遠星のささやき

第十二章

3 

 春は麗らか過ぎる。
 悲しみは温かな日差しに誤魔化されて、本質に触れることなく全てを新たな始まりとしてスタートさせていく。
 私にとって最も思い出深く、そして心に重くのしかかる季節なのに、桜の花びらを風で散らせるごとくそこに留まるなと言われている気分にさせられるよう だった。
 そしてこの時期、佳奈美が留学から戻ってきた。
 アメリカに行く前と違ってどこか弾けて垢抜けたような、派手になったような、別人のような、とにかく新しい佳奈美になって帰ってきた。
 佳奈美は英会話をマスターしたようで、英語について自信たっぷりに熱く語ってくれた。
 これから仕事を探さなければならないと言ってたので、それまで私の店でアルバイトしないかと誘ってみる。
 ちゃんとした仕事が見つかるまでの間、佳奈美には少しでもお金があった方がいいだろうし、そして私には暫しまた学生気分を味わって二人で一緒の時を過ご すのも悪くない。
 私はこの頃、小物仕入れを任された責任者でもあり、経理も担当していたので、人を雇うことに力を持っていた。
 話を持ちかけると、佳奈美はあっさりと私の店に来て、メンズ服の販売の手伝いを暫くすることになった。
 観光地だったので海外からのお客も頻繁に来る。
 佳奈美はその度に自ら進んで得意の英語で接客をしていた。
 かなり頑張ってきたのだろう。
 あの佳奈美が英語を物怖じせず流暢に話している姿を見ると、昔のイメージとは全く違う彼女がそこに居た。
 ただ、少し傲慢になってた部分もあり、何かと『アメリカはよかった』ばっかりを連発する。
 彼女の本質自体は変わってないのだが、アメリカかぶれした部分はどうも鼻につく。
 私とは全く違う道を歩んで来たのは判っていたが、私もそれなりに人生を経験して以前の私ではなくなっている。
 久し振りに一緒にまた過ごせたけど、ここで噛み合わない部分が出てきてしまった。
 
 事務所の中で二人で休憩しているときだった。
 梅雨の季節ということもあり、この日は前日からまとまった雨が振り続いていた。
 窓を見れば当分止みそうもない雨が飽きることもなく天から落ちてくる。
 それを見て佳奈美はため息を吐いた。
「向こうじゃ雨なんて滅多に降らなかった。いつもいい天気で気持ちよかったのに。日本は最悪」
 何気ない心の不満がそういう形で言葉になっただけなのだろうが、私は悲しくなってしまった。
 我慢できずに口を出す。
「雨なんて降って当たり前でしょ。それだけで日本が最悪っておかしい。アメリカ、アメリカってもう帰ってきたんだから、いい加減目を覚ましなさいよ」
 私はなぜか泣いていた。
 その涙に佳奈美は黙り込んで何も言わなくなったけど、彼女が何を考えていたのかはっきりわからない。
 はっとして気づいてくれたのか、それとも私が言ったことに腹を立てていたのかもしれない。
 でもそれ以来、佳奈美はアメリカのことを持ち出すのは止めた。

 違う外の世界を知ったら、人はこうなってしまうのだろう。
 楽しかった世界にいつまでも浸り続け、現実を否定する。
 佳奈美も佳奈美で新しいことを色々学んで、私とは全く違う世界で生きている。
 私もまたその間学んだことは一杯あったが、佳奈美の足元には到底及ばない。
 それでも私はそれはそれでいいと思ってるし、自分が体験したことを卑下にすることもない。
 それは佳奈美も同じこと。
 だから少し噛み合わなくても、二人の間では自動修正が自然とできていた。
 そして暫くした後、私が三岡君の事を佳奈美に改まって話すと、彼女は黙って耳を傾けて聞いていた。
 お互いいろんな意味で変わってしまったと言ったが、私達の間だけは変わることはないからと佳奈美は後から付け足していた。

 佳奈美は七月下旬まで、私の職場で働いた。
 その後留学先で知り合った彼が日本に来るからと、色々案内すると張り切っていた。
 佳奈美に外国人の彼氏……
 なんかぱっと頭に浮かんでこなかったが、その人はヨーロッパのどっかの国の人らしかった。
 アメリカでいろんな国の人と出会い、その中で惹かれあう人を見つける。
 それもスケールがでかい恋愛だなと漠然的に思った。
 結婚を真剣に考えているらしかったが、佳奈美が結婚したらヨーロッパに行くのだろうか。
 またパッとしない話に、私は何をどういっていいのかわからなかったが、好きならお互い乗り越えていくだろうと、見守っていたように思う。
 願わくば、そんな遠くに行って欲しくはなかったのが正直なところだったけど。

 私もこの時はうっちゃんと上手くいっていた。
(いや上手くいっているつもりだった?)
 春に足を大怪我する喧嘩はあったけど、あの話はどちらも全く口にしない。
 寧ろ、うっちゃんは避けていた。
 私も忘れたふりをして、うっちゃんといい関係を保とうと彼に合わせていたところがあった。
 その時、うっちゃんのことが好きで、その感情はいつもどこにあるのと聞かれたら、私は答えに困ったかもしれない。
 うっちゃんのことをどれだけ思っていたのかが私にはわからないから。
 そして三岡君の事を忘れることは口には出さないが絶対にできないことだった。
 うっちゃんとは絶対に三岡君の話はしない。
 お互いしてはいけないと暗黙の了解だった。
 それでもうっちゃんは私を愛そうとしてくれていた。
 まるで三岡君の事を思っている私を受けいれようとするかのように一生懸命だった。
 うっちゃんは私を抱くとき、大切なものを扱うように私に触れる。
 優しく、そして時には情熱的に彼に抱かれているときはその悦楽に自分は溺れる。
 その時ばかりは、体に感じるものに支配されて頭の中は真っ白の状態。
 だからうっちゃんも私を抱くときが一番安らぐと言っていた。
 でもお互いの本当の気持ちを確かめ合わずに、本質から目をそらしてそんな都合のよいことだけができる訳がなかった。
 だからやっぱりまたあの日が来ると、振り出しに戻ったようになる。
 そして今度はお互いどうしようもない何かを感じ、そしてうっちゃんは私の知らないところで悩んでいく。
 だからうっちゃんの心に抱えていた問題は私には最後まで見抜けなかった。

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