第二章


 何も意識していなかった時は、住宅街を歩くだけでその辺に猫がいると思っていたのだけど、いざ目的を持って探せば以外にも見かけないことに気がついた。
 すっかり梅雨の季節になって、雨が降る日が多くなると、傘を持たない動物はひっそりと身を潜めて表に出てこなくなっている。
 まだ猫と全く親しくなれてないから、やっとの思いで彼女を再び街で見かけてもなんの取っ掛かりもなくて、ただ彼女はさっと僕の目の前から去っていく。
 彼女に僕の存在を知られないまま、もどかしさを抱え、それが次第にため息となっていた。
「なんだ、隼八、振られたのか」
 放課後の帰り際、鞄の中に筆記用具をつめていたとき、猫の餌が目に入って虚しくなったために出たため息を目ざとく見ていた哲がちょっかい出しに来た。
「振られるも何にも、全然まだ始まってないから」
「お前さ、鞄に、何を入れてるんだ」
 中を覗き込まれ、哲が手を突っ込んで猫の餌を取り出した。
「ちょっと、勝手にさわらないでよ」
 僕が取り返そうと手を伸ばす。
「隼八、まさか、お前」
 哲は真顔になった。
「な、なんだよ、急に」
「隼八の恋って、まさか猫なのか?」
 哲は黙って猫の餌を返してくれたが、興ざめしたように無表情になっていた。
「そうだよな。隼八が恋するなんていうのもアレだけどさ、自分からはっきりと認めること自体らしくなかったし、露骨に恋してるって正直に言うなんて、どうもおかしいと思ったんだよ。そっか、そういうことか」
 手を組んでひとりで納得していた。
「何なんだよ、何がそういうことだよ」
「だから、相手は猫なんだろ。ちょっと俺の前で見栄を張って好きな人がいるなんて、思わせぶりなことを言って、実は野良猫を見つけてそれを大げさに言っただけなんだろ」
「そういうわけじゃなくて、好きな人が本当にいるんだけど、まずは猫に餌を与えてからじゃないと何も始まらなくて」
「はぁ? お前、何言ってんだ?」
「だから……」
 哲に説明しようとするのだけれど、ひとつ言えばそれだけで済まなくなってきた。
「家に帰るときにすれ違って一目惚れしたけど、声が掛けられなくて、それでたまたま彼女が猫に餌を与えていたのを見て、自分もその猫に餌を与えて、それで接点を作ろうとしたってことか?」
 僕が説明した事を確認するように哲がまとめた。
「そうそう」
「ふーん。それでどこですれ違ったんだ」
「それは」
 うっかりと引っ越した町の名前を言ってしまった。
「なんでそんなところにいたんだ?」
 哲が疑問を持ったことで、僕はその時重大なミスをしたことに気がついてしまった。
「いや、そのちょっと用事があって」
「なんの用事があったんだ。お前、家に帰るときって言っただろう」
「だから、その、買い物だよ。それが終わって家に帰ろうとしたんだよ」
「あんなところ、何も店なんてないぞ。何を買いにいったんだ」
 哲は目を細くして違和感を覚えていた。
「その、買いにいったというのか、頼まれて行ったんだけど、結局は店を見つけられなくてさ、よくわからないままに終わったんだ」
 少し苦しい。
「あのさ、隼八、俺に何か隠しているだろ」
 ぎろっと睨んでくる哲の目に僕はビクッとしてしまった。
 哲は信頼する奴にはいつも親身になって接するから、そこに誤魔化しや嘘があるのを非常に嫌う。
 泳いでいる僕の目を見て哲は脅すように凄みを利かせた。
「いいから話せ」
 僕は観念して正直に家庭の問題を哲に話した。そのせいで引っ越したことを明かした。
「バカ野郎。なんでそんな大事なことを俺に相談しないんだ」
 哲は怒りだした。僕はひぃっと身を竦ませてしまう。
「だって、そんなこと誰にも言えないし、僕だってどう受け止めていいかわからなかった。ただ、こんなことになるのが嫌で嫌で、それを口にしてしまったら、もっと惨めになると思った。それに高校はみんなと進学できないから、それを言うのも辛かった」
「それでひとりで抱え込んで、俺の前ではヘラヘラと自分を偽って過ごしてたのか。通りでなんかおかしかったはずだ」
 哲は僕の変化には気がついていた。でも僕が軽く促すとそれで過ぎ去っていった。
 僕は怒っている哲をチラッと上目使いで見れば、哲は悔しそうに顔を歪ませていた。そんなに黙っていた事が腹立たしかったのだろうか。
 すると哲は急に肩の力を抜いて、息を漏らした。
「隼八、ごめんな」
「えっ、なんで哲が謝るの?」
「俺、隼八のおかしいところに気がついてたのに、真剣に受け止めなくて、隼八のことだからって、つい軽くあしらってしまった」
 僕は黙って訊いていた。その時僕は、確かに気持ち的にいっぱいいっぱいで哲にイラッとしたのは事実だ。あの時の事を思い出すと、僕も面映い。
 何か僕が言おうとすると、また哲が言葉を続けた。
「正直に話してくれなかったことに失望したけど、それは俺が勝手に隼八がこうあるべきって決めてかかったから、そんな風に感じてしまったんだと思う。俺の方が隼八に話しさせ難い雰囲気を作ってたのかもしれない」
 僕は今気がついた。哲は僕を心底助けたいと思ってくれたんだ。哲は僕に心を開いてくれていたけど、僕はどこかでまだ遠慮していて、哲に黙ってついていっていただけだった。
「ううん、僕は話すべきだったんだ。ひとりで抱え込んでいた時、確かに精神的に参って全てが嫌になってしまった。僕は自分自身にも本音をさらけ出せず、ひたすら我慢してばかりで臆病だった」
