第一章


 人がいない、店だけが開いている商店街。焼肉屋を背にして、私は澤田君と体を密着させてきっちきちに並んで丸椅子に座っている。仲睦まじく焼肉店が開くのを待っているカップルではないけど、仕方ない事情でこうなっている。
 ことの発端はほんのちょっと前、澤田君が椅子に触れたお陰でその椅子が使えるようになったのだ。
「休憩するために椅子が欲しいって思ったら、無意識に手を伸ばしてたんだ。そしたら、ゼリーの中に手を突っ込んだような、柔らかいぐにゃぐにゃした感触があって椅子に手が届いたんだ」
 その時の様子を澤田君は私の真横で説明してくれた。
 ふたつに重なった椅子を持ち上げて引き寄せる時も、ゼリーの中から取り出したように、ぷるんとした空間の歪みを感じたとも付け加えた。
 澤田君は椅子を取り出したら無造作に二つ並べて置いたのだ。
 その直後私が「座れるのかな?」と椅子に恐々と手を伸ばした。
 この空間では何にも触れられないと思っていたから、手が椅子に届いた時、それは変哲もないただの椅子にも関わらず、なんだかびっくりしてしまった。
「あ、これ触れる。周りに壁がない」
 そう言って持ち上げようとしたら、動かなかった。
「何これ、地面にくっついてる」
 私が奮闘しているのを見て、澤田君も確かめようと両手で椅子を持った。澤田君が二つ重ねてあった椅子を持ち上げて横に並べたのに、その椅子は固定されたようにびくとも動かなくなっていた。
「どうして? さっきまで持ち上げられたのに」
 動かない椅子に澤田君は蹴りまで入れていた。
 この空間のルールは一体どうなっているのか。でもやっぱり私には澤田君が原因のように思えてならなかった。
「とにかく座ってみない?」
 私が言ったからふたりして座ったのだけれども、椅子同士の間隔が近すぎて、座ると体が触れ合ってしまった。
「もうちょっと離して置けばよかったね」
 澤田君は苦笑いしていた。
 という理由《わけ》で、暫くは体が密着した状態で座ってたわけだった。
「僕、地面に座るよ」
「私気にしてないから、大丈夫だよ」
「でも」
 澤田君はできるだけ私から離れようとしてお尻半分だけずらした。
「いいよ別に、そんな座り方したら疲れるよ。だったらさ、お互い背中向けようか。そしたら、少しは楽なんじゃないかな」
 私の提案でお互い背中を向けて座る。そうすると横から来る威圧がなくなって、随分と解放された。
 私の後ろに澤田君がいるけど、視界から消えるとなんだか不安になってくる。急に澤田君が消えてしまうのではないだろうか。何が起こるかわからないこの空 間なら可能性もありかもしれない。こんなところにひとり残されるのも怖い。一度悪い方向へ傾くと段々そうなるように思えてくるからやっかいだ。
「澤田君、後ろにいるよね」
 私は振り返る。
「もちろんいるよ」
 澤田君の声もするし、振り返ればちゃんといる。でもまた前を向くと不安になってくる。負のスパイラルに陥ったように、何度と振り返っていた。
 そうだ澤田君に触れていればいいんだ。そう思ったとき、私は後ろにもたれた。澤田君の背中に触れていたら心配ないはずだ。背中なら、別に触れてもいいだろうと軽く思って後ろに反れたら、思った以上に角度が開いて慌ててしまう。澤田君のあるはずの背中がない。
「澤田君!」
 立ち上がって振り返ると、澤田君は背中を曲げてスニーカーの靴紐を結び直していた。
「どうしたの? 急に」
「ん、もう、びっくりさせないでよ。消えたかと思っちゃった」
「えっ?」
 澤田君は何の事が分かってない様子だった。
 澤田君が視界から消えるとこんなに簡単に不安になるなんて、この空間でひとりになる事を私はかなり恐れている。
「やっぱり私、横向きに座る」
 私ひとりが横になって、澤田君は背中を向けたままに座った。
「どうしたの?」
「こんなに近くにいても、背中合わせだと澤田君の姿が見えないからなんか落ち着かない」
「そっか、もしかして、僕が消えるとでも思った?」
 澤田君は何でもお見通しだ。
「出るときは必ず一緒だからね。ひとりでここから出ないでよ」
「もちろんだよ。栗原さんをこの空間に残しておけるわけがないじゃないか」
