第三章

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 商店街の出入り口の両端はどちらも車が激しく行き来する通りに面し、頭上にはアーケードが広がり雨も気にせず買い物もできる一本の抜け道といってもいい。
 片方は駅へと続き、そちら側に面した大通りは町の中心部になってバスも通り、もう片方と比べると車の行き来が激しい。今、その駅に近い方の通りに面した出入り口に、私と澤田君は突っ立っていた。
 ここまで空間が広がったのは素直に喜ばしいけど、商店街の出入り口から大通りに向かっての外の景色が見えず、透明であったはずの壁がその出入り口では白く、まるで氷の壁をみているようだった。
「あれ、どうして向こう側が見えないの?」
 私が訊けば、澤田君も首を傾げた。
「ずっと目に見えない壁であったのに、ここに来てその壁の存在が見えるようになった。そして不透明でその先が見えないのはまるで、ここから出られないと蓋をされているみたいだ」
「私が白いもの限定でしりとりなんかしたから、私たちがイメージした白に影響されてしまったとか?」
「いや、それは……」
 言葉につまる澤田君。やっぱり第一にその可能性を考えていたみたいだ。
「ねぇ、反対側も確認しよう」
 今までの法則からすれば、もう片方も同じように空間が移動しているはずだ。私たちは商店街を横断する。端から端へと歩くと結構な距離があった。真ん中あ たりには路地があり、ここから私たちが入ってきたところだ。そこを越えて反対側に行く。先の出入り口は中側から外側の光のコントラストが激しくここからだ と白く光って見えた。それは近づいてもやっぱり同じで白いままだった。
「こっち側の空間も同じように広がって壁ができてる」
 端まで来ると、澤田君はその出入り口にふさがる壁を触った。広くなっているとはいえ、目の前の出入り口がふさがっているのを見るとまゆ毛が下がり少しがっかり気味だ。
「向こう側と同じように、白い半透明の壁だね」
 私も、それに触れながら言った。
「この商店街の両端がふさがれた状態か」
 澤田君は考え込んだ。
「ここまで空間が広がったら、この閉鎖された空間が消えるって思ったのに。なんで?」
 思っていたのと違うから、私はとても落胆して一気に気分が滅入った。
「栗原さん。これはチャンスかもしれないよ」
 澤田君は私と真逆の反応だ。思わず「はぁ?」と呆れてしまった。
「どうしてこれがチャンスなの? もう絶望的な予感しかしない」
「あのね、これも哲が教えてくれたんだけど、ピンチのときは発想を逆転させてチャンスと捉えるんだ」
「えっ? この状態を?」
 出口が閉ざされ、ここからは出られない『見える壁』の出現によってありありとしているのに、それをチャンスと見なす澤田君には賛同できない。
「そう思った方が楽しいじゃない。辛いことに飲み込まれて暗くなるよりも、きっと解決方法があると信じたほうが得しない?」
「こんな状態で損得って」
「これは次へのステップなんだよ。ゲームで言ったらレベルをクリアーして次のステージへ挑戦といったところかな」
「ゲームのステージで片付く問題なの?」
「栗原さんはゲームしたことない?」
「それはあるけど」
「だったらさ、ひとつのステージクリアーしたとき嬉しいでしょ」
「ゲームに関してはそうだけど」
「だから今までは空間を広げるゲームで、そして全部クリアーした。次のレベルが、この出入り口の壁ってわけだ。確実に解決に向かっているんだよ」
 簡単に言ってくれるけど、それとこれとは全然違う。
「そう仮定したとしても、じゃあ、ここからどうすれば」
「基本は今まで通りでいいんだと思う」
「今まで通り?」
「そう、僕たちが楽しめばいいってこと」
「楽しむ?」
