第二章

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 猫に餌を与え始めると、猫の方が僕を探しているのか出会う回数が多くなった。塀の上をスタスタスタと小走りに、それでいて流れるようにすうっと近寄って きたかと思うと、さっと華麗に壁を伝って僕の足元へ降り立つ。そこからは体を擦るように僕の足元にまとわりついて、尻尾をピーンと立ててニャーニャーと催 促し始める。
「よしよし、今あげるから」
 この調子なら女の子が通りかかれば僕の事を気になってみるはずだ。辺りをキョロキョロするが、今は人通りがなく車が一台通っていっただけだった。暫く女 の子が来ないか待っていたけど、その気配が感じられない。残念でしたと、蝉の声がどこからともなくジージーと聞こえていた。
 猫は待ちきれず僕の足にドンと頭を押し付けた。
「わかったよ」
 しゃがんで猫に餌をあげると、一心不乱で食いついた。それはあっという間に終わってしまった。
「また明日ね」
 猫はもっと欲しいと目をまん丸にして僕を見上げ、僕もまた彼女に会えなかったと諦め悪く辺りを見回した。
 女の子に会えば、きっと自然に話しかけることができる。あがり症の僕もその時が来れば覚悟を決めていた。
 これだけ状況が整えば猫の話題ですんなりと話しかけられるはずだ。少しはどもるかもしれないけど、困ったときは猫の話題を素早く持っていけばいい。
「この猫かわいいよね。君も餌をやってたの? 奇遇だな」なんて話し始めれば、彼女も無視できず、あわよくば心開いてくれるはずだ。
 そう願って諦めずに作戦を実行していた時、とうとう街角で女の子が猫と一緒にいるのを目撃した。
 僕はその場で飛び上がりそうに「ヤッター」と強く拳を握った。走り寄っていきたい衝動を抑え、しばらく彼女の行動を観察する。彼女は辺りを確認してい た。スティック状のおやつを手にして、それを猫に見せながら、道の端へと誘っていた。まだ僕とは距離があったので彼女は僕の存在をあまり気にしていない。 それともまだ気がつかなかったのかもしれない。
 やっと待ち望んだシチュエーションが今目の前に――。久しぶりに見た彼女に感動し、これから話しかけるんだと思うと心臓がドキドキとして口までせり上がって来そうだ。
 話しかけようとする意気込みが却って僕の体を硬くして思うように動けなくなってしまう。落ち着け、落ち着け。
 暫く深呼吸をして、それから彼女に近づこうと足を一歩動かした時だった。僕の後ろから自転車がやってきて側をすうっと通っていった。その自転車は女の子の前でブレーキを掛けてキーと不快な音を響かせると、猫はびっくりし危険を察知してどこかへ走り去っていった。
 突然のことで女の子もびっくりし、恐る恐る自転車に乗っていた年老いた男に視線を向けた。目が合ったのか、その老人は威圧的な態度を女の子に向ける。
「あんた、猫に餌やっとるんか!」
 しわがれた声で頭ごなしに女の子を叱り出した。
 それを見たとき、あの張り紙の文字が頭に浮かんだ。あれを書いたのはあの爺さんに違いない。
 女の子は突然のことに、爺さんを見ておどおどしている。肩を竦め体を強張らせ、戦慄していた。
「勝手な事をするんじゃない。猫の糞の被害にあったこともないだろうし、自分で責任もって飼えないくせに、餌だけ与えてあとは知らん振りか」
 知らない人から頭ごなしにいきなり怒られたら恐怖の何ものでもない。僕もまた機転が利かずにびっくりしてただ突っ立っていただけだった。
「ご、ごめんなさい」
 女の子の声が震えでかすれている。今にも泣きそうだ。
 あの子だけが責められるなんて不公平だ。僕だって同じように猫に餌を与えていたじゃないか。それなのに、僕はどう切り出していいのかわからない。足が地面にくっついたように動かず、息だけが荒くなっていた。
「猫に餌をやるのなら、責任もってあんたが家で飼いなさい。それが出来ないのなら、無責任な事はするんじゃない」
「す、すみません」
 女の子は耐えられなくなって、走り出す。一方的に怒鳴り散らされ、怖かったこともあるだろうが、そこまで怒らなくてもという気持ちもあっただろう。あれ は女の子に対して怒りをぶつけていたのと同じだ。もっと他に言い方があったはずだ。あれではトラウマを植えつける。女の子の目にはあの爺さんが鬼みたいに 見えたかもしれない。
 目を赤くして、僕の前を駆け抜けていった。
「全く、今時の若いもんは身勝手な。話もきっちりとできんのか。全くもう」
