遠星のささやき

第九章

3 

「しーたん、しーたん」
 英子さんがグラスを盾にして少し顔を隠し、女子高生のノリのようにはしゃぎながら呼ぶ。
 なんか嫌な予感がした。
「あのかっこいい人がこっち指差して周りの人と話しているよ」
 どれだけその言葉が恐ろしかったことだろう。
 ドキッとした後、体が一瞬で冷え切った。
「英子さんのことでも話してるんじゃないの」
 さらりとかわしたくて心にもないことを言ったが、英子さんは鵜呑みにしたのか急に意識をしだして、姿勢を正し、よそ行きのすました顔で飲み物を飲みだし た。
 英子さんはどの角度が一番キレイに見えるか普段から鏡を覗いて研究していたことを知っているので、体の角度を変えてこの時とばかり、体を少し斜めに向け た。
 長い髪を手で払いながら、時々目線がチラチラと私の後ろへと飛んでいる。
 高山君が小声で私に言った。
「英子さん、お酒が入ると一段とキモイですね」
「高山君、今私のことなんか言った?」
 英子さんがしっかり聞いていた。
「いえ、その、キレイ…… です」
 高山君は焦って暴走した。
 しかし英子さんはそれも真に受けて嬉しそうに恥じらいを見せていた。
 英子さんは調子に乗ったように話し出して、高山君は無理やりそれに付き合わされる。
 そして誰かに見られていると言うことも忘れず、時々髪をすくったり、はらったり、明らかに意識をしていると気取った表情を見せていた。
 高山君は時々私に助けを請うように、視線を向けてくる。
 よほど彼女の行動が怖いのだろう。
 しかし私には人助けをするほどの余裕がなく、首は固まって動けないし、体が縛られたように苦しい。
 高山君には申し訳ないが当分英子さんの相手してくれといわんばかりに、彼のSOSを無視した。
 そこへ英子さんが上機嫌になってるのをみて店長が絡んでくる。
 万遍にこの集まりをまとめようと、プールの監視員のように高いところから全ての様子を伺っていた。
「おや、そこ盛り上がってるね」
 店長はコミュニケーションの輪を広げる努力を怠らない。
 この時ほど、店長の気遣いが煩わしいと思ったことはなかった。
 
 どれくらいそんな状態が続いたのだろうか、やっとお開きになったとき、割り勘分の金額を払って、英子さんを隣に盾のように置いて出口へそそくさ急いだ。
 あの三人が座っているテーブルが近くにあると思うと、恐怖で目を瞑ってしまった。
「しーたん。何をそんなに強くしがみついてるの。痛いじゃないの」
 英子さんに無意識で強くすがりついていた。
 はっとして目を開けると、出口がすぐそこに見えた。
 あと少しで解放されると安心して、緊張がほぐれるその時だった。
 後ろから肩を叩かれた。
「リサちゃんでしょ」
 どきっとして振り返るとうっちゃんがいた。
 血の気がすーっと引いて行く。
 美しい顔でモデルのように魅力ある笑みを浮かべているが、私にはそれが意地悪く映ってしまった。
 まるでこの瞬間を待っていたかのような笑顔だった。
 やっぱりばれていた。
 そして自分の滑稽な態度もお見通しだったに違いない。
 急に恥ずかしさがこみ上げる。
「リサちゃん、大人になった。きれいになってるからびっくり」
 この状況でどう返していいのか分からず、逃げたい一心から私の顔が引き攣る。
 その隣で英子さんがもっと驚いていた。
「しーたんの知り合いなの?」
 英子さんはまじまじとうっちゃんの顔を眺めていた。

「私、疲れてるからまたね」
 とにかく離れたい。
 三岡君もかなり近くにいる。
 逃げなきゃ。
「じゃあ、連絡先教えてよ。トモに聞いたよ、一人暮らししてるんだって」
 トモもペラペラとしゃべってからに。
「ごめん、私早く帰らないと」
 私の焦る喋り口調にうっちゃんはすぐに気がついた。
「大丈夫、三岡ならもうとっくに帰ったから、いないよ」
「えっ?」
 店の奥のテーブルを見るとトモだけが一人座っている。
 私と目が合うと手を振った。
 急に力が抜けた。
「そっか、ちゃんとわかっていて声を掛けてくれたのか」
 私はお縄を頂戴したかのように、何もかも受け入れた。
 三岡君がいないのなら、何も心配することはない。
 私は仕事場の皆に挨拶をして、また店の中に戻り、うっちゃんたちと合流した。
 英子さんも一緒に来たそうだったけど、敢えて来て貰ったら困る雰囲気を醸し出して別れた。
 久しぶりにトモとうっちゃんを目の前にして座った。
 飲み残したビールのジョッキが何気なく目に飛び込んでくる。
 この席に三岡君が座っていたと思うと、暫くそのジョッキを空虚な目で眺めていた。

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