「そうなんだよ。隼八の性格からしたら、すぐに遠慮して自分を押さえ込むもんな。それを分かってたのに、俺もそれに慣れてしまっていた。そこが隼八の優しいところでもあるけど、それは悪い意味でいえば、正直になれないってことだもんな」
「よく見てるよね、僕のこと」
「当たり前だろ、親友なんだから」
 哲から出たその言葉が胸に沁みてくる。僕は体の力がぬけたような、それでいて背負っていた重いものが消えていくような安心感を得ていた。
「哲、ありがと」
「何を今更、でも力になれることがあったら、頼ってくれて構わないぜ。俺もなんかショックだな。三年間ずっと同じクラスでさ、高等部もまた一緒に行けると思ったのに。高校卒業までの学費の援助はなんとか父親に出してもらえないのか?」
「無理を言えば出してもらえたと思うんだ。だけど、この先何があるかわからないから、節約して、その分生活費としてもらうほうがいいと思ったんだ」
「そういうところ、現実的だな。でも隼八は正しいと思う」
 悩んだ末に決めたことだから、哲に肯定されて自分自身もこれでよかったんだと思えて嬉しい。
「哲に聞いてもらってよかったよ。なんか頑張れそうだ」
「あまり無理するなよ。それで頑張るといったら、その好きになった女の子の対策だけど、手伝ってやろうか」
「えっ、どうやって」
「まずは、隼八が女の子と話すことに慣れないとな。猫に餌付けしたところで、女の子と話すきっかけにはあまり繋がらないと思うぞ」
「そ、そっかな」
「じゃあ、どういう計画をしていたのか話してみろよ」
 僕は頭で想像していたことを、哲の前で言葉にしてみた。
 僕の計画はこうだ。
 猫に餌を与え、そこを彼女に見てもらう。または彼女が猫に餌を与えるのを見たら、近寄って僕も与えていた事を伝える。どっちにしろ、猫に餌を与えていたという共通点があれば、話すきっかけになるはずだ。
「それで、猫に餌を与えることが今は目的になっているってわけだ」
 哲は納得したように見えたが、急に首を横に振る。
「何がダメなの?」
「いつ猫に餌をやっているところを彼女に見せる? いつ彼女が猫に餌をやっているところを隼八が見る?」
「そのうち」
「あのな、それだとなかなか二度目のそういう偶然は起こらないぞ。先に、猫関係なく彼女に会ったらどうするんだよ」
 哲のその質問に僕は「あっ」と声を出す。
「その分じゃ、すでに彼女に会う機会があったんだな。だけど猫に餌を与えることが先にあったから、折角また出会えても何も出来ずに見送ったな」
 哲の言う通りだ。声を掛けるきっかけが分からず、見かけても何も出来ずじまいだった。
「哲、どうしたらいいの?」
「だから、隼八が女の子と気軽に話せるようにならないといけないわけだよ。その特訓をしようじゃないか」
「特訓?」
「まあ、任せな」
 哲自身、僕を助ける名目で楽しいと言わんばかりににたりと笑った。
 哲に相談したその週末。僕は哲の誘いで、ホテルで催しされるパーティに招待された。
 パーティに着ていく服なんてもってないから、その話を持ち出された時、僕は遠慮してしまう。
「お互い制服でいこうぜ。ブレザーだし、ネクタイしてるし、学生だから制服が正装だ。とにかく俺だって、そんなパーティに行くのはあんまり気乗りしないんだぞ。でも隼八のためなんだからな」
「それ、なんのパーティなの?」
「俺の父の会社のイベントで、各方面からいろんな人が来るんだって。俺も詳しい事はわからないんだけど、こういう催しがある度にいつも父から社会勉強のために参加しろって言われてたのを断ってたんだぜ」
 やはり噂通り哲は金持ちの息子だった。
「そんなとこ、僕が行ってもいいの?」
「ああ、父に友達と一緒に行きたいって言ったら喜んでくれたくらいだ。隼八のことは大親友だって、いつも父に言ってるから、一度会いたいって」
「ちょっと、待って。僕のことお父さんに言ってたの?」
「もちろん。俺ってさ、なんか知らないけど金持ちのボンボンとか思われてるだろ。そんなことで意味もなく寄って来る奴がいるんだよ。利用しようとか思う奴 もいたり、あとはライバル意識もったりしてさ、なかなか心許せる友達なんてできないと思ってたわけ。そしたらさ、ぬぼっとして、マイペースな奴がいるじゃ ん。媚びうる訳でもなく、張り合う訳でもなく、自然体で気がついたらいつも側にいるような犬みたいなのが」
「もしかして、それって僕のこと?」
 哲は明確に答えないで笑っていた。
「いや、なんていうのか、安心するんだよ。まあ、時々引っ張ってやらないと、あまりにも鈍感すぎるんだけど、それも一緒にいてて楽しいと思えるのも不思議な奴さ」
「褒められてるのか、貶されてるのかわからないよ」
「おっ、自分のことだって思ったな」
 哲は笑っているけど、ここは僕が怒るべきなのかもしれない。だけどそれが全く不快じゃなかった。僕も一緒になって笑ってしまった。
 哲は僕よりも大人で物事をよく見ていた。だから争い事や問題をさけるようにしながら、最善をつくしていたから、みんなと上手くやっていたんだ。上辺だけに見えることもあったけど、それが哲のコミュニケーションの高さでもあった。
「パーティ、行く。是非連れて行って」
「おっ、なんだ急にスイッチ入ったみたいだな」
 哲のようになれたらどんなにいいだろう。そこへ行けば、自分も変われるような気になった。

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