幽霊と見たあの日の夢は終わらない

第四章 元の世界に戻るためには


 1 和泉貴子

「和泉、ちょっと見てて」

 比呂美が自分の席に戻って椅子を引く。

「何するつもり?」

「多分、私はもう元の世界に戻れるんだと思う。座った時私が動かなかったら、戻ってることになる」

 そんな唐突に比呂美から言われても私は困惑するだけだ。でも本当にそうなったらどうしよう。私はひとりここに取り残されてしまう。それも怖い。

「ちょっと待って、比呂美」

 もう少し待ってほしいと私は比呂美に近づいた。

「もし座った後、私が動かなかったら、それはさっき言った仮説が正しいことだから」

 そんな事を言われても、まだ私はよくわかってない。もう少し比呂美と一緒に話合いたいのに、比呂美は私の不安な気持ちをものともせず、本当に座ってしまった。

「比呂美!」

 元の世界に帰る法方があるなら知りたい。比呂美の言う事が本当ならそれは喜んでいいことだけど、私は椅子に座る比呂美を見て「ああ」と嘆いてしまった。

 比呂美の言う通り、椅子に座るや否や比呂美は石にでもなったように固まってしまったからだ。

 もしかしたら演技なのかもと疑ったけど、何度触れても比呂美は動く気配がなかった。

「ん、もう。なんでそう勝手に進めるのよ。思い込んだらすぐにのめりこんで突っ走るんだから。あなたは帰れていいかもしれないけど、残った私たちはどうするのよ」

 すでに動かなくなってしまった比呂美に言ったところでどうしようもなかった。

 比呂美は仮説を立てたけど、本当は席に戻るだけで元に戻れるのではないだろうか。私も自分の席に行き、椅子を引く。そして座ろうかどうか迷った。

 だけど今私が座って万が一比呂美と同じように動かなくなったら教室から出て行ったみんなはどうなってしまうのだろう。放っておけないし、でも一度試してみたいし、足がブルブル震えた。

 暫く葛藤してたけど、やっぱり私は座らなかった。これからみんなを探しに行かないと。この部屋に戻ってこないことにはみんなは椅子にも座れない。

『この悪夢の世界で自分が変わるような事を体験すればいいってことじゃないかな』

 比呂美は自分の考え方が変わるようなきっかけがあればこの教室に戻ってこられると言っていたけど、本当にそうなんだろうか。

 比呂美はすぐにスピチュアルな考え方をするし、霊感が強いから特別なものを感じやすいとか普段から言ってるくらいだ。それも思い込みじゃないだろうか。

 もう少し話し合ってもよかったのに、自分だけ先を急いだことに少し腹が立ったけど、比呂美は比呂美なりに証明して私たちを助けたかったのかもしれない。それが彼女らしいやり方だった。

「わかったわよ、比呂美。あなたの仮説が正しいと信じるわ」

 私は後ろのドアの前に立つ。先ほど消えた大志をまずは探さないと。泣きべそかきながらその場に留まって私が来るのを待っているかもしれない。

「えーい、行くしかない」

 勢いつけてドアから飛び出した。そしてすぐ後ろを振り返る。

「みんな消えてる。やっぱり一度出たら元の教室には戻れない」

 私は辺りを見回す。特に校舎は変化なく見慣れた廊下だ。窓の外の景色もよく知ってる中庭が見える。でも木々の葉っぱがそろそろ秋の気配を見せてもいいころなのに、まだ青々としているように思えた。知っているのに違う何かを感じる。

 あっ、そうだ、大志はどこだろう。教室を出たその場で待っていると思ったのに、しーんと静まり返った廊下は人の気配がなさそうだ。

「大志! どこにいるの?」

 空っぽの中で自分の声が跳ね返っている。でも返事はない。もっと大きな声で叫ぼうと息を吸い込んだときだった。

 ピアノの音が聞こえてきた。指先ひとつで演奏しているようなたどたどしい音。キラキラ星のメロディだ。この先の突き当たりは音楽室がある。誰かがピアノを弾いている。もしかして大志?

「またかっこつけようとして」

 私は音楽室へ走った。ドアの前に来るとピアノの音がはっきりと聞こえ、勢いつけてガラッと開けた。

「大志、何してるのよ」

 ピアノの音が止まったと同時に、演奏していた桃色頭巾を被った人が私を見た。まるで忍者のくノ一だ。だけどその下は黒いスーツだった。

 その隣で白衣を着た博士に扮する人が立っていた。両サイドには白いふわふわな髪、頭のてっぺんだけはげているカツラを被っている。瓶底眼鏡もかけていて、ふざけているとしか思えない格好だ。

