第三章

 3
 時々感じていた揺れは、時空のズレが重なるためのものではなく、この商店街の両端をふさいでいた白い半透明の壁が、両方同時にこちらへ向かってきていたときに生じたものだった。
 これが意味する事は、私たちはこの壁に両サイドからサンドイッチのように挟まれてしまう。
「やだ、澤田君、どうしよう。これって、私が最初に恐れていたことだったよね」
 あの時私は見えない壁が迫ってくると思って悲観的になっていた。
「栗原さん、落ち着こう。まだこちらに来るまでには時間がある。それまでになんとか解決策を考えよう」
「だけどさ、ここには出口がないんだよ。どうやって逃げればいいの」
「分かってる。でも僕たちは絶対にこの難を逃れられると信じてる」
 澤田君は自分を保とうと必死になっている。私のためにもなんとかしようとしている。
 ずっと澤田君に支えられてなんとか持ちこたえていたのに、こんな展開になるなんて思ってもみなかった。
「最後でこんなのって」
 半泣きでぼやく私。
「今、最後って言ったよね」
「言ったよ」
 ぐずっと鼻をすすった。
「ということは、僕たちは今最後の難関に挑戦しているってことだ」
 澤田君はこんな時でも、またピンチをチャンスに変えようとしている。
「だけど、それを越えられないと、本当にお陀仏の最期になっちゃう」
「栗原さん、もう一度考えよう。僕たちがこの空間に囚われた意味。なぜここに入ってきたのか」
 澤田君は絶対にあきらめようとはしなかった。なら私もぐっと体に力を入れて踏ん張る。そして大きな声を無理やり出した。
「それは、猫を追いかけて始まった!」
 私は澤田君の顔をちらりと見ると、澤田君はそれでいいと頷いた。
「僕が栗原さんを見つけて、初恋の人に似てると言った!」
 澤田君も叫んだ。
 次、私は何て言おう。もうこうなったら正直に言っちゃえ。
「私は、それがまんざらではありませんでした!」
「えっ?」
 澤田君が意表を突かれたように驚いている。まさかそんな風に私が言うとは思わなかったのだろう。
「初恋の人に似てるって言われたら、そりゃ、好意を持たれてるって思うじゃない」
「そ、そう?」
「澤田君みたいな背が高くて、優しくて、かわいくて、心が純粋な人が近寄ってきて声を掛けられたら、誰だってドキドキするの!」
 やぶれかぶれだ。
 ドドドドドとその時床が大いに揺れて、私たちはお互いを支えようと手を取り合った。
 揺れが大きくなれば、あの見えない壁の時の逆パターンで、壁が店の間隔ごとにこちらに向かってくるのがはっきりと見えた。大きな白い壁はまるで生き物のようにゆっくりと威圧的に進んでいた。私は怖くて思わず目を瞑ってしまった。
 揺れが収まるまでふたりしてくっつきあった。
「あっ」
 澤田君が叫んだ。
「どうしたの?」
「やっぱりそうか……」
 澤田君は突然ぶつぶつと独り言を言いだした。そしてぐっと体に力を入れて背筋を伸ばした時、確信したようにありったけの大きな声を出した。
「僕も、栗原さんが初恋の人に似ていて、本当にびっくりして、本人だって思ってしまった。今でもそうじゃないかって、どこかで思ってる!」
 澤田君もいつしか正直になって叫んでいた。
「そんなのありえないよ」
「ううん、ありえるかもしれない。この空間の謎が分かったかもしれない」
「ほんと?」
「壁が動いて、揺れた時、猫が一瞬見えたんだ。その猫がグリッチみたいにノイズがかっていて、やがてふたつに分かれたように見えた。そこには二匹猫がいたように見えた」
「揺れてたから見間違えたんじゃないの」
「僕たちが猫を見たとき、色があやふやだったよね。それっていろんな空間にいた猫がひとつに重なっていたんだ」
「訳がわかんない」
 すぐ理解できない私。