 爺さんはぶつぶつと文句を言いながら自転車に乗って去っていった。僕ひとりだけがその現場に取り残された。
 僕はこの時、とても後悔した。なぜ彼女に駆け寄ってあげられなかったのか。彼女だけが責められてしまった事が申し訳なくて顔向けできなくなってしまった。あんな風に叱られたら心に傷が残って、猫に餌をあげる共通の話題を持ち出して話しかける事ができなくなってしまった。
 こんな最悪な状態になって、僕は体が竦む。いつも肝心な時になると僕は動けない。結局は何にも出来ないただの臆病者だ。あの時僕が彼女の盾となって、僕 が叱られていたら彼女の傷はそんなに深くなかっただろう。こんなこと想定してなかったから、ショックで頭の中が真っ白で何も考えられなかった。
 彼女を守ろうとしなかった事は僕にも大きな爪あとを残していた。自分がここまで無力で情けないことに自分でも腹立たしい。
 あまりにも悔しくて、近くの電信柱を強く蹴っていた。
 つま先がジンジンとして痛いと顔を歪ませ、不快な気持ちで家路についた。
 このことを次の日学校で哲に報告すると、呆れたため息が聞こえてきた。僕もしゅんとして首をうな垂れていたから、十分反省していると見なして哲は僕を責めなかった。
「過ぎ去ってしまったことをとやかく言うのは仕方がない。次、彼女に会ったら、正直に自分の気持ちを言えばいい。それで話すきっかけにもなるじゃないか。今はプラスに考えよう」
「うん」
 頼りなく返事はするも、目を赤くして泣いていた彼女の顔を思い出すと、あの時の事を穿《ほじく》り返すのが悔やまれる。
 でも僕はもっと想像を働かせて、どういう風に彼女に次会ったら声を掛けるべきか考えておくべきだった。後味が悪くて、いつまでもこの事が僕を落ち込ませ て苦しく、それを次にどう生かすかなんて考える余裕がまだない。彼女の心の傷が癒えている事を願うことしかできなかった。
 夏休みが始まっても、まだ彼女のことを引きずっていた。あの一件があってから、僕は猫に餌を与える事をやめた。猫にとっても餌をもらえない事は寂しいだ ろうけど、そんな気分ではなくなってしまった。僕の浅はかな思いつきで猫も不幸にしてしまったかもしれない。今度は猫を見かける事が辛くなって、猫に会わ ないように街を歩く。
 避けていても相手は動物だ。僕を見かけると、無邪気に近寄ってくる。尻尾を立てて僕の足元ですりすりしている。あどけなく僕を見つめる真ん丸い目が罪意識を強くする。僕は何度もごめんねと謝ってしまった。そしていつしかパタッとその猫に会う事はなかった。

 夏休みの間、高校受験を控えている僕は夏期講習に通うことにした。
 朝、バス停でバスを待っていたときだった。ギラギラとした夏の太陽がまぶしく、暑いと汗ばんでいた額を軽く拭った時、ふと見た先にあの女の子がゆっくり と歩いてきていた。もしかして同じようにバスに乗るつもりだろうか。それともそのまま過ぎ去っていくのか。女の子はこちらに向かってどんどん近づいてく る。僕はドキドキし、それでいて何もできないから、もどかしくて苦しくその場で突っ立っていた。
 バス停に近づく手前で、女の子は不意に立ち止まりスマホを出して何かを確認している。メールでも入ったのか、それを見て思案している様子だった。
 一度元来た道を振り返って引き返そうとしたように見えたけど、思いとどまって結局はバス停に向かって歩いてきた。
 バス停の周りには数人ほどパラパラと人が待っていた。遠慮がちに女の子は少し離れた位置で立ち止まった。やはりバスに乗るつもりだ。僕は道路も面したバ スに早く乗れる位置にいたけど、女の子に近づきたくて、そっと後ろに下がった。女の子は下を向いてスマホを見ていたので、僕の怪しい動きに気づくことはな かった。そのままゆっくりと、女の子のいる手前まで移動できたときだった。急に誰かが叫んでいる声が聞こえた。その声を確かめようと振り向いた瞬間、そこ で見たものがありえなかった。
 恐ろしい速度で歩道に乗り上げてくる車。そう思ったとき、目の前の景色が激しく反転しぐちゃっと混ざり合って何が起こったか判断できなかった。
 無から徐々に聞こえてくるノイズが悲鳴と怒号に変わり突然騒がしくなった時、僕は激痛に顔を歪ませて赤く染まった何かを見ていた。投げ倒されたように体が横たわり足の感覚がおかしい。
 あの女の子は一体どうなったのか。視界がぼやけ、意識が遠のいていく。次に気がついた時、僕は病院のベッドの上だった。
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