「栗原さんが先にその法則を見つけたでしょ。だったら、もっと楽しもう。このふたりの時間を」
 澤田君が言った『ふたりの時間』。その言葉にはっとした。ずっとふたりだけでこの世界に閉じ込められていたけど、裏を返せば邪魔が入らない本当にふたりの時間だ。
「澤田君はどこまでもポジティブだね。その考え方は称賛に値する」
 ふたりの時間。不思議とその響きはとても特別なものとして私の耳に届いた。鈍くふさがっていた重い感情がふわっと浮いていく。諦めちゃいけない。それよりも澤田君と過ごせることを有難く思ってみよう。こんなときだから、力を合わせる。
「澤田君、ほいっ」
 私は手を出した。
「えっ、何?」
「握手、握手だよ。新たに気合を入れよう」
 私が前向きになったのを知って澤田君は自然と口元を綻ばせた。
「うん」
 私の手をぎゅっと握った。
 澤田君の手の温かさと、ぎゅっと握られた感触が心地いい。
 澤田君と一緒なら頑張れる。澤田君のにこやかな顔を見たとき、私は澤田君の事が好きだと自分に正直になった。
『澤田君が好き』
 手を握りながら、私は心の中で呟いた。
 その時、澤田君は辺りをキョロキョロする。
「そういえばさ、猫は確か、あの看板の辺りに隠れたんだったよね」
 あっ、猫。そうだった。あの猫は今どこに居るんだろう。
 百円ショップの隣はチケットショップだった。扱っている商品を紹介した立て看板と店の名前が目立つように電飾看板が並んで置かれていた。この辺りで猫が消えたように見えたんだった。
 その周りを良く調べたけども、猫はすでに移動したのか、その姿は見えなかった。それよりもその隣、この商店街の一番端にある店に興味を抱いた。色とりどりに美味しそうなケーキがショーケースの中に入っている。それが商店街の通りに面していた。
「うわ、おいしそう」
 お腹が空いているから余計に食べたくなってしまう。
「ほんとだ、美味しそうだね」
「ねぇ、ここから出たらやることのひとつに、一緒にケーキも食べることも付け加えようよ」
「いいね。それ」
 カラフルなケーキをバックに、あどけなく笑う澤田君。かわいい。私がスマホを持っていれば、写真を撮ったのに。あっ、澤田君に借りればいいか。
「あのさ、澤田君、ちょっとスマホ貸してくれない?」
「何するの?」
 澤田君はジャケットのポケットからスマホを取り出しながら訊いた。
「ケーキと澤田君の写真撮らせて」
「それじゃ、記念に一緒に撮ろうか」
 澤田君は私の側に寄りスマホを掲げる。私もできるだけ澤田君と密着する。ケーキ屋をバックにパシャリと一枚撮った。それをふたりで確認する。
 澤田君の腕を抱きしめ、にんまりと少しふざけたように私は笑っている。その隣で恥ずかしそうに笑う澤田君。
「いい感じに撮れてる。ねぇ、それ私のスマホにあとで送ってくれる?」
「うん、いいよ。メアド教えて」
 澤田君はスマホを操作して、私のメールアドレスを打ち込んだ。
「今は送信できないけど、ここから出たら必ず送るね」
 澤田君の言い方だと、このあとすぐに出られるように聞こえた。
 本当にそうであったらいいと、私は出入り口をふさいだ壁を振り返る。依然変わらず、外が見えないまま巨大な南極の氷の壁のようだ。
 見ているとその大きな存在に打ちのめされそうでため息が出てきた。
「大丈夫だよ。きっと出られるから。ふたりで信じよう」
 澤田君が言うんだから間違いない。
「そしたら次はどうやって楽しむ?」
 この場所で澤田君と何をして楽しんだらいいのだろう。私が考えているとき、澤田君があっさりと言った。
「それじゃ、じゃんけんグリコでもやってみようか」
「ええ、じゃんけんグリコって」
 私が戸惑っていると、澤田君は有無を言わさずすぐに行動する。
「じゃーんけん、ぽん!」