 だけどそれが女性だったから私は唖然としてしまった。あんなの恥ずかしくて嫌だ。

「ようこそ」

 博士が喋ったあと、鍵盤を隙間なく滑らした音が流れた。BGMのつもりなのか。

 しかしこの人たちは一体誰なのだろう。学校の先生だろうか。どちらも頭巾や眼鏡で顔がはっきりとわからなかった。

「いつまでもそこに突っ立ってないで中に入ってもっと私たちに近づいたら?」

「あの、一体ここで何をされてるんですか?」

「あなたを待っていたわ、貴子さん」

 自分の名前を呼ばれて私はドキッとした。

「なぜ私の名前を知っているのですか?」

 その名前では呼ばれたくないから少し不機嫌になってしまった。

「私は物知りなの。ほら、見かけも賢そうな博士みたいでしょ。フフフフ」

 またここでピアノの音が鳴った。今度はポロンポロンとはじけるような音だ。

「あの、男子生徒をこの辺りでみかけませんでしたか」

 とりあえず質問してさっさとここを去ろう。いくら女性でもなんだか不気味だ。

「他の誰かが捕まえて、彼は連れて行かれたわよ」

「えっ、どこにですか?」

「それが知りたかったら、私と勝負しましょう」

 ジャーンと力強くまたピアノの音が鳴る。

「あの、ふざけないで下さい」

「ふざけてなんてないわ、貴子さん」

「あの、見知らぬ人に馴れ馴れしくその名前で呼ばれたくないんですけど。どうして私のこと知っているんですか」

「あら、そんな口叩いていいの? もし私があなたを受け持つ先生だったらどうする? そんな態度だと内申点に響くわよ」

 内申点。その単語を聞くだけでびくっとしてしまった。

「そんな、これと授業は関係ないと思います」

「でもね、心証が悪いといいイメージにつながらないから不利よ。先生も人間なのよ、生徒の好き嫌いってあるの」

「そんなことで成績に響くんですか。そんなの先生失格のやることだわ」

「でもあなたもそんな先生がいるってことは知ってるんじゃないの?」

 特に答えなかったけど、そういう先生の心当たりはあった。

「やっぱりかしこいわね。そういう先生のことも悪く言わない。ひたすら自分のためにいい子でいる。あなたはクラスでは完璧にこなしてるものね。控えめでいてやることはしっかりとやる。計算高いわよね。でもそんなにまでしていい子ちゃんぶって疲れない?」

「あの、一体何がいいたいのでしょう。私は私なりに頑張っているだけです」

「そうね、頑張ってるわよね。でもそれって何のためかしら」

 何のためって聞かれて、自分のためだと言いたかったけど、それが口からすんなりと出なかった。

 本当は何のために頑張っているのか。そこには超えられない姉を超えたいという理由と、名前を勝手に祖母につけられたせいで私を愛せなくなった母を見返したい気持ちがあるからだ。

 すぐれた私を姉や母に認めてもらいたい。だから頑張るしかなかった。だけどそれが惨めで、そんな気持ちでいる事を誰にも言えない。

 私が答えないでいると、博士は次へ進む。

「それじゃここで問題。上が魚、下が動物の花はなーんだ」

 突然なぞなぞ? でもその答えは知っている。

「あじさい」

「当たり!」

 ここでピアノの明るいメロディが軽やかになった。

 こんなの小学生の言葉遊びだ。でも私が小学生の時、姉からこの問題を出されて私は答えられなくて悔しい思いをしたことがあった。

 梅雨の季節、庭に咲く紫陽花が目の前にあったのに気がつかなかった。あれはその年の梅雨が始まる前に母が植えたものだった。母は園芸が趣味だった。

「貴子、カタツムリ探そう」

 姉が突然言い出した。

 台所では母がやかんでお茶を沸かしている時だった。お湯は沸いているのにいつまでもお茶を煮ていた。

「お母さん、なんか食べるものないの?」

「今忙しいから、あっちにいってなさい」

 私は仕方ないから、姉と一緒に玄関先に植えてあった紫陽花を見に行った。傘を差しながらカタツムリがいないか私は真面目に探していた。

 でも姉はじっと紫陽花を見つめて悲しそうな顔をしていた。

「ねぇ、貴子。アジサイってどうして青や紫、ピンクの色があると思う?」

「そういう種類があるからでしょ」

「違うよ。アジサイの色が変わるのは土のせいだよ。土が酸性だと青、中性だと紫、アルカリ性だとピンクになるんだよ。日本は雨が多いために土の中のアルミニウムが溶けて酸性になりやすいから青い色が多いんだって」

 家に植えてある紫陽花は青色だった。

「お姉ちゃん、この間お母さんの草花の本を読んでたよね。それで知ったんでしょ」

 私より先にちょっと知ったからいい気になってると思った。

「そうね、あの本にはアジサイのことも書いてあったわ。その他にも色々と」

 姉は何を見ているのかわからない虚しい目をしながら葉っぱを一枚取り、それを口に銜えた。その時、目が潤んでいたような気がした。

 そしてその後、姉の具合が急に悪くなり家の中は慌しくなった。酷い吐き気に見舞われて、姉は苦しそうにしていた。家にいた母も祖母も取り乱し、心配と苛立ちで何を与えたのかと責任のなすり合いをした。

