遠星のささやき

第十二章 

5 

 寝耳に水だった。
 それはあまりにも日常会話の中の他愛もない話題のように、あっさりと口から出ていた。
 帰る間際についでに言ったような言葉。
 だからなのかもしれないが、私もそれを聞いて取り乱すこともなかった。
 私は冷静にその言葉を受け止めていた。
 でもうっちゃんを見つめていた目は、もの悲しげに静かにただ目の前のものを映し出していた。
「今日で最後になっちまった。もうこれ以上お前には会えない」
 なぜこの人はこんなに淡々と感情もなく、悪びれることも申し訳ないという気持ちすら持ち合わせないで、私にこんな話ができるのだろう。
 私が本当に何も思わないとでも思ったのだろうか。
 確かに私は取り乱すこともなく、他人事のように突っ立っていた。
 いらなくなったからポイッと捨てられたようなとても酷い仕打ちをされたとは思っていた。
 でも私は何もそれについては言い返しはしなかった。
「そう、結婚するの……」
 やせ我慢? 違う。私の性格上、自分が上に立たないと気がすまない。そうなれば、必然的に落ち着いてそれがどうしたの? とそういう態度に自然になって しまっていた。
 うっちゃんが私から去っても私は感情的になれなかった。
 それなら快く送り出してやろうというせめてものはなむけ。
 私はどこか男に頼ることなどするもんかと意地を張っていた。
 去るもの負わずといったところなんだろう。
 そんな私の態度を見て、うっちゃんはわかってたかのように失望していた。
 酷いことをしているのはうっちゃんの方なのに、がっかりした悲痛の目で私を見る。
 いつの間にか逆転していて、まるで私が別れを切り出したような立場になっていた。
 何かを言いたげに一度うっちゃんの唇が動いたが、もう諦めたように声をぐっと飲み込み、そして彼はドアを開け外に出るとバタンと閉めてしまった。
 私は追いかけることもせず、狭い玄関でドアをぼーっと見つめていた。
 私達がどうしても越えられることができなかった壁。
 そして気づかなかった溝。
 あの時くっきりと見たような気がする。
 私が見ようとしなかっただけで、うっちゃんにはそれが前から見えていたということにもやっと気がついた。
 だからこの結果は突然じゃなくて起こるべきに起こったということなのかもしれない。
 うっちゃんはそれ以来、二度と私の前に現れることはなかった。
 あれが成り行き任せの最後の瞬間。
 あとくされなく見事な結末だった。

 その後うっちゃんはとんとん拍子に事が運んで結婚したと後でトモから電話で聞いた。
 うっちゃんの母親には会ったことがないが、母親が満足して息子の結婚式を迎えたんだろうなと推測できた。
 うっちゃんがお見合いしなければならないほど結婚相手に不足などしていなかった。
 きっといいところの条件が揃った女性じゃなければ結婚などできない立場だったんだろう。
 うっちゃんはほんとに私のことを好きでいてくれた。
 それは嘘偽りないのは私も理解している。
 本当は私を選びたかったとまで断言できる程、うっちゃんは私に惚れていた。
 だけどこれこそ家庭の事情でできないとうっちゃんは判断したのだろう。
 だから親の言うことを素直に聞いてお見合いをした。
 私に何一つ言えず、ギリギリまでそれを隠し続ける。
 そしていい方法はないか一人考えていた。
 結局は答えは見い出せず、最後の最後まで私と一緒に居ることしかできなかった。
 そのギリギリの瞬間がこの日だった。
 だから普通に話をするようにただ語っただけ。
 
 でもうっちゃんは私を試す部分があったのかもしれない。
 もし私が、泣いて嫌とでも叫べば、うっちゃんは私との事をもう一度真剣に考え、その時こそ過去のことを話し合い、三岡君の想い出を共有してこれからのこ とを一緒に考えようとしていたのかもしれない。
 うっちゃんにしても賭けだったのだろうか。
 でも私はうっちゃんが思うような言葉も掛けることなく、態度にも表さなかった。
 うっちゃんはこの時ほど私に失望して悲しかったことはなかったのだろう。
 だからあの時あんな目をして私を見ていた。
 結局は、私が心底うっちゃんのことを考えなかったばっかりに、うっちゃんも親を説得する気力に欠けたということだ。
 私達が過去のことを越えて未来を一緒に真剣に考えていたら、うっちゃんはなりふり構わず両親に私のことを認めてもらうようにしたはず。
 それができるだけのレベルに私達は達してなかっただけだった。
 人は真剣に取り組まなければ真実のものを得ることはできない。
 頭ではわかっていても、心はどうもついていかなかった。

 もしかしたらうっちゃんもまた結婚後、私に会いに来るのではと思っていた。
 また愛人という立場になり、私は物分りよく、拒むこともせずにすんなりと受け入れていたことだろう。
 だがそれは一度もなかった。
 うっちゃんとは本当に縁がプツリと切れた。
 三岡君の例をよく見ていたということなんだろうか。
 自分は二の舞になりたくない。
 うっちゃんは表面と内面をどっちも持ち、それを上手く使い分けて人と接する事ができる。
 自分がどっちのことをすればいいのかわかってやっている。
 三岡君のように一つのことを真剣にそれしか考えられないタイプと違って、うっちゃんは自分が一番どうすれば周りも納得できるのかよくわかっていた。
 気持ちよりも、状況で判断できるタイプ。
 そしてそれを貫ける。
 人生においてとても器用な生き方だと思う。
 だから、私はうっちゃんに捨てられても恨みも悲しみもなかった。
 うっちゃんには幸せになってほしいと思う。
 三岡君のようにはもう誰もなって欲しくない。
 でもそう言うと、私はどこかうぬぼれて傲慢な女になったような気がした。

 三岡君を失い、今度はうっちゃんまで去った。
 残ってるのはトモ一人。
 まさか次はトモと付き合うことに……
 それだけはありえなかった。
 トモもそれが充分判っているのか、聞いてもないのに電話口で彼女が居ると自分から言ってきた。
 この時、私が順序良く次はトモと付き合うと期待しているとでも思ったのだろうか。
 そう思われてそんな言葉を言われてると思うとなんか腹が立った。
 私がまた機嫌悪くなった声になると、トモは取り繕おうと思ったのか、「何かあったときは必ず助けるから」と付け加えていた。
 なぜか判らないけど、トモの前ではいつでも女王様気分になる。
「じゃあ、困ったときは必ず助けてよ」とえらっそうに言った。
 電話を切ったときは、もうトモの存在などどうでもよくなっていた。
 トモが困ったときに一番助けてくれたというのに、私はそれすら忘れてしまっていた。

 気分は最悪。
 世の中は全く上手くいかないと、自分の不運を恨む。
 辛いときはつい弱音を吐きたくなる。
 そして最悪なことに泣きっ面に蜂。
 どうして私ばっかり……
 また困難が待ち受けていた。
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