 澤田君も上手く説明できなくてもどかしそうだ。言葉を一生懸命探して「うーん」と唸っていた。
「あのね、なぜ僕たちがここにいるか考えたら、その理由は簡単なことだったんだ」
 簡単なこと? 私にはそうは思えない。もう泣きそうだ。
「栗原さん。ずっと前に猫に餌をあげようとした時、自転車に乗ったお爺さんがいきなりどなってきたんじゃなかった?」
 あれ、澤田君にお爺さんのことまで話したっけ? 私はうるさい人って言っただけだったような……。疑問を持ちながら、あの時の事を思い浮かべた。
「うん、そうだったよ。あの時は怖かった。とにかく謝ったけど、なんか悔しくもなって、それで……」
「走って逃げた。それも目を赤くして、泣きそうに、いや、すでに泣いていた状態で走っていた」
「そうだけど、私そのことそんなに詳しく話したっけ?」
「その時、僕は見てたんだ。僕は助けに行きたかったんだ。でもどうしていいかわからなくて、足も竦んで何もできなかった」
「澤田君が私を見てた?」
「それだけじゃない。意地悪な三人組が悪口を言いながら僕とすれ違ったんだ。その三人組の後ろには初恋の人がひとりで歩いていた。虐めにあっていても我慢強くじっと耐えている様子だった。でも目だけはするどくて、虐めていた三人組を睨んでいた」
 まさに私の行動を言い当てられてびっくりする。
「すると道端で立ち止まり辺りをキョロキョロした。待っていたものが自分の前に現れると、鞄からチュールを取り出して、寄って来た白と黒の猫に与えたん だ。その時、初恋の人は猫の名前を呼んだんだけど、僕にははっきりと聞き取れなかった。でも今ならわかる。フクちゃんって呼んでたんだ」
「えっ、それって私? でも……」
「そう、それが僕の一目惚れでもあり、初恋だった。それから声を掛けるためのきっかけを作ろうと、僕も猫に餌を与えてたんだ。そして初恋の人に再びやっと会えたのに、あのお爺さんが邪魔をして僕は何もできなくなった。あの時、僕が声を掛けてたらってずっと思っていた」
「確かにそういう事があった。だけど、私は事故に遭ってないよ」
 澤田君の初恋の人は事故に遭って亡くなったって言ったのに、それじゃ矛盾する。
「あの日、栗原さんもバスに乗ろうとしていたっていったよね」
「うん」
「でも、用事ができたって、それはスマホでメールを送られてこなかった?」
「うん、その通りだけど」
 澤田君のいうことが全て私に当てはまるから驚きが隠せない。
「僕の初恋の人は、それを見て、一瞬引き返そうか迷ったんだ。でも引き返さなかった。だけど栗原さんは引き返した」
 澤田君は何をいいたいんだろう。
「この世界のことを僕はコピー、またはバックアップって言った。でも今思うと、ここが元になるオリジナルだったんだ。僕たちが居た世界がいくつもの分岐点に分かれたこの世界のコピーだったんだよ」
「何を言っているのか、まだわからない」
「栗原さんはメールを見たとき、引き返そうか迷わなかった?」
「うん、確かに迷った。あの日、クラスのみんなで集まる予定があったんだけど、虐められていた私にも声が掛かって、夏休みだったからみんな浮かれてて、こ れで流れが変わるんじゃないかって思ったんだ。その時貰ったメールはリミちゃんからだった。相談したい事があるから今から家に行っていいかって書いてあっ た。リミちゃんからの連絡は久しぶりだったから、それでどうしようかって考えて、あの時は悩んだ末にリミちゃんを優先したの。そしたら、暫くしてバス停で 事故が起こってびっくりした。その時、クラスのみんなも私が連絡しないから事故に巻き込まれたと思ったみたいで、それ以来虐めがぴたって止んだ」
「そっか。そういうタイムラインに乗ったんだ」
「タイムライン?」