 澤田君の弾む掛け声ががらんどうな商店街いっぱいに元気に響くと、体に刷り込まれた条件反射で私は抗えずそれに合わせてチョキを出していた。
「あっ、僕の勝ちだ。グ、リ、コ」
 澤田君はできるだけ足幅を広げて三歩飛んだ。
「んもう、それで、また向こうの端までじゃんけんグリコしながら行くの?」
「そうだよ。次行くよ、じゃんけーん」
 澤田君の掛け声の後に私も続く。
「ほい!」
 こうなったらやるしかない。今度は私が買った。
「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」
 私も負けずに足を大きく広げて弾むように進んだ。
 ふたり同時に「じゃんけんぽん」と勝負する。また私が勝った。
「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」
 澤田君と少し距離が出来てしまう。
「次は、負けないぞ。じゃんけんぽーん」
 どっちも同じパーだ。同時に「あいこでしょ」。
 また私が勝った。
「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」
 澤田君とどんどん離れると不安になってくる。
「澤田君、まじめにやってよ」
「僕はまじめにやってるよ。それじゃいくよ。じゃんけんぽん」
 やっと澤田君が買った。
「グ・リ・コ」
 それじゃ追いつかないじゃないの。
 しばらくじゃんけんグリコで遊んでいたけど、商店街の半分まで来るのに結構な時間がかかってしまった。
「澤田君、ちょっと休憩しよう」
 まだ私に追いつけない遠く離れた澤田君に叫んだ。
「オッケー」
 返事をすると、澤田君は私の居る方向へとゆっくりと歩いてきた。
「澤田君、じゃんけん弱いね」
「栗原さんが強いんじゃないの」
 結局楽しんだというよりも、時間つぶしになってしまい、ちょっとこれは体力を消耗してしまった。こんな事をして解決策に近づいた気になれなかった。
「あまり面白くなかったかな」
 澤田君は私の顔色に気がついて、心配になっていた。
「だって澤田君負けてばっかりだからやりがいがなくって」
「こういうのって、張り合いがないと楽しめないよね。ごめん」
「でもね、久しぶりだったな。小学生の時以来で、あの時は皆できゃっきゃしながら楽しんでたな」
「栗原さんの小学生の時ってどんな子だった」
「うーんとね、独占欲が強かったかな。仲がいい子が他の友達と一緒に遊んでいるとちょっとヤキモチやいたり、すねたりとかあったかな」
「子供にはよくある感情だと思うよ」
「そうなんだけど、自分がその子の一番じゃないって思ったら辛くってさ。昔ね、スポーツがよく出来て、クラスでも人気者のリミちゃんっていう子と仲良く なったの。近所だったし、親同士も知り合いでお互いの家に遊びに行ったりしてたんだ。手を繋いで一緒に歩いて、私はすごく大好きでたまらなかった」
 澤田君は首を振って相槌を撮りながら聞いていた。
「ある日、リミちゃんに私のこと好き? って訊いたの。そしたら『うん』っていってくれたの。そこでやめとけばよかったのに、どれくらい好きって訊い ちゃって、そしたらリミちゃん『普通よりもちょっと上の好き』って言ったの。それが子供心にすごくショックだった。次にリミちゃんが、『智世ちゃんは私の ことどれくらい好き?』って訊くの。もちろん私はリミちゃんのこと友達の中で一番大好きだったんだよ」
「ちゃんとそれを伝えたの?」
「なんかね、その時、対等じゃなかったことが悔しくてさ、『私も普通よりもちょっと上の好き』って答えちゃった。これでお互い様だって思ったんだけど、変なところでプライドが発動しちゃった」
「それは仕方ないよ。僕だって、哲は親友だけど僕がちょっと問題を抱えたとき、哲のこと避けてしまったことがあったんだ」
「澤田君でもあるんだ、そういうこと」