 元々仲が悪いふたりだから仕方がない。私は怖くて部屋の隅で泣きながら立っていた。

 苦しそうに床でくの字になってる姉が私を見て口元に人差し指を立てた。一体どういう意味だったのかその時はわからなかったけど、私はそのジェスチャー通りに一言も話さず静かにしていた。

 姉は病院に連れて行かれ、幸い軽症ですぐによくなったから家族はほっとした。

 その後随分経ってから、アジサイには毒があると知った。姉はあの時、変なものを食べたかと訊かれても、『わからない。お茶を飲んだだけ』と言っていた。

 アジサイの葉っぱを口にしたことを言わなかった。それを私にも言うなとあの時口止めをしたつもりだったのだろうか。

 だけどあれはどういうことだったのだろう。疑問に思った時はすでに時間が経ち過ぎて私はその理由を姉に訊けなくなっていた。

「次の問題。アジサイの葉っぱでお茶が作れる。イエスかノーか」

 博士が次の問題を言った。

「ノー」

 私は答えた。

「ブー」

 それと一緒にピアノの低い音が一回鳴った。

「でもアジサイには毒があるわ」

「アジサイの変種でなら甘茶が作れるの」

「アジサイの変種? そんなのひっかけじゃない。普通のアジサイでは作れないわ」

「そうね、普通のアジサイではね。でも甘茶ってね、紫陽花の変種から作るの。砂糖も入ってないのに甘く感じて、飲めばカロリー もないから、糖質制限している人には重宝しているのよ。特に糖尿病の人にはいいかもね。私も飲んだことあるけど、本当に甘かった。お釈迦様の誕生日の花祭 りで、甘茶をお釈迦様にかけて祝う行事もあるわね」

 甘茶は私も飲んだ事がある。祖母がまさに糖尿病持ちだから、母が祖母のためにと買ってきた事があった。

「それじゃ次の問題。甘茶には毒がある。イエスかノーか」

「毒があるんだったらお茶にできないじゃないの。ノー」

 またピアノの音とともに「ブー」と博士が否定した。

「濃くしすぎると食中毒を起こすの。だから毒はある」

「そんなの、普通に飲むお茶には毒は入ってないじゃない」

「果たしてそうかしら」

 意味ありげに言ったその言葉が違和感をもたらした。

 姉がアジサイの葉を口に銜えたあの日、母はやかんでお茶を沸かしていた。それを見てから姉と一緒にカタツムリを探しに行ったので覚えている。あの時作っていたお茶は甘茶だったような気がする。

 姉が苦しんでいる時、母は確か折角作ったお茶を慌てて流しに捨てていた。なぜそんな事をしたのだろう。

 まさかあのお茶は――。

 もしかして姉はお茶に毒が入っていると知っていた? 自分がアジサイの葉を食べることでわざと食中毒になって、『お茶を飲んだだけ』と嘘をついてそのお茶を母に捨てさせた。そしたら母もそのお茶には毒があるって認めたことになる……。

 母はあのお茶を祖母に与えようとして作っていた。まさか祖母に毒を盛ろうとしてたんじゃないだろうか。姉はそれを知ったからあんな行動をしてそれを阻止した。

 もし体力の弱った祖母がそのお茶を飲んでいたら、最悪のことだって考えられる。その原因がお茶だとわかっても偶然に濃くなっていたと白を切ればバレない。

 市販されているお茶に毒が入っているなんて普通思わない。知らなかったで母は通そうとしたに違いない。

「次の問題。紫陽花は英語でなんていいますか?」

 過去のことに捉われて、私はすぐに答えられなかった。

「えっと、あっ、ハイドレンジア」

「正解!」

 軽やかなリズムが流れた。

「やっぱりよく勉強してるわね。それじゃこれで最後の問題。アメリカ原産の白い紫陽花の名前は?」

 白い紫陽花。姉の好きな花でもある。土壌の酸性度に関係なくいつも白く咲く紫陽花。

『白い紫陽花はね、アナベルっていうの。お母さんとお祖母ちゃんに贈ってあげたくなる』

 姉が以前言っていた。だから私は知っている。

「アナベル」

「正解! よく知ってたわね」

 派手にピアノの音がむちゃくちゃに鳴った。

「五問中三問正解。合格としましょう。ちなみに、白い紫陽花の花言葉は『寛容』。紫陽花は色によって花言葉が色々とあるからね。青や紫は『冷淡』『無情』、ピンクは『元気な女性』などなど」