「僕がいいたいのは、僕たちはそれぞれの違う世界、すなわちパラレルワールドから来たんだ。選択の岐路に立つと、どれを選ぶかでその先の未来が変わってしまう。栗原さんは、バスに乗らない未来を選んだ。僕が見たのはバスに乗る未来を選んだ栗原さんだった」
「ちょっと待って、それって、何、私がふたりいるってこと?」
「実際は決して交わることのない二つの世界。だからどちらも同一人物ってことだと思う」
「猫……だから澤田君は猫の色が違うけど何匹いるか訊いたんだ。その時、すでにこの事をわかってたの?」
「まだその時はひとつの可能性として曖昧だった。だけど栗原さんの話を訊いていたら、僕の知っていることと被るからあれって、違和感が出て、ようやく今になって謎が解けたって感じ」
「待って、待って、それって、私たち元の世界に戻ったら澤田君の世界には私がいないってこと?」
「うん、そういうことに、なるね……」
 澤田君は言いにくそうだ。
「そんな、私たち、お互い違う世界から来たってことなの?」
「僕は、いつも強く願ってた。あの事故は起こらなかった。初恋の人が生きてるって。そしてまた会いたいとも。それが、お互い猫を追いかけた偶然から、空間の歪みに入り込んで出会ったってことなんだと思う。多分僕が別の世界線の栗原さんを呼んだのかもしれない」
「そんな事って信じられない」
 澤田君の突拍子もない話は、私のキャパシティを越えてしまう。目の前に迫った危機、訳のわからないこの空間。落ち着いて考える暇もなく、パニックに陥りそうだ。
「栗原智世さん」
 澤田君が私をフルネームで呼んだ。ハッとして私は澤田君に視線を向ける。澤田君はこんな時でも笑っていた。その笑顔をみて私は魅了される。
「ずっと声を掛けたいと思っていた。恥ずかしくて、臆病で、何か正当な理由がないと行動に移せなかった。気持ちはいつも後回しで、それでいて一歩前に出る事もしなかった。そのせいで僕は悪い方の選択をしてしまった」
 澤田君が選んだ世界は本当に悪い方の選択の故だったのだろうか。私はそれがひっかかった。
 また激しく揺れだす。私たちは迫ってくる壁を見て恐怖を感じながらも、ふたり手を取り合ってなんとかしたいと踏ん張る。
「こんな時になんだけど、君の名前を知って、呼べたこと、とても嬉しかった。僕がしたかったこと、楽しくおしゃべりしたり、ふざけあったり、一緒に喜怒哀楽を共有したり、思った以上に栗原さんは素敵な人で一緒にいて楽しかった」
「んもう、なんで今そんなことを」
「そうだよね。でもどうしても言いたかったんだ」
「違うの、もっと早くにどうして言ってくれなかったのよ。もっと早く澤田君と出会っていたら、もっと別の世界があったはず。私は澤田君から声を掛けてもらったら絶対に興味を持って、すぐに仲良くなったと思う」
「本当にそうだよね。僕はいつもそれで後悔していた」
 いつだって人生に、あのときこうしていたらというのはつきものだ。今更過去のことは何を言っても仕方がない。私だって、あの時本当は澤田君の存在を無意識に見ていた。
「学校の帰り道、前方にクラスで私を虐めてる女の子たちが歩いてて、すごく嫌だなって思っていたの。できるだけゆっくり歩いて、距離を離そうとしていた。 みんなでかたまって行動している時はいい気になって、とても傲慢で、そんな三人が前から人が来ていても、避けようともせずに見下すように歩いている姿を見 ていてすごく不快だった。私もその人とすれ違うんだけど、その人、気を遣うタイプで私のために端に寄ってくれた。だから、反射で頭を下げたんだけど、なん か恥ずかしくて中途半端になったの。その後に小さく猫の鳴き声がどこからか聞こえて、近くにいると思うと、立ち止まったの。私は鞄から餌を取り出してあげ ようとするんだけど、すれ違った人が遠くから見ているって気がついた。だから私もその時、澤田君のことに気がついていたんだよ」