「そうだよね。だって、私たちここを出たらデートだもんね」
 私が力むと、澤田君は本当に嬉しそうにはにかんで照れていた。
「だったらさ、どこに行こう。今からデートの計画しようよ」
 澤田君の方から提案してきた。
「うん、そうだね」
 声が弾む。
 澤田君がそれに応えるように微笑んで私を見るから、今度は私が照れてしまった。
 男の子とどこかに出かけるのは、ずっと夢見ていたことだった。友達には彼氏がいて、メールの交換をしていたり、学校の帰りにどこかに寄ったり、楽しそう にしている姿を見るといつも羨ましかった。私もいつか彼氏ができるかな、なんて夢見てたけど、現実はかけ離れた生活だった。
 憧れている人がいても積極的になれない自分のせいでもあるけど、自分に自信がないからいつも無理無理とはなっから諦めてばかりだ。自分で自分を押さえつけていたのだ。
 まるで土の中で埋もれていた私。それを澤田君が突然現れて勢いつけて引っこ抜いてくれたみたいだ。真新しい自分になったようでうきうきする。
 まだ澤田君が私の彼氏って訳ではないけども、堂々とデートする約束が出来て、それを話し合うのはやっぱり楽しい。段々顔がにやけてきてしまう。
「栗原さんはどこに行きたい?」
「どこって言われても、うーんと、そうだな。楽しいところ」
「それじゃ漠然としすぎて、絞れないね」
「じゃあ、遊園地なんてどうかな?」
 これってデートの定番だよね。心の中でふふふと笑ってしまう。
「だけどさ、ディズニーランドですら二月末から休園してなかったっけ。世間は自粛状態で、人が集まる場所は臨時休業させられているところ多いんじゃない?」
「そっか、そうだった。私たちの学校ですら長い春休みになってるもんね」
 舞い上がってすっかり忘れていた。世間は今、新型コロナウイルスで大変な状態だった。
「そういえば、夏はオリンピックがあるけど、どうするんだろうね」
「中止かな」
「もうすぐ四月も近づいてるけど、早く方向を定めた方がいいよね」
「私たちが心配したところで、どうなるってわけでもないけど、今日、明日にでも発表があるんじゃないかな」
「そうだよね」
 こんな状況でも、私たちが楽しめる何かはまだ残されているはずだ。
「だけどさ、私たちは絶対に楽しもうよ。折角の高校生生活をこんなことで台無しにしたくない」
「びっくりするほど急に自由が奪われたみたいで、窮屈になったよね」
「そうだよ。これ以上、行動制限されるのなんて嫌だよね。周りも不安になっている人が多くて、時々誰かが咳なんかしたら、顰蹙《ひんしゅく》ものだよ。みんなギスギスするっていうのか、簡単に仲たがいしちゃうというのか。恐怖心ってこんなにも束縛されるんだね」
 恐怖心。自分で言っておいてなんだけど、これほど簡単に精神が壊れやすいものもない。
 辺りは相変わらず不気味なくらい静かだ。誰も人がいないのに、店は電気がついたまま。普通の商店街なのに、ここが怖いと思うだけで、常に不安がつきまとう。私は澤田君の着ているジャケットの裾をそっと掴んだ。
「僕たちはもっと自由でなければならないし、押し付けに屈服なんて簡単にしたくない。しっかりとどんな時でも生きなくっちゃって僕は思う」
「こんなの納得できないけど、今の時代は試練の時なのかな」
「試練の時か。苦しいばかりも辛いけど、それはいつまで続くんだろうね」
 澤田君の声にどことなく陰りが出ているように思えた。私は気になって様子を見れば、澤田君は俯いてじっと膝あたりを真剣に見つめていた。
 澤田君は人を疑う事を知らないような素直さがあって、真面目だけど、時々不器用な面もあるような気がする。いつも朗らかとして前向きに見えるけども、も しかしたらそれって無理にそうやって踏ん張っているんじゃないだろうか。優しいだけの彼じゃない、秘めたものが時々見え隠れする。もう少し、澤田君の内面 を見てみたいと思ったとき、私は自分語りを始めてしまった。
「あのね、私さ、中学の時がすごく試練の時だったんだ。いつまでこんな状態が続くのだろうって、すごく苦しかった。でもやっぱり終わりはあったんだ。だから、絶対この騒ぎも必ず終わる時が来るって思う」
「栗原さんは強いんだ」