 博士は豆知識のように人差し指を立てて教えてくれた。

 白い紫陽花は寛容と聞いて、これって姉は母や祖母にそう願っていたんだろうかとふと思う。姉は母が馬鹿な真似をしないように体を張って煮すぎた甘茶を祖母に飲ませないように阻止した。姉だって紫陽花の葉で死ぬかもって思ったはずだ。それでもやらなければならなかった。

 姉はいつも母が過剰に褒めていた。本当に出来がよかったからそれに値していたけど、私は見ていて面白くなかった。

 その代わり私は祖母に褒められたけど、そこにはお互い名づけのプライドがあったのかもしれない。そのために母は私を素直に褒められなかった。物分りのいい賢い姉はそれを知っていた。

 姉と喧嘩をすることもあったけど、それは私の嫉妬心のせいでつい姉に意地悪していた。物を隠したり、壊したり。温厚な姉も度々重なる私の意地悪には切れてしまった。

「貴子ちゃんの方が名前も立派なんだから絶対お姉ちゃんよりもよくできるのよ」

 祖母も姉には負けるなとけしかけるように応援していたように思う。

 全ては私の名前が勝手につけられたことで、姑問題が勃発してしまい、私と姉の関係まで分断された。家庭内の不和だ。

 これも紫陽花の色が変わるように環境次第で状況が変化してしまった。土壌が正しいものであったならこんなに歪にならなかっただろう。

 私は自分の名前を嫌い、母が姉を褒める度にコンプレックスを感じて負けたくないと歪んだ気持ちが現れた。

 あの時、もし姉が甘茶の毒に気づかずに祖母が飲んでいたらどうなっていたのだろう。万が一の事があったら母は殺人を犯したことになってしまう。

 そこまで追い詰められていた母。その母の目を覚ますには姉が死の淵に立ったところをみせるしかなかった。姉がどれほど賢くて勇気があったのかが窺える。そんな姉に自分が勝てるわけがない。

 そう思ったとき、肩の力がすーっと抜けた。

「それじゃ、約束通り教えてあげるね。あなたの探している男の子は体育館にいるわ。複数の人たちに取り囲まれている。あなたひとりでは助けられないと思うから、他の友達を探して協力してもらうのね」

「その他の友達なんですけど、どこにいるかわかりませんか?」

「さあ、どうかな。みんなが集まりそうなところを考えたらわかるんじゃない?」

 そこまでは教えてくれそうになかった。きっちりとしたようでいて結構意地悪そうな感じがした。

「あの、どうして私に紫陽花のクイズを出したんですか?」

「たまたまよ。それがどうかして?」

 偶然の産物が私に過去を蘇らせた。でもそれでよかったように思う。気がつくときって何かと偶然が現れるものかもしれない。

「いえ、その、面白かったです」

「そう、よかった」

「でも一体あなた方は誰なんですか?」

「その答えは自分で見つけて。それよりも早くお友達を探した方がいいわよ」

 これ以上は何も教えてくれなさそうだ。

 私は一応頭を下げた。そして踵を返して音楽室を出た。後ろからまたピアノの音が聞こえる。たどたどしくてとても下手くそだ。

 だけどそのメロディは聞き覚えがあった。『遠き山に日は落ちて』だ。夕方に流れるメロディでもある。どこか物悲しくて、早く家に帰らないとという気持ちにさせられる。これも暗示のような気がする。この世界から脱出して早く元に戻らないと。

 私は階段を下りていく。やがてピアノの音は聞こえなくなった。

 音楽室で出会ったあのふたり。見かけもくノ一と変な博士だった。理由は分からないけど、私を待ち構えていたように思う。

 意味もない出題されたクイズ。いや、偶然にもそこには私の過去にまつわるものがあった。忘れていた事を思い出し、あの時の事を姉に詳しく訊いてみたくなった。

 不思議と気持ちが整理された出来事だったように思う。これが、比呂美が言っていた自分が変わるような体験なんだろうか。

 だけどこの世界に紛れ込んだだけでもう全てが変わっているような気がする。

 ミーシャとコーセーは理夢と広瀬をちゃんと見つけただろうか。みんなどこにいるんだろう。

 大志は体育館にいる。助けるにはみんなの力が必要だ。早くみんなを見つけないと。

 本当にこの世界はゲームのようだ。ヒントを得て次に進む。クリアしたとき、果たして何が待っているのだろう。

 階段を降りて次はどこへ行こうと思ったとき、その先の保健室が目に入った。比呂美がそこで保健の先生に会ったと聞いたこともあって、私はそのひらめきに賭けてそこへ向かった。ドアの前に来たとき人がいる気配を感じ、気持ちが高揚した。やっぱり何かに導かれている。

 そしてドアに手をかけて開けようとした。鍵がかかっていてドアはガタガタとするだけで動かなかった。

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