遠星のささやき

第七章 大人への儀式

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 三岡君の話を聞いた後、記憶が飛んでしまって何をしたのかよく覚えていない。
 暫く放心状態が続く。
 コーヒーは一口飲んだだけでその後手を付けられなかった。
 ただでさえ飲みなれてないコーヒーの苦さと同じ気分を既に味わっている。
 空虚な目ですっかり冷めたコーヒを見つめていると、さらに苦味が浮き上がって見えてくるようだった。

 喫茶店を出て、まずトモが先に帰った。
 トモは結局何も言わず最後まで無言だった。
 私に声を掛ける事すらしない。
 掛けてもらってもきっと無視をしていたと思うが、それだけ私に余裕がないことをトモも察知していたことだろう。
 こんなときに言葉巧みに饒舌になって何かを言えるとしたら、それこそ人の感情を無視した軽蔑的な行為にあたる。
 そっとして放っておく。
 人の心の痛みがわかる人ならその方法を間違いなく選ぶだろう。

 三岡君と私は肩を並べることなく、前後に少しだけ距離を取って歩いていた。
 三岡君が振り返る。
「家まで送っていくよ」
 私は「うん」と頷いた。
 素直に三岡君の車に乗ったのは、もうこれで最後だとわかっていたから。
 最後の挨拶はきっちりとしておきたかった。
 私はどんな顔をしていたのだろう。
 泣きたくなるような悲しい目だったのだろうか、それとも全てを受け入れた冷めた目をしていたのだろうか。
 その目で前をじっと見ていたけど、目には何も映らなくて、これが現実に起こってることなんだろうかと疑っていたように思う。
 ほんとは夢であって欲しかった──。
 
「リサ、俺がしっかりしてなかったばっかりに、お前に迷惑かけちまったな。本当にごめんな」
「もういいよ。三岡君は何も悪くない。誰も悪くないよ」
 そういうのが精一杯だった。
 出会ったのは1年前。
 でも実際三岡君と会って過ごした時間って短かすぎる。
 それでもこの一瞬の時間の中で私は三岡君が大好きになって、三岡君も私のこと好きでいてくれた。
 もうそれだけで充分かもしれない。
 
 日曜日の混み合った国道。
 時々渋滞に巻き込まれながら、車は停滞する。
 普通ならノロノロと進むことでイライラが募るところ、私は渋滞が最後の最後で一緒にいる時間を引き伸ばしてくれてるように思えた。
 急に渋滞がなくなりスムーズに走り出したときこそ「あっ」と残念に感じる。
 自分の町の見慣れた光景が目に映ると焦りだした。
 一刻一刻一緒にいられる時間が削られる。
 お互いの言葉はなかったけど、気持ちは重く立ち込めて、感情が刺激され思いだけは知らずと重なってゆく。
 そしてとうとうお別れの時がきた。
 
「三岡君、ここでいいよ。家すぐそこの角を曲がったところなんだ」
「そっか」

 田んぼと民家が混ざり合った町。
 小さな川が流れ、平行するように道路も通っていた。
 その道路の端に三岡君が車を停めるとお互いの動きも一瞬止まった。
 車を降りれば、もう三岡君には会えない。
 私は車を降りることを躊躇してしまう。
 一秒でも長くまだ側に居たかった。
 この時になって殺していた感情が一気に噴出して涙が溢れ出てくる。
「リサ」
 名前を呼ばれたとき、三岡君に思いっきり抱きしめられた。
 とても強い力で締め付けるほどに、それも愛しく私のことを思って、ありったけの力で抱擁する。
「ありがとうな」
 そう言ってから三岡君は抱いていた手を解き放した。
 そう、これがさよならのサイン。
 私は辛くて、呼吸困難になりそうなくらい泣いてしまった。
 だけど最後はどうしても笑顔を見せたかった。
 乱暴に水滴を蹴散らすように自分の涙を拭き、息を大きく吸って一度止め、最後に三岡君を見つめて笑った。
「三岡君、元気でね。それじゃさよなら」
 ドアを開け勢いをつけて外に出ると、すぐに車のドアを力強く閉めた。
 そして振り返らずにそのまま走って家に帰っていった。
 逃げて気持ちさえ振り切ろうと、とにかく必死で走った。
 家の通りの角を曲がろうとしたとき、クラクションの音が響いた。
 ハッとして、立ち止まってしまう。
 振り返ると、三岡君の車は先を走っていく。
 そしてそれは周りの景色と溶け合うようにぼやけてもう何を見ているのかすら判らなくなってしまった。
 そんな涙のレンズをつけたまま足を引きずるように家へと帰っていった。

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