「強くなんかないよ。ただ耐えて流されていただけだと思う。そしたら自然と行くべきところに着いたっていうのか、苦しいことから離れられたっていうのか」
「栗原さんはとてもしっかりしているように見える」
「ちょっと図太いところはあるかもしれない。本心を見せずに様子を見る癖はついてて、嫌なものは心の奥深くで罵るの。隠れてこそこそする陰険なんだと思う」
「自分のことそんなにネガティブに言わなくても。栗原さんはちゃんと正直に僕と向き合って喋ってるじゃない。全然陰険じゃないよ」
「それは澤田君がとてもいい人だからだよ。最初は、ちょっとアレって思ったけど、でも今は澤田君に頼りきりだし、一緒にいるとすごく安心する」
 澤田君のジャケットの裾を握ってるだけでも落ち着く。
「そっかな」
 澤田君は褒められることに慣れてないようだ。顔は恥ずかしそうに笑って、身をすくめて畏まっている。
「澤田君自身は自分の事どういう風に思ってる」
「僕が僕をどう思うかって?」
 澤田君はうーんと唸りながら上を見て考え込んだ。
「そんな深刻に詳しく聞こうとしてないから。簡単でいいから」
「うーん……」
 澤田君は苦しみながら考えた末、やっと口を開いた。
「カジモドさん」
「ん? 梶本さん。誰それ?」
「えっと、カジモ《《ト》》じゃなくて、トには濁音がついて、カジモ《《ド》》っていうの」
「はっ? カジモド???」
 何のことかまったくわからない。
「あれ、知らない? ディズニーアニメの『ノートルダムの鐘』。あの主人公がカジモドさん」
 言われて見ればなんとなく思い出してきた。
「もしかして、あのせむしのキャラクター?」
「そうそう。観たことある?」
「子供の頃、観たことあるけど、あまり話は覚えてないな」
 絵柄もあまり好きじゃないし、話もシリアスぽくて今でも好みじゃない。
「でもキャラクターはすごい強烈だったでしょ」
「それは、ディズニーキャラクターにしてはかわいくないよね。でもなんでカジモドの話なの?」
「だから、僕はカジモドさんみたいになりたくて、そうだったらいいなって、それでその名前が出た」
 なんだかよくわからない。でもあのキャラクターは自分が醜いと分かってるから恐縮して隠れて生きていたように思う。外見とは対象的に内面は優しく、心が とてもきれいなキャラだった。澤田君とちょっと被るような性格ではあるけど、でもあんなセムシのキャラクターになりたいって、感覚がなんか違う。
「好きなの、その映画?」
「うん。僕の母がいうにはね、小さいときにそのDVDばかり観てたんだって。なんで自分でもそんなに好きだったのかわからないんだけど、時が経ってからまた観たらさ、カジモドさんに励まされたような気がしたんだ」
「励まされる要素なんてあったっけ?」
 私は首を傾げた。
「感じ方は人それぞれだから。へへへ」
 澤田君は笑いで誤魔化していた。
「澤田君とそのカジモトさんだけど」カジモドだった、まあいっか。トもドもどっちでもいいや。「えっと、ピュアなところは的を射ているかもね」
 澤田君の出してきたチョイスに圧倒されてしまって、どう対応すればいいのか、私も「へへへ」と最後はヘラヘラしてしまった。
 澤田君を知ろうと思って質問したけど、益々謎めいてしまった。
「あのさ、澤田君の好きな食べ物って何?」
「何でも食べるよ」
「だから、その中で一番好きなものは?」
 澤田君はまた考え込む。独り言を呟きながら、頭の中にはいっぱい食べ物がつまっている様子だ。
「あれも好きだし、これも好きだし……」
「だからひとつじゃなくてもいいから、思いつくままなんでも言ってみて」
「それじゃ、アルティメットおにぎり」
「えっ、何、それ? おにぎり?」
「名前は母がつけたの。見掛けはおにぎりなんだけど、中身がすごくて、だから究極のおにぎりっていう意味」
「なんの具がはいってるの?」
「ちょっと想像してみて? 何が入っていると思う?」
「えっと、なんだろう。アルティメットって……うーん、どうしてもアルミニウムしか思い浮かばない」
「なんでおにぎりにアルミニウムなの。ハハハハハ」
 澤田君に受けた。ちょっと嬉しい。
「それじゃヒントちょうだい」
