遠星のささやき

第十一章

5 

 美幸は感情をむき出しにすることもなくこの時も落ち着いている。
 主導権を握っている貫禄がにじみ出て、私がそれに従うことを充分に知っていた。
 愛人という立場がら、強気に出られないのは百も承知だが、美幸はただ私に文句を言いに来たのではなさそうだった。
 私を陥れたい恨み、そして怒りを伴い、彼女の狡猾さが睨む目つきから読み取れる。
 私も意地がある。
 見かけは殊勝な態度であっても、心の中はそこまで徹底的とは言えない。
 何を言われようとも動じずに美幸の思う壺にはなりたくないと思っていた。
 ただ大事に荒立てたくない、こじらせたくないために、私は平常心を保ってるだけに過ぎなかった。
 美幸はそこまで読み取ってるのか、薄ら笑いを口元に込めてやっと話し出した。
「私はあなたに対してどれほどの憎しみを持っているかはおわかりですよね」
 私は相槌をうつこともなく、黙って美幸の目を見ていた。
「あなたさえ現れなければ私達は幸せだった。あなたは私の人生を狂わした人」
 私はまだ黙って聞いている。
 しかし美幸の言葉に恨みは含まれていても、感情がそれに伴っていない。
 普通なら声を露にして、手まで飛んできそうなものだが、彼女の語り口調は淡々としている。
 これも美幸の作戦なのだろうか。
 前回会ったときも不倫騒動の渦中に居ながら落ち着きを払っていたのを思い出す。
 あの時は私が我慢できずに自ら席を立ってしまったくらいだった。
 一体彼女は何を考えているのか、私は不気味さを覚える。
「あなたは何も言い返さないんですか? それとも自分で罪を認めて何も言えない立場なんでしょうか。まあ、あなたにしてみても、私のこと憎まれたでしょう ね。そんなこと私には関係ないですが。私、幸せだったんですよ、誠也と結婚できて。誠也は本当にいい夫であり、いい父親でした。私も誠也のためにと思って 尽くしてきましたし、誠也は結局は 私とは別れられないことやっぱり判っていたんです。だから苦しんでこんな道を選んでしまった。あなたに会わなければ誠也は死ななくて済んだんです。あなた が誠也を死に追いやってしまった」
 私は膝の上に置いた手に力を込めながらじっと耐えていた。
 これくらい言われるのは容易に推測できていた。
 自分の思った通りのことをやっぱり言われたと思いつつ、美幸の最後の言葉の重みは思った以上にのしかかる。
「全ては私のせいだとおっしゃりたいのですね。あなたがそう思うのであれば仕方ありません。今日は何を言われても私はただ聞くだけしかありません。どのよ うな言葉を並べたところで、済んでしまったことは変えられないからです」
 開き直りとでも取れる私の言葉。
 しかしそこには謝罪の言葉は入れていない。
 美幸はそれを少しでも期待していたのか、私からの謝りの言葉がないことにむっとして、きつい睨みを突きつけた。
 そしてこの時とばかりに上から目線で私をバカにしたように話し出した。
「あなたが、悪いんですよ。全てはあなたが引き起こしたこと。それは肝に銘じて下さいね。今から話すことは全てあなたのせいなんですから」
「今から話すこと? まだ私のせいということにして、私にどうしても謝って欲しいということですか」
「謝罪? もちろんして欲しいですけど、あなたは結構プライドが高い人なんじゃないですか。謝るつもりでいたのなら、疾うに謝っているはず。最初から謝る つもりなどないでしょう。とにかく、これだけは言わせて貰いたい。結婚する前の話のことよ」
「結婚する前の話?」
 話が遡ることに、美幸の私に対する根強い恨みが炸裂する。
「誠也があなたに出会わなかったら、私はずっと誠也と一緒にいられたんです。でも誠也は私を振ってまであなたと一緒に居たかった。あの時どれだけ私が苦し んだかあなたはご存知ないでしょう。私は自棄になりました。そして誠也と別れて、他の男とすぐに付き合ったのです。でも長続きしませんでした。そして、一 度だけ誠也とまた関係を持ちました。そして私は妊娠した訳です」
「それなら私も三岡君から直接聞きました。別れた後に一度だけ関係を持ったと。でもそれはまだ私と付き合う前の話なので、別に今さら言われても……」
「だから、聞いて欲しいというのは、息子は誠也の子供ではないということです」
「えっ!」
 私は息が止まるくらい驚いた。
 何も考えられなくなってしまった。
「誠也はこのことは知りませんでした。タイミングもよかったですし、何も疑わず自分の息子だとずっと思ってました。私もそのお陰で誠也と寄りを戻せ結婚で きたんです。とても幸せでした。あなたがまた現れるまでは」
 私は目を見開いて美幸を呆然と見つめていた。
 体中の血液がドクドクと激しく流れて、血圧が上がったような気になった。
「そういう訳です。これだけ言いたかったんです。今回は私がここを払いますね。それでは失礼します」
 美幸は請求書を持って席を立ってさっさと去っていった。
 私は一人残され、体を震わしていた。
 もう怒るとか悲しむとかそういう気持ちが湧いてこず、ただその真実に驚かされた。
 突然爆弾を落とされて、考える暇もなく、あっという間に燃え尽きて何も残らない灰になったようだった。
 
 以前私が美幸に対して抱いた違和感、美幸が落ち着きすぎるほどの冷静沈着さの態度がこれだったんだ。
 あの子供は三岡君の子供じゃなく、他の人の子。
 それがあるから、自分も罪を犯した一人として、不倫をした私を強く責めることができなかった。
 だから怖いほど冷静で落ち着いていられた。
 ほんとは心の底で私を笑っていたのかもしれない。
 そうじゃなければ、こんな真実三岡君が死んだ後わざわざ私に言いに来るはずがない。
 三岡君は本当に知らなかったんだろうか。
 今となっては知る由はない。
 昔の私ならきっと憤って狂ったようになっていたかもしれない。
 でも不思議と美幸が取った行動を客観的に見られる。
 ここで怒ったら彼女の思う壺というのもある。
 彼女はそれが目的で私にこんな話を持ちかけた。
 でも彼女の立場を考えたら、女として利用してしまう気持ちも理解できるといったら、私は本当に物分りのいい女なんだなと自分で感心する。
 もう何もかも終わった後では、真実を知ったところで何も変わらない。
 悲しみや腹立たしさを持ち合わせても無駄なことになってしまう。
 それに三岡君は死んで私だけのものになった。
 その事実を美幸が知れば美幸は悔しがることだろう。
 彼女も彼女なりに悔しくて仕返しをしたかっただけなのだ。
 論理的に考えようと、私は必死で感情の渦に囚われないように体を硬直させ目を瞑った。
 暫く岩になったかのように動かなかった。
 再び目を開けたとき大きなため息をつくと、グラスを震える手で持って残りのアイスコーヒーを一気に飲んだ。
 最後にズズズと音がなると、全てがこれで終わった気持ちになった。
 しかし涙が取り止めもなく溢れてきた。
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