 あの時の事が突然思い出された。あの時はあの人も猫に餌をやってるのかなって、それで私の様子を窺っていたんだってそんな風に感じていた。それで悪びれることもなく、私は堂々と猫に餌を与えたと思う。私もあの男の子を意識していた。
「そうだったのか。なんだ、バレてたんだ」
「ねぇ、澤田君。ここでのルールはふたりで楽しむことだったよね」
「うん」
「だったら、最後まで楽しもう。壁が迫ってくるのもやっぱりクライマックスだから演出なんでしょ」
 本当は怖くて目が潤みっぱなしだ。この場に及んで私も何をしでかすのかわからない心理状態だった。
「そうだよね。ピンチはチャンスだ」
「澤田君、もう一度あの最初の出会いを再現しよう。最初からやり直すの」
 壁は確実に近くまで迫ってきていた。私たちは路地がクロスする商店街の真ん中で向かい合った。
「それじゃ、すれ違うところから」
 澤田君が後ろに下がった。私も下がる。そして同時に前に歩き出し、澤田君が私に道を譲ろうと避けた。私は顔を上げ澤田君をはっきりと見る。そして微笑んで頭を軽く下げた。澤田君も恥ずかしがりながら、同じように頭を軽く下げた。私たちはお互いを意識してすれ違った。
 次は猫の餌やりだ。そこにいると思って、私は演技する。鞄からチュールを取り出すふりをすれば、澤田君は背後で私の様子を窺う。澤田君ににこっと微笑みをしてから、しゃがんでチュールを猫に差し出すふりをする。
「福ちゃん」
 猫の名前を読んだとき、澤田君が近づいて来た。
「その猫、君に慣れてるね」
「うん。この子すごく人懐っこいよ」
 澤田君は猫の頭を撫でるふりをした。
「ねぇ、名前はなんていうの」
「福ちゃんだよ」
「ううん、君の名前を聞いているんだ」
「あっ、そうか、へへへ。栗原智世。あなたは?」
「僕は澤田隼八」
 私は立ち上がり、澤田君と向かい合う。お互い恥ずかしそうに微笑みあった。澤田君はきっとこのシチュエーションに満足だと思う。私もふりをしていてもとてもドキドキする。
 その時、足に何かがコツンとあたった。
 澤田君も同じように感じたみたいで、私たちははっとして下をみれば、そこには色が定まらない猫が私たちの足に交互に頭を擦りつけながらじゃれていた。
「あっ、猫が見える」
 私の足元で「にゃー」と可愛く鳴いた。
 私はその猫を抱きかかえようと持ち上げる。でも持ち上げたはずなのに、その場にもう一匹残ったままだった。
「あれ、猫が分離した」
 私の抱きかかえている猫は茶色のキジトラだった。もう片方は黒猫だ。
 澤田君も黒猫を抱きかかえる。
「僕は最初にこの黒猫の頭を撫でていたんだ」
「私もこのキジトラが建物の隣で顔を洗ってるのをじっと見ていた」
 ゴゴゴゴゴと地響きと共に壁が迫ってきている。あと一回迫ったら私たちは押し潰されそうだ。
 激しい揺れに立ってられなくて、私たちは猫を手放して床にしゃがんだ。
「どうしよう。この世界の事がわかっても、事態は変わらない」
 私は何も考えられなくなっていた。
「栗原さん。見て」
 澤田君が声を上げる。
「どうしたの?」
「猫たちがそれぞれ、路地の出入り口に向かっているよ」
 私がそれを確かめた時、キジトラは私が入ってきた路地に、その反対側には黒猫がいた。それらは路地へと入っていった。
「もしかしたらこの路地は使えるの?」
 澤田君は黒猫が入った路地に向かって手を伸ばす。するとその手は見えない壁に邪魔されることなくすっと入っていく。
「壁がなくなっている」
 私も澤田君の元に走りより、同じように手を伸ばした。しかし、硬いものにぶつかった。
「えっ、見えない壁がある」
「そんな、僕の時はすっと手が」
 もう一度澤田君は手を伸ばした。それはやっぱりすんなりと入っていった。