「そりゃ、あるよ。心が不安定な時は自分にネガティブになって周りが面白く見えないから、つい卑屈になっちゃうんだろね」
「でも、今の澤田君からはネガティブな行動がイメージできないな」
「油断をすると、どっからかすぐに入り込んでくるよ。だからそれを跳ね除けるために、できるだけいい事を口にするようにしてるんだ」
「ピンチの時がチャンスとかもそうだね」
「ほんとはそれ、哲が教えてくれたんだ。僕は哲のお陰でとても助けられたんだ」
 澤田君は右足の太もも辺りをさすっていた。
「澤田君もしかして疲れてる? こんなこと言うのも何だけど、走るときさ、ちょっとひょこひょこしてるじゃない。もしかして、足が痛いんじゃない?」
「あっ、痛いって程じゃないんだ。ちょっと事故にあって、それが原因」
「えっ、事故にあったの? 大変だったね」
「うん。中学三年の夏休みが始まった時、バス停でバスを待っていたら、いきなり乗用車が歩道に突っ込んできたんだ」
 それを聞いて私ははっとした。
「あっ、知ってる、その事故。全国的に大ニュースになったし、地元だからみんなびっくりして、大騒ぎだったよね。その事故に澤田君が巻き込まれてたの? だけど無事でよかった。確か、あの事故で犠牲になった人がいたよね」
 私がその話を軽々とすると、澤田君は心を乱されたかのように少し動揺して俯いた。私はその動作にしまったと焦った。
「ご、ごめんね。辛いこと思い出させちゃって」
「いや、いいんだ。気にしないで」
 澤田君は現場にいたから、一緒にいた人とは顔を合わせていたはずだ。そんな人が側で犠牲になったと思ったら、辛いに決まっている。それに自分自身も巻き込まれてトラウマもあるはずだ。本人の前で蒸し返すのはちょっと軽率すぎた。
「あの事故は本当に悲惨だった。私もよく覚えてる。あの日、私もバスに乗ろうとしてたんだけど、用事ができてそれで引き返して乗らずにすんだんだ。その後であの事故が起こったから、ショックだった。確か、犠牲になったのは中高生の学生だったんじゃなかったかな」
「うん、中学生の女の子だった。僕の初恋の人……」
 澤田君は俯いたまま、呟いた。
 私はどきっとして目を見開いた。
「えっ、そうだったの」
「何度も声を掛けようと、色々と彼女に近づく手を考えてたんだ。だけど臆病でそれが出来なくて……」
「……」
 どう返していいかわからない。喉の奥で息がつまった。
 澤田君は淡々と話しているけど、語尾が弱くなっている。私に似た女の子が事故で死んでいた。他人事だと思えない。
 澤田君が頭をあげ双眸を私に向ける。
「事故にあった直後、僕の意識がなくなって気がついたら病院のベッドにいたんだ。あの時僕は夢を見ていたんだと思った。それは目が覚めても夢に違いないと思ったんだ。こんなこと起こってないって、信じこもうとしてた」
「精神的にもショックが強かったんだね」
「事故についてのニュースも記事も僕は目に触れなかった。ずっとなかったことにしたかった。後で中学生の女の子が亡くなったって耳に入ったとき、何かの間 違いだってそれすら信じなかった。僕の中ではあの事故はなかったことになってるから、あの女の子も生きているってずっと思って過ごしたんだ」
 澤田君は右足のズボンの裾を膝まで上にあげた。それを見て私は息を飲んだ。明らかに違いがわかる作り物のそれは、改めて知らされると驚きを隠せない。
「その足は」
「義足さ。背が伸びたからちょうど新調したところなんだ。まだちょっと違和感があって、それで走るとひょこひょこしてしまうんだ」
 何かおかしいとは思っていたけど、こういうことだったのか。私が言葉につまっていると、澤田君は笑い出した。
「もしかして引いちゃった?」
「びっくりはもちろんしたけど、引くってそんなことない。それよりも、私、無理に肩車させたし、もっと早く言ってくれればよかったのに。あの時、自分がかなり重たいのかなって思っちゃったよ」
