお祭りを一緒に行ったら、私は別れるつもりでいた。
 やっぱりまた負けてしまった。
 でも高校生の時に抱いた気持ちより幾分落ち着いていた。
 三岡君に抱かれて、気持ちを確かめ合えたことで昔成し遂げられなかった思いが成仏したように思う。
 今なら私も、三岡君も、美幸も、その子供もちゃんとした道に修正ができる。
 私が一言別れるといえばそれで何もかもまた上手く収まる。
 結局は私は物分りがいいのかもしれない。

「なあ、またうっちゃんやトモも呼んでカラオケ行かないか。お好み焼き食べに行ってもいいし、あの時のお祭りのノリで皆で遊んでみたい」
 三岡君が思いつきで言ったけど、気が重くなるより、皆で馬鹿騒ぎしたい気分だったのだろう。
 二人と再会したとき後味悪かったこともあり私も大賛成だった。
 思い立つと同時に二人に連絡して、皆が仕事を終えた今度の土曜の夜に出かけることが決まった。
 もう一度あの頃の気分が味わえるのがとても楽しみに思えた。
 ちょっとした同窓会気分。

 そして、その日は思った通り、本当に羽目を外すくらいのノリだった。
 うっちゃんとトモは前回私の気分を害したことを反省してか、私達に配慮して盛り上げてくれた。
 うっちゃんも何事もなかったようにあの時のことには触れなかった。
 三岡君も昔のようにはしゃいでいる。
 この時はあのお祭りで出会ったときの延長のように楽しいときが過ごせた。
 だけど三岡君がここまで羽目を外していいのだろうかというくらい、お酒も入って陽気にご機嫌だった。
「三岡君、大丈夫? なんか無理してはしゃいでる感じがする」
「えっ、そっか。楽しいからいいじゃないか。リサも踊れ」
「馬鹿、そんなことできるわけないでしょ」
 つい、怒ってしまったけど、三岡君はビールを胃に詰め込むように飲みだした様子を見て、膨れていた頬が急激にしぼんで今度は眉間に皺が寄る程ちょっと心 配になってしまった。
 私と奥さんと子供の間でとても辛い思いをしていて、それを発散させたかったのだろうか。
 真面目な三岡君が不倫という形を取ること自体、それは尋常じゃなかった。
 きっと押しつぶされそうに苦しかったんだろう。
 でも、もうそれもあと少しで終わるから。
 だから私もこの日は無理してでもはしゃぐことにした。

 うっちゃんはそれに合わせてノリがよかったけど、トモはじっと私を見ていたように思う。
 トモと私は似ているところがある。
 一緒にされるのは癪だけど、人のために自分を犠牲にするところはほんとに似ていると思う。
 トモはこの時私の秘めたる気持ちに気づいてたかもしれない。
 私はトモと目が合うと鼻で笑うように笑顔を見せつけてやった。
 あんたに心配される筋合いはないんだよと言う風に。
 でもトモが心配していたのは別のところにあったのかもしれない。
 トモが私に笑顔を返さなかった。
 私は無視されたと思ってプライドを傷つけられたようにちょっとむっとした。
 だけどこの時、トモの目が何かに怯えているように見えたのは気のせいだったのだろうか……
 後になって確かめなかったことを後悔した。

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