「四種類の何かをご飯に混ぜるの」
「混ぜご飯か。じゃあ、ふりかけ四種を混ぜるってことかな」
「違う、違う。ちゃんとした具」
 私はいろいろと言ってみた。「鮭、わかめ、おかか、高菜、昆布、ツナ」でも全て外れた。「じゃあ、梅干し。でもこんなの当たり前すぎるよね」また不正解だろう。
 でも澤田君は嬉しそうに拍手した。
「当たり。梅干は正解。詳しく言えば、はちみつ梅が合う。それをペースト状にするの」
「なんだ、梅干しでいいのか。それじゃ、あと三つは何を入れるの? もうギブアップ」
 ひとつ当てたから、そろそろ答えが知りたい。
「残りは、ゴマとほうれん草とパルメザンチーズ」
「えっ、何その組み合わせ。それでおにぎり作るの?」
 ゴマとほうれん草はともかく、梅干とチーズが一緒に入ってるなんてびっくりだ。
「これが意外と合うんだよ。小さい頃ほうれん草を嫌がった僕に、母が工夫して作ってくれたおにぎりだった。海苔で包んでたから中身がわからなくてさ、知ら ずにそれを食べたらすごく美味しくて病み付きになった。それから嫌いなものでも組み合わせたら美味しくなるんだって、好き嫌いなくなったんだ」
「へぇ、今度作ってみよう。澤田君のお母さんって料理が上手そうだね」
「うん、おいしいよ。だから、好きな食べ物って、ひとつにしぼれなくてさ、だけどアルティメットおにぎりは僕の好き嫌いを失くすきっかけを作ってくれたから、やっぱり特別な食べ物だね」
「こんな話をしてたらかなりお腹が空いてきた」
「ほんとだ、昼の一時過ぎてる」
 スマホを取り出して澤田君は時間を確認していた。
「もうここに閉じ込められて二時間以上経ってるんだね」
 折角ふたりで楽しい会話をしていたのに、商店街を見渡せばまた不安が押し寄せる。本当にここから出られるのだろうか。
「まだ二時間だよ。そんなの映画が一本終わった時間じゃないか。だったら次の上映だ。一作目が面白かったから、次はその続編だ」
 どこまでも澤田君は前向きだ。悲観的になるよりは確かにいい。なんとしてでもここを出る。
「そうだよね、不安にならないようにしなくっちゃね。ここを出てデートするんだから」
「そういえば、どこへ行こうか話し合ってたのに、ずれちゃったね」
「じゃあ、もう一度、話合おうよ。おにぎりの話がでたから、お弁当持ってピクニックに行くなんてどうかな」
 お弁当作るの大変そうだけど、お母さんに手伝ってもらったらなんとかなるかな。
「それいいね。この近くにさ、桜ヶ丘公園あるじゃない。その名の通り、桜の木がいっぱいあって、毎年綺麗に咲くところ。そこなんかどうかな。ゆっくりと桜を見ながら丘のてっぺんまで登って、そこで一番大きな桜の木の下でお弁当を食べるの」
 澤田君の提案でビジョンが出来て、一緒に歩いている姿が想像できる。
「ああ、桜ヶ丘公園。そろそろ桜の季節だ。この商店街もそれにちなんで桜祭りって幟でてるくらいだもんね。ぜひ見に行かなくっちゃ」
「栗原さんが着ているパーカー、それも桜を連想するね。ピンクが似合ってかわいいよね」
 澤田君はさらりというから、ドキッとしてしまった。急に体が畏まってそれでいて恥ずかしくて竦んでしまう。
 私の頬も桜に負けじとピンク色に染まっているのを感じるほど、ぽっと温かかった。気持ちがほぐれると、自分が置かれている状況から暫し遠ざかる。
 澤田君のジャケットの裾をぎゅっとしながら、このドキドキを少し楽しんでいるところだったのに、澤田君が急に立ち上がったから、ひっぱり上げられた。
「ちょっと、どうしたの?」
「また猫が現れたんだ。今度はあっちの方にいる」
 黒っぽいものが路地を境目にした向こう側の奥でゆっくりと歩いている。
「あの猫を追いかけよう。何かまた変化があるかもしれない」
 そうだった。あの猫はこの椅子に座っていたんだった。そしてこの椅子を澤田君が触って、私も触る事ができた。もしかしたら、あの猫を捕まえる事ができた ら、元の空間に戻れるのかもしれない。口に出さなくともお互い同じ事を考えていたと思う。私たちは迷わずその猫を追いかけた。

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