「ははは、栗原さんらしいな。隠すつもりはなかったけど、この義足自体も、僕には本当の足だって思い込もうとしてるんだ。僕の中ではあの事故は本当にな かったことになってるんだ。栗原さんを見たとき、やっぱり生きていたって思えて、それでいてもたってもいられなくて、気がついたら行動してた」
「でも他人のそら似だった」
「それでも、もしかしたらって本人かもって」
「それであの時、幽霊じゃないかって私に訊いたんだ」
 今になって澤田君の言動が腑に落ちた。
「やはりこの世界は僕が作ってしまったのかも。栗原さんを初恋の人だと思いこんで僕がここに閉じ込めてしまった」
 最初は私も澤田君のせいにした。それはフラストレーションで八つ当たって、人のせいにするのが楽だったからだ。だけど澤田君は全く悪くない。ずっと澤田君と過ごして、この人が他人の嫌がる事を望むわけがない。
「澤田君のせいじゃない。私は路地で猫を追いかけてこの商店街の中に入ってしまった。澤田君も猫を探してなかった?」
「うん、久しぶりに猫をみたから猫の頭を撫でてたんだ。そしたら商店街に入っていったから、つい追いかけた」
「でしょ、だから私たちは猫によって、この世界に呼び込まれたのよ。澤田君は偶然私をそこで見てしまった。初恋の人に似てるっていったけどさ、本当にそっくりだと思う? 何かの特徴が一致してつい脳内補正でそっくりに見えたとかあるんじゃないかな」
「特徴といったら、その茶色っぽいつややかな髪は同じだと思ったし、近づいたら目の感じも似てた」
「私もさ、澤田君を見たとき、初めて会った気がしなかったんだ。どこかで見たことあるような、そんな親しみが湧いた」
「よく考えたら、僕たち同じ高校だった。栗原さんは学校で僕を見たことあったのかも」
「あれっ?」
「どうしたの?」
 今、既視感があった。そうだ、この感じ、前にもあった。あの時はピリッとした違和感を覚えたんだった。
「私たち学校で会った事はないはずなのよ」
「急にどうしたの?」
「だって、もし学校ですれ違ったら、澤田君は必ず初恋の人に似ている私に気がつくはず。澤田君も私が同じ学校に居た事を知らなかったということは、一度も見かけた事がなかったってことなんだと思う」
 あの時、私はそれを感じて言おうとしたんだった。
「そういえばそうだね。もしすれ違っていたら、僕は栗原さんのクラスをつきとめていたに違いない」
「それじゃなんで私は澤田君の事をどこかでみたように思ったのだろう」
「こういう僕みたいな顔もよくあるのかもしれないね。そしたら、栗原さんが僕の初恋の人に似てるっていうのも、僕にとったら一番雰囲気が近い人をそう思い込もうとしていたのかもしれない」
 人の視覚は簡単に騙される。絵が動いてないのに動いて見えたり、線ばかりの図形の中に点が点滅して見えたり、ちょっとしたことで目の錯覚が起こる。
 今も澤田君を見ていると、揺れているような気がする。
「あれ、地震かな?」
 澤田君の言葉で私もはっとした。
「やっぱり、今揺れたの?」
「栗原さんも、なんか感じた?」
「微妙だったから、錯覚かなって思ったんだけど、澤田君も感じたんだ」
 暫く動かないで様子を見ていたけど、その後は何も感じなかった。
「もう大丈夫そうだね」
 澤田君がにこっとすると、ほっとする。
 私が息をついた時、足元で何かがコツンとぶつかってきた感触があった。
「なんか今、足元にいた」
 目を凝らしてみるけど、何も見えない。
「もしかしたら、猫が今この空間に入っているのかも」
 澤田君は腰を曲げて、手探りで猫に触ろうとしていた。
 私も同じように見えない猫を捕まえようとする。
「どこにいるの、猫」
 見えないのがもどかしい。