 澤田君は反対側を確かめに走った。私も着いて行く。澤田君が同じように手を伸ばしたらこちら側の路地は壁にぶち当たっていた。
「今度は栗原さんがやってみて」
 澤田君に言われるまま、恐る恐る手を伸ばしたその時、すっと何にも邪魔されず入っていくのが実感できた。
「これって……」
「それぞれ、自分が来た道が使えるってことなんだ。栗原さん、僕たちは帰る道を見つけたんだよ」
 ゲームをクリアーして澤田君は喜ぶけど、私は素直に嬉しくなれなかった。
「こんなのって、残酷すぎる。私たち、ここを一緒に出てそれでデートするって約束したんだよ。それはどうするの?」
「そうだけど」
 澤田君の眉根が下がる。
「ここを出たら、私は澤田君に会えないじゃない。澤田君のいる世界では私は死んでるんでしょ」
 私は澤田君の世界では存在しない。すでに自分が別の世界で死んでいるなんて、考えるととても複雑だ。自分が今生きてることって一体なんなのだろう。
「栗原さん、落ち着いて。今、僕の目の前には栗原さんはちゃんと生きて存在している。それは僕が自分の世界に帰っても変わらない。別の世界で栗原さんはちゃんと生きている。僕はそれを確かめられてとても嬉しい」
「でも会えないんだよ」
「そんなことない。栗原さんの住む世界に、僕は存在しているかもしれないじゃないか」
 私ははっとした。そういえばそうだ。
「それじゃまた一から澤田君との出会いを始めなくっちゃ。私のことまた好きになってくれるかな」
「どの世界線でも、僕はきっと栗原さんに会って恋をしていると断言できるよ」
 澤田君は私に笑みを向ける。でもその目がどこか悲しそうだ。
「澤田君、私も……」
 ゴゴゴゴゴ。
 いつも気持ちを伝えようとしたら、それを邪魔するように地響きが鳴る。
「ああ」
 恐怖を襲う轟き、足元をすくわれそうな大きな揺れ、そしてどんどん壁が両サイドから迫ってくる。私たちはガタガタとしながら必死に態勢を保とうとする。
「栗原さん、もう時間がない。早く路地に戻って」
「いや! 澤田君と離れるなんていや!」
「栗原さん、悲しむ必要なんてないよ。僕たちはどんな時もどんな場所でもしっかりと生きていこう。きっとどこにいても気持ちは通じ合える。ぼくたちはパラレルワールドを越えたんだから」
 澤田君は無理やり私を路地に押し込んだ。
「あっ!」よろけるように私は倒れこんだ。慌てて振り返り、手を差し出せば、そこには見えない壁ができていて、裏側からはもう戻れなかった。
「澤田君!」
 発狂したように彼の名前を呼ぶ。
 澤田君は壁が迫って狭くなった空間を、反対側の路地に向かってひょこひょこ走っていく。私は何度も彼の名前を叫びながら壁が重なり合うのを見ていた。
 やがて二つの壁が重なり合った時、目が痛いほどの光がピカッと辺りに広がり、私はまぶしくて目を閉じた。再び目を見開いた時、目の前で人が歩いている姿 が目に入る。震える足でまた一歩商店街に足を踏み入れた。反対側の路地に澤田君が立っている事を願ったけど、そこには誰も立っていなかった。いや、私がた だ見えていないだけなのかもしれない。澤田君も違う世界できっと私と同じようにそこに立ってこっちを見ているのだろう。
 商店街は人や自転車が行き交い、店の中で買い物をしている客の姿が目に付いた。肉が火であぶられる焼肉の匂いがする。暖簾が出て、店に明かりがともっていた。
 その店の前には丸椅子がふたつ並んで置かれている。あれは澤田君が置いたままそこにあるのかもしれない。
 それを暫くじっと見ていると、後ろから女性が現れて、私を不審者みたいに見ていった。
 私はぎこちなく目を逸らし、仕方なく踵を返していた。
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