「猫は栗原さんの足に触れたんだよね」
「うん。頭をこすりつけるようなそんな感じだった」
「猫には僕たちが見えるのかもしれない。何か猫に与えられる餌でもあれば」
「そうだよね、チュールが欲しいよね。あれを一度知ってしまったら、猫は病みつきになって、すぐに食いつくよね。昔はあれを鞄に忍ばせて、猫をみたらあげてたんだけどな」
「栗原さんもそんなことやってたんだ」
「ということは澤田君もやってたの?」
「うん、ちょっと色々とあって」
「結構、黙って野良猫にチュールあげる人っているよね。でも餌をあげるなってさ、うるさい人もいてさ」
 澤田君は急に動きを止めて私を見ていた。
「もしかして、澤田君もうるさい人に怒られたことある?」
「いや、僕は……」
「私はあるんだ。責任も持てないのに勝手に餌やるなって、頭ごなしに言われて、だけどさ、私だけじゃなかったもん。猫に餌あげてたの」
「そ、そうなんだ」
「でも、その通りだなって、怒られた後で反省して、それで母に相談して、その猫を引き取ることにしたの」
「えっ、捕まえたの?」
「そう。責任取った。今は飼い猫になったよ。これで文句言われないだろうって思って」
「それはハッピーエンドだ」
「だから、怒られてよかったかな。あのうるさい人に見つからなかったら飼う事もなかったし」
「猫にとったら幸せだね。それで名前はなんていうの?」
「福」
「フクちゃん……」
 澤田君は繰り返した。
「猫と出会ったとき、すぐに懐いてくれてね、出会う度に嬉しくて、それで勝手に福ちゃんって呼んでたの。なんか幸運をもたらす感じで縁起がいいでしょ。あ の辺では有名な野良猫で、みんな黙って餌あげて面倒見てたと思う。それで意地悪な人が、『ねこに餌を与えるな』なんて張り紙貼ってけん制しててさ」
 澤田君は一点を見つめて何か考えこんでいた。
「どうしたの? また猫見つけたの?」
「いや、そうじゃないんだけど」
 その時、再度揺れを感じた。
「ああ、また揺れた」
 今度は錯覚とかじゃなく、確実に体に振動を感じた。
「さっきのより少し大きくなった揺れだったね」
 澤田君も浮かない顔をしていた。
「でも、あれぐらいはまだ揺れたって驚くほどでもなかったよね。家の前をトラックが通ったような振動だった」
「あっ」
 澤田君が驚いた表情を私に向けた。
「どうしたの?」
「猫、猫がいる。今なんか濡れた鼻を近づけて手を匂ってたような感じがした」
「ほんと?」
 猫は確実に私たちの近くにいる。私たちはあまり動いて怖がらせないように慎重に手探りした。ふと我に返って澤田君を見れば、ぷっと吹いてしまった。
「なんかこの格好だと、潮干狩りしてるみたいだね」
「田植えしているようにも見える」
 澤田君が返してきた。
 私もまた思いつく事を言ってみた。
「どぶさらいとか」
「じゃあ、川で洗濯」
 さらっと澤田君も想像を働かせる。
「落ち葉拾い」
 すぐに私も答えた。沢山思いついた方が勝ちみたいに思えてきた。
「ええっと、栗拾い」
 澤田君もむきになって思いつくまま言い合う。
「じゃあ、どんぐり拾い」
「それ、栗拾いと被ってるよ」
 澤田君が指摘する。
「被っても別物だからセーフ。だけど私たち、何をやってるんだっけ?」
「栗原さんがこの格好を見て笑うからだよ」
「そうなんだけど、ずっとこの格好してると段々腰が痛くなってくるね」
 私は背中を真っ直ぐにしてから、後ろにそれた。体の筋を伸ばしていたその時、ゴゴゴゴゴとまた揺れた。
「さ、澤田君」
 思わず澤田君の側に寄って無意識に彼の腕に自分の腕を絡めていた。
「だ、大丈夫だよ。揺れはそんなに強くないし」
「でも徐々に大きくなってるような気がする。どうしよう、澤田君」
 さすがに地震が頻繁に起きると、不安になってしまう。澤田君も一生懸命笑おうとするけど、顔が強張っていた。
「大丈夫だよ。大丈夫。この空間では物は落ちてこない。揺れても危険なものはないってことだよ。ちょっと落ち着こう」
 私たちは密着し、辺りを見回す。
 その時は何も変わった事がないと思っていた。
「あっ」
 また私が声を上げた。
「猫が足元にいたの?」
 澤田君が確認するために腰を曲げようとした。
「動かないで澤田君。今猫は私の足をすりすりしている」
「あっ、なんか聞こえる。ゴロゴロって猫が喉を鳴らす音」
 耳を澄ますと、低音でそれでいて小刻みに響く猫の喉を鳴らす音が聞こえてきた。
「本当にいるんだ、猫」
 私たちは顔を合わせた。
「でも、その姿が見えない」と澤田君。
「だけど、猫からは私たちが見えるんだよ」
「あっ、もしかしたら」
 澤田君ははっと閃いて、必死に考えをまとめようとしていた。その隣で私は固唾を飲んだ。
「これも仮説なんだけど、さっきから揺れてるのは、この猫と関係があるんじゃないだろうか」
「どういうこと?」
「猫は僕たちが見えてじゃれている。でも僕たちからは見えない。そのお互いが居るところの時空のズレが今、重なろうとしてこの空間が揺れてるんじゃないだろうか」
「あっ、なるほど。じゃあ、揺れが大きくなっているのは、もう少しで重なり合うってことなの?」
「かもしれない」
「じゃあ、この揺れは、元の世界に戻るために起こってるってことなんだ」
 私たちの顔がぱっと明るくなる。
 元に戻れる。それが近づいてきている。
「澤田君、やったね」
 急に力が抜けて、目が潤みだした。
「栗原さん、今猫はどうしている」
 先ほどまですりすりされていたけども、今は何も感じない。あまりにも喜びすぎて無意識で猫を蹴ったかもしれない。
「あっ、どこかに行ったみたい。どうしよう」
「大丈夫。きっとまだ近くにいるよ」
 そこで、また揺れが始まった。私は咄嗟に澤田君の腕を掴んだ。
「どんどん大きくなってる」
「これは猫のせいだよ。元の世界に戻れるチャンスなんだよ」
 私たちはいいように捉えようと必死だった。
「ここを出たら、澤田君と桜ヶ丘公園でお弁当もってデートする」
「そしてケーキを一緒に食べる」
 何かの呪文のように私たちは言い合った。
 澤田君は猫に触れようと腰を折って地面に手を向ける。私はその姿をくすっと見ながら見ていたけど、急に我に返ってすっと笑顔が消えた。
 澤田君の初恋の人は事故で亡くなってしまった。澤田君はその事故をなかったことにして、その初恋の人が生きていると思い込んでいる。でも私はその初恋の人じゃないし、この場合、澤田君にとったら私の存在はどうなるのだろう。
 そう考えたら、私は初恋の人に似ている事を利用して、澤田君の弱みに付け込んで入り込もうとしているんじゃないだろうか。
 最初はそれがすごい強みに思えたけど、事故の事を知ると納得しづらいものが出てくる。
「澤田君、まだその初恋の人のこと好き?」
 私の質問に澤田君は猫を探す動きを止めた。ゆっくりと立ち上がり私に振り向いた。
「えっと、そうだね。好き……」
 澤田君がそこまで言うと、私の心が少しずきっとした。告白して失恋したわけでもないのに、何か心をぎゅっと掴まれる苦しいものを感じる。
「……なんだけど、僕が彼女に執着するのは、勇気が出せなくて声を掛けられなかったことをとても後悔しているからなんだ。もし、僕が声を掛けていたら、少しでも何かがずれてたんじゃないかって思うんだ」
「じゃあ、私の事はどう思う?」
「えっ?」
 私ははっきりと澤田君の顔が見られなくて、すごくモジモジしてしまった。澤田君も対処に困っている。
「だから、私は澤田君のことが」
 そこまで言いかけたとき、また揺れた。今度の揺れはちょっと足元がおぼつかない。
「ああ」
 私がぐらつくと、澤田君は駆け寄ってきてくれて私を支えてくれた。
「大丈夫かい」
 気持ちを伝えたいと思っていたけど、中途半端になってしまってとても気まずい。どうしよう。はっきりと好きだと言ってしまいたいのに、喉に声が引っか かって出てこない。かぁっとする熱いものがドクドクと体の中を流れて、それが胸に溜まっていくばかりで苦しい。発散できない気持ちをかかえて、泣きそうに なってくる。
 揺れは収まったけど、私の感情は収まらない。
 澤田君も動きがぎこちなくなって、私に気まずい思いをしてそうだ。
「栗原さん、あのね、僕はずるいのかもしれない」
「えっ?」
「栗原さんが僕の初恋の人に似てるっていうだけで近づいてさ、それで調子に乗って仲良くなって、それがすごく楽しくてさ、なんていうんだろう、僕、今ではちょっと後悔してるんだ」
「何を後悔してるの?」
 私に声を掛けたこと? 初恋の人を想像して私と過ごしたこと? 澤田君の目を見ながら恐れていた。
「初恋の人に似ているって言って気をひきつけてしまったこと。そんなの関係なかった。栗原さんは面白くてとても楽しい人で、栗原さんと知り合えてとても嬉 しいと思ってる。僕は初恋の人と一度も話したこともなかったし、名前も知らないし、勝手に遠くから見ていて憧れていた人だった」
 澤田君は私をじっと見つめていた。そしてその先を続ける。
「憧れと、一緒に過ごして話した人とではなんか違うなって思う」
「それで?」
「えっと、栗原さんは本当に素敵な人だと思う」
「だから?」
「えっ? だから?」
「そう、だから、私のこと好きかって聞いてるの」
 とうとう我慢できなくて、思いっきり言ってしまった。昔から独占欲が強いから、はっきりとさせたくなってくる。自分の顔が赤くなってすごく熱くなってるのがわかる。
「えっと、その、えっと、それは」
 もしかして澤田君は私のこと好きじゃないのだろうか。やっぱり初恋の人の方がいいってことなんだ。
「そうだよね、即急すぎたよね」
「違うんだ。そうじゃなくて、ほら、前にもいったでしょ。僕は自分の事をカジモドだって」
 ああ、ノートルダムの梶本さん。
「カジモドには二つの意味があるんだ。ほぼ人間という不完全な意味と、白衣の主日といわれる宗教的な神聖な儀式をする日を表わしてるの。外面は不完全、で も内面は神聖でピュア。僕も、足を片方失った時、子供の時に見ていた『ノートルダムの鐘』を観直したんだ。その時に自分とカジモドが重なってさ、それでも 一生懸命生きていこうって思えるようになったんだ。だけど、僕はまだ成長してなくてしっかりしてないから、それで、簡単に好きだっていえなくて。ほら、 やっぱり僕、普通の人と違うし」
 澤田君は自分の足のことでコンプレックスを抱いている。そんなの気にしなくていいのに。私は外見よりも澤田君の内面を見て好きになったのに。
 私もつい、初恋の人が気になり過ぎて、澤田君に私の事が好きと先に言ってほしかった。そんなのじゃだめなんだ。好きという気持ちは自分から伝えないと。
「澤田君、だったら私が言う。私は澤田君が――」
 折角いいところだったのに、また揺れた。しかも今度はいきなり足元を救われて、立っていられない。
 その時、澤田君が二度叫んだ。
「ああ! ああ!」
「何、どうしたの」
「壁が、壁が」
「壁?」
 澤田君は両サイドを交互に見て我を忘れたように取り乱している。
 私も、同じようにまず片方に視線を向けた。
「ああ! 嘘!」
 すぐさま反対側も見れば驚かずにはいられなかった。
「ああ!」
 私たちは一緒に悲鳴をあげながら、自然と寄り添いあう。
「壁が、あの白い壁がどっちもこっちに向かってきている!」
 何事にも動じない澤田君が恐ろしいとばかりに叫んでいた。
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